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いつもどおり、いつのまにかエドが仕事へ出てしまった日の朝、朝食を終えたヒロは中庭で花壇の世話をしていた。すっかり冬になり、水やりの際に指に水滴が付くと凍りそうなほど冷たくなる。ヒロは、寒さに負けずに咲く花を見つめて小さく微笑む。


「奥様、お客様です」


ハンナがヒロを呼びに来た。ヒロは、お客様?と首を傾げた。


「奥様のお兄様です」

「えっ?」








突然の兄の訪問に驚きながらも、ヒロは慌てて応接室に向かった。応接室に座るランドルフに、ヒロは、おはようございます、と挨拶をしながら向かいのソファに座った。ランドルフは、おはよう、とヒロに軽く挨拶をする。


「突然悪いな」

「いえ、でもどうしたんですか?しかもこんな朝から」

「いや、…大したことはないんだ。ヒロが元気にしているか気になって」

「そ、そうなんですか?」


ヒロは不思議そうにランドルフを見つめる。ランドルフは、どこか落ち着きのない様子で紅茶を飲む。ランドルフはしばらく黙り込んだあと、意を決したようにヒロの方を見た。


「エドは?仕事か?」

「ええ、はい」

「仲良くしているのか?」


ランドルフの質問に、どう答えるべきか悩んだヒロだけれど、仲良くしていないと素直に答えると余計な心配をかけると考えて、はい、と嘘をついた。そんなヒロを、ランドルフが疑う瞳で見つめる。


「…前にビル伯爵の誕生日パーティーがあった。エドはいたが、お前はいなかった」

「(そんなのあったんだ…)ああ、ええと、体調がよくなくって…」

「その時、エドは別の女性と親しそうにしていた。前のパーティーだけじゃない。あいつを社交の場で見かけるたびに、お前はいないし、あいつは別の女と仲良くしている。一体どうなっているんだ?あいつはお前と結婚してなお、派手な遊びを続けているのか」


ランドルフの言葉に、ヒロは固まる。彼にここまで知られているのなら、いえいえ仲良くしていますよ、なんて嘘は通らないのだとヒロは察する。ヒロは目を伏せて、小さくため息をついた。


「(エドに浮気されている私を見かねて、心配してわざわざここまで来てくれたんだ。…どこまでお人好しなんだろう、この人は)」


ヒロは、昔から自分の世話を焼いてくれたランドルフの兄としての姿を思い出す。他人となった今も、兄として妹の心配をする癖が抜けないのだろうか。偽りだとしても兄妹として育ってきた人間への家族としての情が抜けないのだろうか。どちらにしろ、彼の優しさがヒロには痛い。

本来ならば、彼の感想が正しい。嫁いだ先で、旦那に無視をされて、旦那は別の女と遊び続けているだなんて、そんな可哀想な話はない。けれど、ヒロは違う。この状況が、彼女にとっては有難いのだ。それがランドルフに伝わるかは、ヒロには分からなかった。しかし、こんなふうに嫁ぎ先の家にまで心配して来てくれたのなら、黙り込んでいるわけにはいかない。ヒロは少し考えたあと、ゆっくり口を開いた。


「…お父様とお母様には内緒にしていただけますか」


ヒロはランドルフの瞳をじっと見つめて言った。ランドルフはヒロの瞳をみて少し考えたあと、わかった、と頷いた。


「…お兄様が見たエドの行動を、私は許可しているんです」

「はあ?なんでそんなこと…」

「彼が、私を愛さないと言った。だから私も彼を愛する必要がない。だから、私はジムのことをこれからもずっと好きでいられる。アディントン侯爵家に嫁ぐことで家の役にも立てる。私にはこれ以上ない条件なんです。お兄様には彼だけが不誠実に見えるかもしれませんけれど、私も同じくらい不誠実なんです」


ヒロの言葉に、ランドルフは唖然とする。ランドルフは、はあ、と深い溜息を吐きながら額に手を当てて考え込んだ。ランドルフは手を膝に乗せてまた深い溜息をついたあと、ヒロの方を見た。


