13
日曜日、ヒロはエドに連れられて、アディントン侯爵と夫人が住む邸宅に訪れた。街から少し離れた閑静な場所にあるその屋敷は、エドとヒロが住む屋敷よりは幾分狭かったけれど、夫婦2人が住むには充分すぎるくらいに広かった。ランチを一緒に、という話だったので、11時頃にエドとヒロは到着した。
義理の両親に会うということで、ヒロは普段と違ってきちんとした恰好でやってきた。自分にしてはおしゃれなドレスに、それだけでは寒いのでコートを羽織った。エドは普段の仕事と変わらない恰好でいた。馬車に乗り込むとき、ヒロの姿を見たエドは、少しの間黙ったあと、何も言わずに車内の席に座った。彼の反応から、変な格好だっただろうかとヒロは不安になるが、着替える暇もなくそのまま馬車は発車してしまった。
屋敷の前で馬車から降りると、エドとヒロは数名の使用人に出迎えられて屋敷に入った。広いリビングにて、アディントン侯爵と夫人はソファー座ってお茶を飲んでいた。相変わらずの仲よさげな夫妻の姿が見えて、ヒロはほほ笑ましく思った。
「まあまあ、いらっしゃい、エド」
アディントン夫人は、嬉しそうにエドの肩を撫でた。エドは、お久しぶりです、と夫人に微笑んだ。
「少し痩せたんじゃない?ちゃんと食べているの?」
「はい」
「そう?ならいいけれど。さあ、お座りなさいな」
夫人はエドの腕を引いて彼らの向かいのソファーにエドを座らせた。ぽつんと取り残されたヒロは、すすすとエドの後を追って、エドの隣りに座った。
使用人によってエドとヒロの前にお茶とお茶請けも用意された。
夫人はエドに、あなたこれが好きだったでしょう、とカラフルなマカロンを彼に勧める。はい、とエドは笑顔で答えるとそれを食べる。ヒロはそんなエドを横目で見る。
「(…甘い物は食べないんじゃ)」
「美味しいでしょう?あなたの好きなお店のものを取り寄せたのよ」
「ありがとうございます。とってもおいしいです」
笑顔で母とやりとりをするエドに、ヒロは、自分の記憶違いか、と思い直す。
アディントン侯爵が、エド、と呼んだ。
「前の仕事はどうなっているんだ?」
「進めています。期日には間に合います」
「前に言った日よりも1週間早く資料が必要になった。陛下が気にかけていらっしゃる。間に合うな?」
アディントン侯爵の言葉に、仕事のことはよくわからないヒロだが、期限を1週間も短くされるのは酷なのではと心のなかで呟く。しかしエドは、顔色一つ変えずに、わかりました、と従順に返す。ヒロは、そんなエドの横顔を見つめる。
「(…本当に可能なのか、できないと言えないだけなのか)」
前に書斎で見た様子から、おそらく後者だろうと推測したヒロは、エドから視線を外して紅茶を一口飲んだ。
その後も、ずっとエドとアディントン侯爵の仕事の話が続いた。そんな2人を嬉しそうに夫人は眺めていた。ヒロは、自分の出る幕ではないので、ただ黙々とお茶を飲みお茶請けを食べていた。
「できて当然だな」
何度もアディントン侯爵がそうエドに言ったのがヒロには印象的だった。エドにできないなど言わせない威圧的な口調と、彼が実際に自分の息子にはそれが可能だと信じ切っている雰囲気を感じさせた。アディントン侯爵はおそらく、休みの日に床に倒れて気絶するように寝るまで仕事をする息子の姿など想像もついていないのだろう。
こんな調子の会話はランチまで続いた。ヒロは、自分もアディントン侯爵家の人間のはずなのに、輪に入れてもらえていないのをひしひしと感じながら、味のしないランチをひたすら口に運ぶ作業を続けるしか無かった。
食後の紅茶を終えた後も、エドとアディントン侯爵は仕事の話をしていた。まだ続くのかと思ったヒロはふと、窓から家の庭を眺めた。綺麗に手入れをされたその庭にヒロが見入っていると、お外に出られる?と夫人がヒロに尋ねた。ヒロは、え、と声を漏らした後、ここにいてもしょうがないし、と思い、はい、と頷いた。すると夫人が、なら案内するわね、と笑うと立ち上がった。ヒロは彼女に続いて外を出た。
