17
本当に一体、どうしてこんなことになってしまったのか。お風呂から出たあと寝間着に着替えたヒロは、初めて入るエドの部屋のソファーに全くリラックスできない気持ちで座りながらそんなことを考える。
ヒロは視線だけ動かして、自分以外誰もいない部屋を見渡す。エドの部屋は、当然だけれど自分の部屋とは全く違う雰囲気の部屋だった。3つの本棚があり、その全てに本がびっしりと詰まっている。机は整頓されているけれど、普段から仕事などで使っている様子がうかがえる。ヒロは、辺りを見回していたときに、エドが普段寝ているであろう大きなベッドが目に入り心臓が跳ねた。その瞬間、エドの部屋のシャワールームから水の音が聞こえてさらに心臓が飛び跳ねた。ヒロは、辺りを見回すのは止めて、頭を垂れて自分の膝の上に乗る両手をただ見つめることにした。
あのあと、馬車の中でもずっとエドは黙っていた。ヒロは、エドの気持ちがわからずに混乱していた。
「(夫婦ですから、って、はじめに世間一般の夫婦とは違う、仮面夫婦を提案したのはそっちなのに…)」
突然、夫婦であるという契約上の事実を盾にしだしたエドに、ヒロは困惑するしかなかった。彼が一体どういう気持ちでそんなことを言い出したのか、ヒロには思い当たる節が何もなかった。
屋敷に着くと、笑顔の使用人たちに出迎えられた。とりわけ笑顔のハンナは、ヒロに駆け寄るとヒロのコートなどを預かったけれど、ヒロの表情が浮かないことに気がつくと、笑顔を止めた。
「夕食は妻と2人で取る。これからの食事もそうしてくれ」
エドは、自分の身の回りの世話をする使用人にそう告げる。使用人は、目を丸くしたあと、かしこまりました、と頷いた。ハンナは、その話を聞くと驚いた顔でヒロの方を見た。エドのさっきの言葉と、ヒロの浮かない表情が、彼女の中では結びつかないようだった。
エドは、ハンナの方を見ると、頼みがある、と彼女を呼んだ。ハンナは、はい、と返事をするとエドの方を向いた。
「ヒロの部屋は今日から俺の部屋の隣にする。夜は俺の部屋で寝る。準備をしてくれ」
エドはハンナにそう言うと、自室に戻っていった。ハンナは、きょとんとした様子で、は、はい…とエドの背中に返した。その後ハンナはヒロの暗い表情を見て、更に混乱した。
ハンナと部屋に戻ったヒロは、疲れた頭と体から、ソファーに座り込んだ。ヒロのコートとストールを片付けたハンナが、素早くヒロのもとに来た。
「一体旦那様と何があったんですか?」
心配と興味が入り混じるハンナの瞳がヒロを見つめる。ヒロは、目を伏せたまま、わからないんです…と返す。
「何が起こったのか、一体どうしてなのか、私にはさっぱり……」
「でも、食事を一緒にとって、同じ部屋で寝る。普通の夫婦がすることですよね。旦那様がそうするってお決めになったことは、喜ばしいことじゃないですか」
「……」
笑顔のハンナの言葉に、ヒロは、黙ったまま、サイドテーブルに飾られたビルの写真を見る。するとハンナが、じっとヒロの方を見る。
「その方が、奥様は忘れられない、と」
「えっ、そ、そんな話してたかしら…」
「いいえ。でもわかりますよ、そんな意味深に他の男性の写真を飾っていらっしゃるから。屋敷の使用人みんな知ってます」
「えっ」
「それで、浮気性の旦那様と、写真の男性が忘れられない奥様の、お互いの利害が一致した仮面夫婦関係だって、みんなわかってます」
ハンナがあまりにもはっきり言うものだから、ヒロは、そ、そうだったんですか…と力の抜けた声で返した。
「仮面夫婦だった、けれど、旦那様が奥様を思いがけず好きになってしまった、というわけですね」
ハンナの目が輝く。ヒロは、へっ、と素っ頓狂な声が出た。あのエドが自分を好きになった?ヒロはそんなまさか、と呆れたようにため息をついた。
「そんなわけないと思います」
「いいえ、そうだと思います」
「いや、なぜあの人がわざわざ私なんかを好きになるんですか?容姿の悪い、愚図な私をなぜ?」
ヒロは、ハンナの話をまともに聞こうとしなかった。ハンナは、自分のことを徹底的に否定するヒロに目を見開いたあと、それじゃあ、と話しかける。
「それじゃあ、奥様は旦那様のことをどう思われていますか?」
「どう…」
