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結婚式以来にヒロを交えて両親と会った日から数日間
、エドはいつも以上に仕事に追われていた。最初に言われていた期日が1週間短くなった上に、国王陛下も関心を寄せる資料だというので、エドの焦りとプレッシャーは最高潮になっていた。毎日深夜まで城にいたが、仕事に没頭するうちに帰るタイミングを失い、この日はとうとう泊まり込みで仕事となった。
エドは、気を失ったように事務室の机に伏していた。朝やってきたウィルが、エドの肩を揺すると、頬に書類のあとをつけたエドが、ばっと起き上がった。エドは一瞬状況がわからずに辺りを見渡した。
「……」
「また泊まり込み?」
ウィルが荷物をテーブルに置きながらエドに尋ねる。エドは、作成途中の書類に視線を落としたあと、それが未完成であることを確認すると深い溜息をついた。しかしすぐに、エドはペンを走らせる。そんなエドを見て、ウィルがため息をつく。
「俺が手伝うよ。流石に1週間短くされたのは鬼すぎ」
「……」
エドはウィルの方を見上げたあと、いや、いい、とその申し出を断る。ウィルは、ああそう、と言うと、手を動かし続けるエドをため息をつきながら見つめる。
「シャワーくらい浴びてきたら?叔父さんの部屋の使えば。俺が話つけてあげる」
「…陛下のことを叔父さんって言うな」
「ああ見えて、叔父さん、フランクに接して欲しいんだよ。もちろんエドにも」
「陛下にフランクに行けるわけないだろ。ああもううるさいな、ちょっと黙ってくれ」
「一瞬でも寝てきたら?君が体力あるのは知ってるけどさ。ご令嬢と食事したあと城にとんぼ返りして泊まり込みで仕事するような男だしね」
「ああもう、だからうるさ…」
事務室に、別の人物たちが入ってきた。男たちはエドとウィルに、軽く挨拶をする。エドは、彼らの前では先ほどまでの焦りを見せず、クールですんとした態度で朝の挨拶を返す。そして、焦る素振りを見せずに、スマートな様子で仕事を再開した。ウィルはそんなエドを見て小さくため息をつくと、自分の仕事に取りかかった。
そうしてエドは怒涛の日々を過ごし、とうとう期日がやってきた。なんとか作り上げた書類をアディントン侯爵に渡し、承認を得て、それを持って国王も出席する会議に臨んだ。
その結果は、なんと、致命的な間違いが一箇所あった。書類を確認する陛下の側近である大臣が気が付き、会議が一瞬中断した。しかし、アディントン侯爵がすぐに訂正したため事なきを得た。
会議が終わり、エドは一緒に会議室を出た父親を見た。父親はエドのことなど見もせずに、怒りの感情が黙っていても伝わる様子でさっさとエドの前から去っていってしまった。
エドは、ここしばらくの激務から一応解放されたこともあり、誰もいない事務室に戻ると、そのまま机に顔を伏してしまった。体にどっと疲れが襲い、今すぐにでもベッドに横になりたい気持ちになる。しかし、先ほどの父の失望した視線を思い出すと、エドは体を起こした。久しぶりに見た父のあの様子に、エドは反射的に仕事をする手を動かす。
「(…もっと、やらないと)」
疲労でぼんやりする頭を回転させながら仕事をする手を止めないようにエドはした。手を止めれば、考えたくないことを考えてしまう気がしたからだ。
あの時ウィルに頼んでいたら。
はっ、とエドは手が止まる。しかしすぐに手を動かす。
ウィルならうまくやっていた。自分と違って、本当に優秀な彼ならば。
自分が彼みたいだったら、あんなふうに失望されることがない。むしろ、なんて優秀なんだと父から褒められていたかもしれない。
考え出すと止まらず、エドは頭を抱えたくなる。しかし、部屋に入ってきた誰かに見られたらと思うとそれすらできない。髪をかきむしりたいくらいの混乱を隠して、エドはただ黙々と仕事を続けるしかなかった。
夕方、ヒロは中庭で花を眺めていた。きれいに咲いたローズマリーを見つめながら、ヒロは満足げに微笑む。外は凍えるほど寒くて、ヒロはコートを着て、変な色のストールを巻いていた。
ヒロは、はあ、と白い息を吐いて空を見上げる。日が短くなったこの季節はすぐ暗くなってしまうけれど、星がきれいに見えるからヒロは好きだ。