「ここがお庭よ。私がいろいろうるさく注文つけて整えさせているのよ」
夫人はヒロに、庭の自慢を始めた。ヒロは、確かに人に見せたくなるような立派なお庭だと感心する。庭を眺めるヒロに、ゆっくり見ていらしてね、と言うと夫人は家の中に戻ろうとした。
「そうだ、ヒロ」
夫人はヒロの方を振り返ると、ヒロの方に近づいた。はい?とヒロは夫人に自分からも近づいた。彼女は変わらない笑顔で口を開く。
「浮気は男の甲斐性。こんなにエドは仕事を頑張っているんだから、少しくらいは目を瞑ってあげなさいね。それが女に必要な器よ」
そうヒロに微笑むと、夫人は家の中に入っていく。ヒロは彼女の背中を見えなくなるまで見つめたあと、はあ、とため息をついた。
「(…なんだそれ)」
ヒロは、庭の木の前にしゃがみこむと、下から上に木を見上げた。今の季節、葉っぱが落ちて少し寂しそうな枝が、しかし強い生命を感じさせるように風に耐えている。
「(…あの人も、ずっとそう言われてきたのかな)」
夫人の笑顔を思い出しながら、ヒロはそんなことを思う。あんなに夫婦仲良さそうに見えているけれど、アディントン侯爵もおそらくそういう関係の女性が何人かいて、それを我慢しろと彼女の義理の母に言われて、我慢して、そして次は自分が息子の嫁に我慢しろと強いる側になった。
自分はエドの浮気については何も思わないけれど、彼女の孤独はわかる気がした。はたから見てもアディントン侯爵と仲良くしているのがわかる夫人はおそらく侯爵のことを愛しているのだろう。愛しているのならなおさら、愛する男の心が他の女にあるとわかったときの辛さは凄まじいものだろう。
「(そして、その父の英才教育を受けた息子があれってわけね)」
ヒロは、エドの顔を思い出して苦笑いを浮かべる。
ヒロは、笑い終わると、ふと、整備された庭の地面に咲く小さな野花を見つけた。徹底的に夫人の思う通りに整えられている庭ならば、こういった野花は撤去されているのだろうけれど、この子はその厳しい目を逃れてここに咲いているのだろうか。
「……あなたも綺麗よ。ここで無事咲いていけるのかしら」
ヒロは、さらに地面に視線を落としてその花を見つめる。花は風に吹かれて、花弁が揺れる。
「…こんなところにいたんですか」
ヒロははっとして顔を上げた。そこにはエドがいた。ヒロはしゃがんだまま、どうかしたんですか、と尋ねた。エドはヒロのそばにきて、しゃがみ込むヒロを見下ろした。
「もう帰りますよ」
「ああ、そうだったんですか」
ヒロは苦笑いをエドに向けると、立ち上がろうとした。すると、エドがヒロのすぐ隣にしゃがみ込み、ヒロと視線を合わせた。エドの赤色のきれいな瞳に目を丸くしたヒロが映る。
「(……なに?)」
「……一つ聞いてもいいですか?」
「え?ええ、はい、どうぞ」
「………どうして、前に贈ったストールを使わないんですか?」
「ストール?」
ヒロは、一瞬何のことかわからずに固まった。少しの間の後、あの派手なストールのことかと思い出し、ああ、と呟いた。
「つけていく機会がなくって。せっかく立派なのをいただいたから、一番はじめに使うのが家の庭の作業というのは、なんだかもったいなくて。汚しそうですし」
「…では、今日はその機会だったのでは?」
「こ、コートだけあれば寒さは大丈夫だと思ったんです。ストールだけだと寒いし、コートもストールもつけたら暑いし…」
「…」
「…」
どんどん不機嫌になるエドに、ヒロは言葉を詰まらせる。
「(…さっき言った言葉は本当…。でも、一番の理由は派手すぎるから使い方に困っているということ……)」
ヒロは、エドの視線から逃れるように目線を泳がせた。エドは、ヒロから視線を外すと目を伏せた。
「(…やっぱり、俺のことを嫌っているのか…それは当然か…)」