ヒロはハンナの質問に戸惑う。どう思っているかと聞かれたら、どうも思っていない。自分に都合のいい結婚をさせてくれたことや、家のために仕事を頑張ってくれていることに感謝はしている。そのおかげで自分は毎日穏やかに過ごすことができている。けれどだからといって彼のことは、好きでも嫌いでもない。何とも思っていない。
ハンナは、考え込むヒロの瞳を見つめる。
「旦那様はお顔立ちがとっても綺麗ですし、スマートだし、お仕事もできるし、他の女性たちが放っておけないほど魅力的ですよ。少なくとも、写真の男性より見た目はずーっと素敵です」
ハンナがそうヒロを説得する。ヒロは、写真に写るシンプルな顔立ちのジムを見たあと、いやいや、と頭を振る。
「ジムは別に、顔が悪かったわけじゃありません。あんな人と並んだらほとんどの人が霞みますよ。ジムのことを悪く言わないでください。そもそも、人を好きになるのに、見た目は関係ありません。私はジムの中身が好きだったんです」
「さっき奥様は、容姿の悪い自分は好かれないっておっしゃっていましたよ?見た目は関係ないなら、奥様が考える旦那様に好かれない理由の一つがなくなりますよね?他の理由だってもっとよく考えたらなくなるんじゃないですか?」
ハンナの論破に、ヒロは一瞬固まった後、いやいやいや、とまた頭を振る。
「私はこれまで、全く、異性に選ばれてこなかったんです。この20年の人生、たった一度だけ、それだけ。同性の友だちだってほんの一握りしかいない。それなのに今さら、たくさんの人に選ばれるような人が、私なんかを好きになるはずがありません」
ヒロは断固としてそう言い張る。ハンナはそんなヒロに困惑の表情を浮かべた後、それじゃあ、と口を開いた。
「それじゃあなぜ、旦那様はあんなことを言い出したんでしょうか」
「……」
ヒロはハンナの疑問に、…それはわからないです、と答える。そんなヒロに、ハンナは少しだけがくりとした。
「だとしても、これまでが異常だったではないですか。奥様も旦那様もお互いをいないものにしている夫婦だなんて。それが普通の夫婦になれるチャンスが来ているんだと思います。ここで旦那様の申し出を受け入れなければ、またあの日々に逆戻りですよ?そんなの、奥様が不憫です…」
眉を下げるハンナに、自分は彼女から可哀想な女だと思われていたことにヒロは今更気がつく。
「もう結ばれない男性より、気持ちを通じようとしてくれる旦那様です。意固地にならず、旦那様のお気持ちを受け入れるべきだと私は思います」
ハンナにそう、まっすぐな瞳で言われて、ヒロはひどく動揺した。何も言わない彼女も、立ち止まる自分は間違っていると思っていたのかと、そのことにショックを受けつつも、それでも、彼女の言うことも一般的に正しいと思えば、ヒロは黙って頷くしか無かった。
初めてエドと2人でとる夕食は、まるで誰かに不幸があった日の夜のような時間だった。エドもヒロも一言も話さず、目すら合わせず、重い沈黙が部屋に流れる。部屋の隅に控える使用人や、調理場の窓からのぞく料理人が心配そうに2人の動向を見守る。ヒロは、この家で初めて味のしない夕食を味わった。
長い長い夕食の後、ヒロは部屋に戻った。
部屋の移動は時間の関係で後日になったが、今夜からヒロはエドの部屋で寝ることになった。
ヒロは自室のシャワーを浴びて、ハンナの手伝いで寝間着に着替えた。眠る準備を整えたヒロは、このまま知らないフリをしていつものように自分のベッドで眠ろうかと思ったけれど、にこやかなハンナに、参りましょうか、と背中を押されてしまった。
ハンナに連れられて、ヒロは初めてエドの部屋に向かった。ハンナが部屋のドアをノックすると、どうぞ、と中からエドの声がした。ハンナはドアノブに手をかけて、ヒロの目を見た。
「それでは開けますよ」
「…あの、私、やっぱり…」
「奥様、私、応援しておりますから」
ハンナはそう言うと、無情にもドアを開けた。ヒロは、心臓が身体から飛び出るかと思うくらいに緊張した。開いた扉から広がる家族以外の男性の部屋に、ヒロは緊張から吐き気すらした。立ち尽くすヒロの背中を押してエドの部屋に押し込むという最後の仕事をしたハンナは、静かに扉を閉めて去っていってしまった。
「………」
ヒロは、遠ざかるハンナの足音に縋る気持ちで耳を傾けるけれど、すぐに足音は消えてしまった。
しん、と静かな部屋に、ヒロはまだ立ちつくしていた。視線を上げると、仕事用の机の前に座って、何やら作業をしていたらしいエドと目が合った。ヒロは、びくりと小さく震える。