ふと、エドが帰ってくるのがヒロに見えた。ここ最近ずっとエドは、ヒロの寝た時間に帰ってきて、ヒロが起きる時間には仕事に行っていたから、こんな早い時間に彼の帰宅姿を見るのは久しぶりだった。
「(…その帰りが遅い日の内、3日くらいは家に帰ってこない日もあったから、仕事が忙しかったのか、遊びが忙しかったのか)」
ヒロは、近づいてくるエドに挨拶をするために立ち上がりながらそんな事を考える。エドはヒロの姿に気がつくと、あ、と声を漏らして立ち止まった。ヒロは、おかえりなさいませ、といつも通り簡素に挨拶をした。浅くお辞儀をして顔を上げたとき、ついヒロがぎょっとしてしまうほど顔色の悪いエドが見えた。普段から白い肌をしている彼だけれど、今日は病的に白かった。目の下にクマがある。ヒロはエドの顔を見たまま固まってしまう。
「(……だ、大丈夫だろうか、この人…)」
「…ただいま帰りました」
エドは、声だけはいつも通り発すると、ヒロの横を通り過ぎようとした。ヒロは咄嗟に、あの、と声をかけてしまった。エドは立ち止まりヒロの方を振り返った。
「なんですか?」
「…あ、えっと…」
「……」
「……」
ヒロは、つい呼び止めてしまったものの、何も話すことがなかった。よくよく考えなくても、ヒロは夫であるこの人とろくなコミュニケーションをとってこなかった。だからこの人のことなどほとんど知らないし、どんな会話をしたら良いかなんてわからない。けれど今、この人をこのまま一人にしてはいけないような気がしたのだ。
「き、今日!」
「はい」
「街の種苗店に行ったんです。なにか新しく育ててみようと思って」
「はあ…。商人を家に呼べばいいのに、なんでわざわざ」
「実際に見に行ったほうが種類も豊富ですし、気分転換にもなりますので」
「(…種屋に種を買いに行って、花を植えて、気楽なもんだな…)」
エドは、呑気なヒロにそんな感想を抱く。しかし、お飾りの妻に彼女をしたのは自分であるから、エドに彼女をそう蔑む権利はない。そんなことわかりきっているはずなのに、考えてしまうほどエドは疲労困憊していた。
ヒロは、疲れ切っているエドに、えっと、えっと…と、言葉を探す。
「だからその、…あなたも何か、気分転換をされたらどうかって」
「は?」
「とっても疲れているようだから」
ヒロは、そう言い終わってから、これは禁句だったかもしれないと背中が凍った。前に同じことを言って彼を怒らせたからである。
エドは、じっとヒロの方を見つめている。
「(…疲れている、…なんで俺は、この人の前で疲れたところを見せているんだろうか)」
エドはそんなことを疲れた頭でぼんやりと考える。あまりにも疲れ過ぎて、他人の前でとりつくろう余力すら残っていないのだろうか。それとも、この人があんまりにものんびりとしているから、自分も脱力してしまうのだろうか。
エドは、すいません、とヒロに謝った。
「態度に出すなんて、大人げなかったです。あなたに気を使わせました」
「ああ、いえ…」
「少し、仕事に追われていました。…結局駄目でしたけど。俺なんてそんなものです。頑張ったところで結局落ちこぼれは落ちこぼれ…」
そう言いかけて、エドははっとした。なんでまたこんなことをこの人に言ってしまうのか。エドはわけが分からずに混乱する。
ヒロは、固まるエドを見上げる。前にアディントン侯爵の新居に訪れた時に見たエドを思い出す。父親に言われたことを、否定することなど許されない中でエドは生きてきたのだというのをひしひしと感じていた。父親の、これぐらいできて当然だという物差しに必死に合わせるエドの姿を、ヒロはこれまでに何度も見てきた。普段の姿からは想像できない泥臭い彼を、彼が否定する彼自身を、認める人がいないのだろうかとヒロは思う。誰か、彼の周りにいるたくさんの人の中で、彼を救う人は居ないのだろうか。
自分なんかに彼は救えない。彼を救う人は自分以外の誰かに違いない。そうだとしてもヒロは、今この瞬間のエドを放っておけなかった。自分に居場所をくれた彼に対して、ただ純粋に、ヒロは感謝してきたからだ。
「…私、よく花を見るんです」