「…ジムのことをまだ忘れていないのか」

「忘れる気がありません、私はこれからも、」

「ずっと俺は言っていた。とっととあんな男を忘れろ。忘れたほうが幸せだって」


ランドルフの語気が強まる。ヒロはそんなランドルフに口を噤む。


「ジムを忘れたくないから、結婚相手から愛されることのない結婚を選んだ?家のためにもなるし好条件?馬鹿なことばかり言うな。そもそも、お前がこんな状況で結婚して、父さんたちが喜ぶわけがないだろう」


ランドルフは、ヒロの方をまっすぐに見つめた。


「…こんなところに嫁ぐくらいなら今すぐ帰ってこい。俺が父さんたちに説明する。絶対にわかってもらえる」

「い、嫌です、帰りません」

「なぜだ」

「ここが私の居場所だからです」

「こんなところのどこにお前の居場所がある?」


呆れたようにヒロを見るランドルフに、やはり彼には理解されないと、ヒロは目を伏せる。


「…お兄様には信じていただけないかもしれませんが、こう見えて私、ここでの生活が楽しいんです。結婚するまでずっと、私は苦しかった。ジムが他の人と結婚してしまってから、立ち上がれない私をみんな立ち上がらせようとした。その方が幸せだからって。でも私にはそう思えなかった。だって私は座り込んでいたかったから。立ち上がって新しい場所へ歩き出したいなんて思っていなかったから。誰にも何も言われずに座り込める場所が欲しかった。それが、ここなんです」


ヒロの言葉に、ランドルフは怒りで言葉を失った。ランドルフは、なんとか怒りを押し殺して、見かねたら俺がすぐに家に連れて帰る、と言い残すと、勢いよくソファーから立ち上がって応接室から出ていってしまった。静かになった部屋に、ヒロはしばらく座り込んでいた。








父と仕事で他領に出かけた帰りに、次の約束まで時間があったエドは、1人で少しの時間街を歩いた。ふとエドの目に入った店に、ストールが売っているのが見えた。


「(…そういえばあの人、まだあの変なストールを使っているんだろうか…)」


めったに自分から買い物をしに店に行かないエドは、興味本位から店内に入り、商品棚を眺めながらそんなことを考えた。女性の店主が、贈り物ですか、と愛想よくエドに尋ねる。


「どういった色が好みの方ですか?」

「好みの色…」


店主に尋ねられても、エドは何もわからなかった。そもそもあの人は普段どんな服を着ていただろう。何が好きで、どんな性格の人なのだろうか。しばらく考えたけれど、彼女が花が好きで、クッキー作りが下手だということしかエドの頭には浮かばなかった。


「…流行りのものを包んでくれ」


エドは考えるのを放棄して、そう店主に告げた。店主は一瞬目を丸くしたあと、すぐに愛想よく、畏まりました、と答えた。

包装されたストールを携えて、エドは馬車に乗り込んだ。そろそろ向かわないと、次の仕事の約束の時間に間に合わなくなる。

エドは馬車に揺られながら、プレゼントのストールをちらりと見た。


「(…あの人は喜ぶんだろうか)」


エドはふとそんな事を考える。エドが他の女性に贈り物をすれば、大抵皆喜んで、アクセサリーなど身につけるものなら次会う時に着けてくる。ヒロもきっとそうに違いない、そう考えるとエドはストールを鞄にしまった。











ヒロはまた、調理場でクッキーを作っていた。ランドルフから言われた言葉を忘れたくて、何かに熱中したくなったのだ。

夕食の下準備をする料理人が、今日は大丈夫かと、時折心配そうに視線を送る。そんな視線にヒロは苦笑いを返しながらクッキー作りに励んだ。

クッキーの生地をつくり、型を抜いて様々な形にして、鉄板にそれらを並べていたとき、使用人たちが、おかえりなさいませ、と頭を下げた。彼らの視線の先を見ると、仕事帰りらしきエドがいた。ヒロもエドに、おかえりなさいませ、と頭を下げた。


「ただいま帰りました。…またクッキー作りですか」

「今日は成功する予定です」


ヒロはそう苦笑いを漏らす。そして、クッキーののった鉄板をオーブンに入れて焼く準備を始めた。


「(…私にわざわざ話しかけに来るなんて、何か良いことがあったのだろうか)」


オーブンの調整をしながらヒロは心のなかでそんなことを考える。ヒロは、自分がオーブンを触るのをじっと見ているエドに気がつくと、驚きながらエドの方を見て、え、ええと、と挙動不審に呟いた。