「……」
「……」
2人しかいない部屋は、恐ろしいほど静かだった。ヒロが、沈黙に耐えかねてエドから視線を移動させたとき、ネクタイを片手で緩めながらエドが立ち上がった。
「俺もシャワーを浴びてきます」
どうぞソファーにでも座っていてください、とエドは言うと、部屋のバスルームに向かった。ヒロは、エドの姿が見えなくなったのを見届けた後、大きな大きなため息をついた。
体を岩のように硬くして固まっていたヒロのもとに、シャワーを浴び終えたエドが部屋に戻ってきた。バスルームのドアが開く音が聞こえた瞬間、ヒロは意識が飛ぶかと思った。ヒロは顔などあげられるわけもなく、じっと自分の膝の一点を集中して見続けた。
すると、部屋の電気が消えた。ベッドのそばの柔らかい明かりだけが部屋を照らす。静かな部屋の中で、エドの足音だけが聞こえる。ヒロは、固まって動けないままでいる。どんどんエドの足音がヒロの方に近づいてくる。音を聞きながら、ヒロは背中に汗が伝うのを感じた。すると、エドの足音がヒロの前で止まった。下を向くヒロの視界に、エドの足が映る。ヒロは恐る恐る顔を上げる。寝間着のズボンしか履いていない、まだ少し髪が濡れているエドが、じっとヒロを見下ろしていた。男性の裸など見たことがなかったヒロはぎょっとして固まる。恥ずかしさからどんどんヒロは顔が赤くなる。耐えきれずにまた視線を下ろすと、エドが、しゃがみ込んでヒロの顔を下からのぞき込んだ。相変わらずの綺麗なエドの顔がヒロの瞳に映ったその瞬間、ヒロの握りしめた両手をエドの手が上から包みこみ、そのままエドはヒロにキスをした。
ーー奥様は旦那様のことをどう思われていますか?
ハンナの言葉がヒロの中で繰り返される。
エドは一度ヒロから唇を離した後、またすぐに違う角度から口づけた。ヒロは硬直したままそれを受け入れる。
ーー旦那様はお顔立ちがとっても綺麗ですし、スマートだし、お仕事もできるし、他の女性たちが放っておけないほど魅力的ですよ
またハンナの言葉がヒロの頭の中で響く。ヒロは緊張で朦朧とする意識の中、その通りよね、と心のなかでハンナに同調する。
「(この人は間違いなく素敵な人だ。女性関係は派手だけれど、それを差し引いてもこの人がいいという女性はたくさんいるだろう)」
エドはヒロから唇を離すと、ヒロの体を抱きしめて、首筋に顔を埋めた。エドの体温が、ヒロの着ている服の布1枚だけを隔てて伝わる。
「(この人の考えていることが良くわからない。まさか、この人の恋人と同じ役割を私に求めているわけじゃないだろうし。…なぜ?興味本位?)」
エドは、ヒロの首筋から離れると、もう一度ヒロに口づけた。そして、ヒロの背中に手を添えると、そのまま姫抱きにしてヒロを持ち上げた。ヒロは、エドに体を預けながらぼんやりと、私はほんとうに、今からこの人とするのか、と考える。
エドはヒロをベッドまで運ぶと、優しく寝かせた。そして、ヒロに体重をかけないように、ヒロの上に乗った。両手をヒロの顔の横に置いて、ヒロを上から真っすぐに見つめた。
「(…好かれてもない人に自分の体を見られたくない。好きでもない人とこんなことしたくない。…なんて、そんなこと馬鹿みたいだ。こういう家に生まれた以上、好きな人と結婚できるなんて奇跡みたいな話で、そんな話は、当然のように私にはなくって)」
エドの綺麗な赤い瞳に醜い自分の顔が映った時、ヒロは無性に悲しくなった。
この人がジムだったら。
ヒロは唇が震えた。変えようのない現実ばかりが自分の目の前に広がる。
この人がジムだったら。想いを確認し合えたたった一人の愛しい人だったら、こんな気持ちにならなかった。きっと安心して心ごと委ねられた。
ヒロは、これから始まることへの恐怖と不安から震える唇を何とか噛み締める。さっさと忘れて動き出せと急かす周りの声がヒロの耳の奥で響く。その声はごく当然のことで、いつまでも動き出せないヒロがおかしいのだ。
そんなことわかりきっているけれど、それでもヒロは今、ジムがよかったと、そう心の中で叫んだ。
ヒロに体重をかけないように覆いかぶさっていたエドが、ヒロから上半身を離した。ヒロは、ゆっくりエドを見上げた。
「……ごめんなさい」
エドは、それだけヒロに言うと、ベッドから降りて、上着をつかむと部屋から出ていった。
ヒロはベッドの上で寝たまま、しばらく呆然とそのままでいた。