ヒロは、風に揺れるローズマリーを見た。エドは、はあ、とヒロの言葉に相槌をうつ。
「素直に綺麗だと思えたら、心が元気だってわかる。思えないと少し心が弱ってるってわかる。あなたは、今日は綺麗だと思えないかもしれない。でも、それでいいんだと思います。綺麗に思えない日があるからこそ、驚くくらい綺麗だって、涙が出るほど感動できる日が来る。こんなに頑張っていらっしゃるんですもの。明日からあなたが花を綺麗だと思える日がたくさん訪れて欲しい。私はそう願っています」
ヒロは、花を見つめながら話す。
エドは、ヒロにつられて花の方を見る。花なんて、エドは綺麗だと思ったことがなかった。それでもエドは、ぼんやりと花を見つめた。冷たい風が吹いて、花がそれに揺らされる。視界の端に映るヒロの長い髪も揺れる。エドははっとして、ヒロの方を見る。ヒロは、エドの視線に気がついて、エドの方を見た。そして、ヒロはエドに優しく微笑んだ。
「それにあなたは、落ちこぼれなんかじゃないです。私はそう思います」
そう言いながら、まあこの人が私にそう思われたところでなんとも思わないだろうけれど、とヒロは内心自虐する。
エドは、ヒロの方を見て、いえ、綺麗です、と返す。ヒロは、えっ、と声を漏らす。冷たい風がまた吹き付けて、ヒロとエドの髪を揺らす。エドはずっとヒロの方を見つめている。
「今まで見た何よりも、きれいに見える」
エドの言葉に、ヒロは、ほんとうですか、とうれしそうに目を細める。そんなヒロに、エドは目を丸くする。ヒロは、すぐに花の方に視線を移す。
「大切に育てた甲斐がありました」
ヒロは、ローズマリーに微笑みかける。そんなヒロの横顔から、エドは視線が離せなくなる。
「(…この人に、自分のことを好きになってもらいたい)」
エドは、ヒロの横顔を見つめながらそんなことを突発的に、しかしとんでもなく強い気持ちで考えた。
「(この人に愛される人が羨ましい。どんなに素敵な人になれれば、この人に愛されるのだろうか。俺はなれるのだろうか)」
そんなことを考えたとき、エドの中で昔の記憶がよみがえる。
ーーあなたには中身がないのよ
エドは、記憶の少女の言葉に胸をえぐられる。そう言われたあの日からずっと、エドは自分が空っぽなのだと思い知った。何もない自分は、彼女に愛されることなんかできるはずがない。彼女が思い続ける男性に勝てるわけがない。そんな思いが押し寄せて、エドは落胆する。
「そうだ、この花、ローズマリーなんですけど」
ヒロは、どこからか取り出した園芸用ハサミで、ローズマリーを1本切った。そして、エドに見せた。
「お茶にもなるんです。またハンナと作ってお持ちしますね。よかったら飲んでください」
ヒロは、お疲れなのに引き止めてごめんなさい、お仕事お疲れさまでした、とエドに軽く会釈をした。エドは、これで会話が終わるのかと名残惜しい気持ちでヒロを見る。何か会話はないかと、花を収穫していくヒロの背中を見つめる。しかし、なかなか適当な会話がエドには浮かばない。自分はこんなふうだっただろうかと、エドは内心焦る。
「…それは、お茶用ですか?」
他愛のない話でもいいかと、エドはそんなことを聞いた。ヒロは花を数本持つと、いいえ、と頭を振った。
「ジムが好きな花なんです。なんだか面白いですよね、彼、冬が大嫌いなのに、冬に咲くこの花が好きなんです。だから、ジムに見せてあげようと思って」
でもやっぱり、後でお茶にしようかな、とヒロは花を抱えて微笑む。暗くなりかけた夕日が差し込む。笑顔のヒロがそれに照らされる。
ほとんど反社的に、エドはヒロの腕を引いてしまっていた。ヒロは驚いた反動で、持っていた花を落としてしまった。慌てて拾おうとするけれど、強い力でつかむエドがそうさせない。ヒロは、何がどうなっているのかわからずに、エドの方を見上げる。エドの赤い瞳がヒロを捕らえて離そうとしない。ヒロは、エドの迫力に体が硬直する。
「次の日曜日」
エドがヒロにそう話す。気迫すら感じるエドの様子に、ヒロは完全にひるむ。
「出かけましょう、2人で、街へ」
エドの突然の提案が理解できず、ヒロは、しばらく固まってエドの顔を見つめるしか無かった。