「(…どうしよう、こういう自信満々な人に、あなたの趣味が私にはイマイチだったんですとか言ったら絶対傷つくよね…でも誤魔化しても察しそうだし、角の立たない言い方はないかな…)」
「…」
「…」
「すいません、俺が余計な物を、」
「ごめんなさい!あのストール私には、」
2人同時に話しだしてしまった。2人は同時に言葉を止めてお互いの目を見た。ヒロは、ど、どうぞ、とエドに先に言うように促した。エドもヒロに、どうぞ、と促す。
「…どうぞ」
「いえ、そちらから」
「レディーファーストですから」
「いや、使い方違いますし」
「どうぞ」
「…」
ヒロは、エドの圧に負けて、先に話し始めることにした。
「…ごめんなさい、あの柄が私には派手で…。あのストールに似合う格好に悩んでいたら、結局使わずじまいになってしまい…」
「…」
「でも、家で一番最初に使うのがもったいないと思ったのは本当なんです。また外に出る機会があればその時に使います」
「…なんだ」
ヒロは意を決してエドに話したけれど、意外にもエドは怒るどころか安堵の表情を浮かべていた。ヒロはそんなエドの気持ちがわからずに固まる。
「(怒ってない?どういう感情?)」
「…帰りましょうか」
エドはそう言うと立ち上がった。ヒロは、あ、はい、とまだ混乱しながら立ち上がろうとした。すると、しばらくの間しゃがんだ態勢でいたからから足が思うように伸ばせずに、そのまま地面の方に体が倒れ込む。それに気がついたエドが慌ててしゃがみ、地面に倒れそうなヒロを抱きかかえて支えた。エドはヒロの両肩を両手で支え、片ひざをついたところにヒロの上半身をもたれかけさせた。ヒロの頭がエドの胸にひっつく。
「(…あたたかい)」
エドは、初めて抱きしめるヒロに、そんなことを思う。いつも距離を取り、関わろうとしなかった彼女にも体温があり、人間だったのだということを再確認する。この人は放っておいても構わないのだと、妻という名前があればいいだけなのだと、そんなヒロに対する認識が少しずつエドの中で変わろうとしていた。
「花!」
エドに抱きしめられたヒロが、慌ててエドの肩を持ち、エドの向こう側の地面を確認した。ヒロとエドのおがいの冷たい頬が触れ合う。
ヒロは、無事に綺麗に咲いている野花を確認すると、はあ、とため息をついた。
「びっくりした…私のせいで踏んでしまったかと…」
ヒロは安心しながら、エドの肩にあごを乗せたまま肩の力を抜いた。そのときに、はっとヒロは目を見開いた。自分がエドに抱きかかえられていることに気がつくと、慌てて、ごめんなさい!と言ってエドから離れようとした。しかしエドは、また転びますよ、とヒロの肩を引いた。ヒロは、消え入りそうな声で、ごめんなさい…とエドに謝った、
「(…お兄様と比べたら華奢だと思っていたけど、ちゃんと男の人なんだな…)」
ヒロが離れようとしてもエドに力で敵わないことや、しっかりヒロを包むように抱えられてしまうエドの体の大きさに、ヒロは不覚にも心臓が動く。
エドはヒロの体を支えながらゆっくり立ち上がり、ヒロがちゃんと立つのを確認すると、ヒロから手を離した。そして、ヒロに怪我がないことを自分の目で確認すると、ヒロにも怪我はありませんかと尋ねた。ヒロは、は、はい、と頷いた。
ヒロはエドを見上げて、ありがとうございました、とお辞儀をした。目を見てお礼を言わないとと思ったけれど、とても見つめられそうになかった。
「すいません、私、愚図だから…」
「愚図?」
「あの、どんくさいから、私…よくこけたりして…」
ヒロはしどろもどろになりながら答える。兄から何度もぐずだぐずだと言われたことを思い出す。
エドはヒロの瞳を見つめたまま、そうですか?と口を開いた。
「あなたがよくこけるのは、それは筋力不足だと思います」
「きん…」
「愚図なんかじゃないと思います。…とにかく、怪我がなくて良かった」
エドはそういうと、両親に挨拶だけして帰りましょう、とヒロに言った。ヒロは少しだけぼんやりしたあと、は、はい、と頷いた。