「あの、…私に何か御用でしたでしょうか?」

「いえ、それが終わってからでいいです」

「あっ、えっ、…あっ、終わりました、何でしょうか」


エドが自分に用があるなんて一体何事だと焦りながらオーブンの調整を終えたヒロは慌ててエドのそばに近づいた。エドはヒロの方を見ると、カバンの中に手を入れた。そして、鞄から包装されたものを差し出した。ヒロは、何がなにかわからないままそれを受け取った。


「え、ええと…?」

「ストールです。出先で見かけたもので」

「え、わ、私に、…ですか?」

「はい。あんなストールを着けさせていたら、俺が恥ずかしいので」


エドの言葉に、あ、あはは、とヒロは苦笑いを漏らす。

使用人たちは、珍しく夫婦で会話していること、さらにはエドがヒロに贈り物をしていることに感動して、2人の様子に見入っている。ハンナは感動から目に涙を浮かべている。


「(…別に外にはつけていかないし、そもそも、外に行く用事ほとんどないし。そんなこと放っておいてくれたら良いのに)…あの、開けてもいいですか?」

「もちろん」


ヒロは、包装を開けていく。中からは、ヒロが絶対に着けなさそうな、派手で華やかな柄のストールが入っていた。ヒロはそれを両手で広げて眺める。


「(…私にとっては変な色のストールくらい外につけていけないんですが…)」


ヒロはストールをじっと眺めながら反応に困った。エドがいつも連れているような素敵な女性なら似合うに違いないのだが、地味で目立たない自分がつけたら冗談のような格好になるような予感がヒロにはしていた。

ヒロは、ゆっくりエドの方を見上げた。エドはヒロの感想を待っているのか、じっとヒロの方を見ている。ヒロは戸惑ったあと、にこりと目を細めて嬉しそうな顔をした。


「ありがとうございます、こんな素敵なストールをいただけて、とっても嬉しいです」


ヒロがそうお礼を言うと、エドは素直に嬉しそうな顔をした。目を細めて口元を緩めた顔をする彼が、普段の冷たい表情をする人とは別人のように違った。そんなエドに、ヒロは意外な気持ちになる。


「(…お礼を言われて喜ぶなんて、意外と単純なところがあるんだ…)」


予想外に素直なエドのことを不覚にも可愛いとヒロが思ったとき、オーブンから焦げ臭い匂いが漂ってきた。











ヒロは、オーブンから焦げたクッキーを回収していく。お皿に移し替えながら、前よりは多少ましかな…と考える。

料理人たちは夕飯に使うのに足りない材料に気がついたらしく、慌てて買い出しに行ってしまった。ハンナは掃除があるからと調理場を出てしまった。けれどヒロには彼らが自分とエドを2人きりにしようという気遣いを見せたのだとわかっていた。

ヒロは、焦げたクッキーに視線を落としながらため息をつく。


「(…変な柄のストールに気を取られたから…ということにしておこう)」


ヒロは心のなかでうんうん、と頷く。ヒロはふと、ヒロの隣に立って焼きあがったクッキーを眺めるエドの横顔を見つめる。


「よろしかったら召し上がりますか?」


ヒロは、前と同じ冗談をエドに言った。するとエドは、えっ、と声を漏らしたあと、そうですね、と言って、彼の一番近くにあるクッキーを手に取った。ヒロは驚いて目を丸くする。


「えっ、」

「いただきます」


エドはそういうとクッキーを口の中に放り込んだ。ヒロは、あの焦げたやつをエドが一口でいったことに衝撃を受ける。案の定、余りの苦さにエドは口元を手で押さえる。慌てたヒロがコップに水をくんでエドに渡す。エドはその水を一気に飲み干して、そして、はあ、と息を漏らした。

ヒロは、おずおずとエドの方を見た。


「あの、…冗談、だったんですが…」

「…知っていましたよ」


そう返すエドに、じゃあなんで、とヒロは聞く。エドは少し黙ったあと、何となく、と言った。


「なんとなく…」

「何となく、…あなたの元恋人がどんな気持ちでこれを食べていたのか気になって」


エドの言葉に、ヒロはきょとんとする。ヒロは、あまりにも突飛な彼の言動にくすくすと笑ってしまった。そんなヒロを、エドは横目で見つめた。


「それで、何かわかりましたか?」


ヒロは笑いながらエドに尋ねた。エドは焦げたクッキーに視線を落とした。


「その人があなたのことを、本当に好きだったんだろうなって、それだけは」

「えっ」

「でなければ、これを笑顔では食べられないから」


エドの言葉に、ヒロはまた目を丸くした。ヒロは少し目を伏せたあと、ゆっくり微笑んだ。


「…とっても、大切にしてくれました」


エドは、ヒロの方を見た。ヒロはまた目を伏せた。


「…私は器量が良くないし、性格が明るくないし、そんなヒロのことを好きになるのは僕くらいだって、よくジムから言われました」

「……?」


ヒロの言葉に、エドは少しの違和感を持つ。そんなエドには気が付かず、ヒロは話を続ける。


「こんなだから、私は異性から全然好かれなかったけれど、たった1人、ジムにだけ好きになってもらえて、それだけで充分に幸せでした」


ヒロの言葉に、今度はエドが目を伏せる。


「…あなたは良いですね、幸せそうで」


エドは、そう言ったあとすぐに、嫌味に聞こえただろうかと焦った。エドがヒロの方を見ると、ヒロはきょとんとしたあと、そんなことありませんよ、と頭をふった。


「私には、あなたのほうが幸せそうに見えますよ。たくさんの人に好かれて」


自分はジムと出会えた幸せな人生がある、という事実とは別に、ただ単純に、エドのようにたくさんの異性に好かれる人生は幸せだろうというヒロの認識があった。しかしエドは、ヒロの言葉につらそうに表情をゆがめた。


「…本質的には好かれてなんかいないですよ。俺は相手から見た目しか見られない。…見るところがないんです。俺は空っぽだから」


そう言って、エドははっと言葉を止めた。また自分はなぜこんな話をこの人にしてしまうんだとエドは自己嫌悪に陥った。

ヒロは、じっとエドの瞳を見つめていた。エドはヒロの視線に気がつくと、ヒロの瞳を見つめ返した。


「…そんなことないですよ」


予想外に、ヒロの優しい声がエドに聞こえた。エドは、え、と声を漏らす。

ヒロは、エドに微笑みかける。前に書庫で見た、何かに追い詰められているエドを見て、可哀想に思ったからかもしれない、とヒロは思う。まだ18歳そこらの青年が抱えきれない何かを、必死でどうにかしようともがく彼の片鱗を思いがけずに見たせいだ、と。


「あなたは、私に居場所をくれました。私は、自分がどこにいたら良いかわからなかった。あなたと結婚したおかげで、いてもいい場所がみつかりました」

「…それは、お互いの利害が一致しただけです」

「そうだとしても、私が救われたことは揺るぎない事実です。だから、あなたは空っぽなんかじゃありません。少なくとも私にとっては」


ヒロはそう言い終わってから、この人にとって、私に空っぽじゃないと思われることにどれほどの価値があるのか、ということを考えて、そんなに意味がないか、この人にとっては、と思い直す。


ヒロの言葉に、エドは黙り込んだ。彼の頭の中で、昔のことが思い起こされた。懸命に、父の想定する跡取り息子になるために努力してきた。少しでも失望されることが彼にとっては恐怖で震え上がるほどだった。


ーーあなたには中身がないのよ


15歳の自分に対して、記憶の中の同い年の少女が嘲笑しながら言う。ただ懸命に走り続けてきた自分を否定するような、しかし紛れもない事実の言葉に、15歳の自分は絶望する。

優秀な跡取り息子という外側を作ることに必死になっていたけれど、なぜそうするのか、自分はなぜそうなりたいのか、という理由は何もなかった。自分が必死に創り上げた外見の内側には何もなかった。


「…どうかしましたか?」


ヒロに話しかけられて、エドははっとする。エドはヒロの方を見たあと、目を伏せて、部屋に戻ります、と言うとすぐに調理場から出ていってしまった。


「(…また顔色悪かったな)」


ヒロは、去っていくエドの横顔を思い出しながらそんなことを思った。

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