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初夏の昼下がりの午後、スミス侯爵家の中庭の花壇の前で、この家の令嬢であるヒロはしゃがみ込む。色とりどりの季節の花を順番に眺めながら、垂れてきた栗色の長い髪を耳にかけて、ヒロは優しく微笑む。花は今日もどれも綺麗だ。どんな種類でも、色でも、全て。
水をあげ終わったあとの花弁には水滴がついており、それをゆっくりと、ヒロは指ですくった。
「ねえ、話の続き!」
ヒロの後ろで、ガーデンテーブルに腰掛けていた友人のマーガレット・ベルがじれったそうにヒロに声を掛ける。
彼女はベル伯爵家の令嬢である。淡いピンク色の髪に、大きくてつぶらなピンク色の瞳をしている。まるで人形のように愛らしいその容姿を誰もが褒める。ヒロは、ねえってば!と急かすマーガレットを見つめながら、まあ中身はお転婆だけれど…と心のなかで苦笑する。可憐で可愛らしい見た目に反して、マーガレットは活発で勝ち気な性格をしていた。そんな彼女に、自分の意志がはっきり言えないヒロは幼いころからお尻を叩かれてきた。
「だめですわ、マーガレット。お話には順序というものがございますもの」
ヒロの隣に座り、紅茶のカップを片手で持ちながらそうマーガレットを嗜めるのは、アリス・スチュアートである。なんと公爵家のご令嬢で、国王の親戚というそこらの貴族が裸足で逃げ出すほど高貴な血筋であるが、ヒロとは幼い頃に社交の場で出会って意気投合してからずっと友人関係にある。アリスは、ふんわりとゆるいカールがかかった綺麗な金髪を持っている。彼女の綺麗な緑色の瞳に見つめられると、女性で友人のヒロですらどきりとしてしまう。アリスはそんな、儚く美しい容姿をしている。性格は基本的におっとりとしているけれど、時々ぐさりと刺さる毒を吐く。
ヒロは、そばに置いたジョウロを持ち上げる。そして、その中の水に映る自分の顔を見つめる。周りの2人に比べて、私、私は…。
「で?アディントン侯爵家のエドがあなたの婚約者になるわけね?」
待ち切れないマーガレットが、先ほどまでの話を繰り返す。ヒロはジョウロを置いて立ち上がり、2人の方を振り向くと、いいえ、と頭を振った。
「お断りしようと思っています」
ヒロはそう言って微笑むと、2人の方に戻り、テーブルについた。マーガレットは、えっ、と目を丸くする。
「またあ?」
マーガレットが呆れたようにため息をつく。アリスは、ずっとにこにこと話を聞いている。ヒロはクッキーを手に取り一口食べる。マーガレットはそんなヒロの横顔を見ながら、もう、と呟く。
「どれだけ断っているの?いい加減に会うだけでもしたら良いじゃない」
「でも…」
「お家とお家同士の政略結婚ですのに、ヒロの意向で断れるなんて、ご両親はヒロのことを大切にしていらっしゃるのね」
私の方はお父様がなかなか私の結婚相手をはっきりお決めになさらないから困っていますの、とヒロと同い年のアリスはにこにことそう答える。そんなアリスに、ヒロはうっ、と固まる。普通であれば、親が決めた結婚に子どもはとやかく言わないものである。しかし、ヒロの両親はヒロに大変甘いため、ヒロが嫌がれば、そうかそうかと先方に断りを入れてしまうのである。そんなやりとりが続いてもう3年が経つ。
マーガレットは、ほらあ、と、ヒロの方をじとーっと見つめる。
「ご両親だってきっと困っていらっしゃるわ。あと数日で20歳になってしまうっていうのに、このまま来る縁談全部断り続けて、ずーっと一生結婚しないで家にいるつもり?」
2歳年下のマーガレットがヒロのほっぺたを指で軽く刺す。ヒロはまた、うっ、と声を漏らす。
「でも、私は…」
「ジム、ですか?」
アリスが優しくヒロに尋ねる。ヒロはアリスの目を見たあと、ゆっくり目を伏せた。
ジムとは、ヒロと物心つく前からずっと一緒にいた同い年の男性である。ベイカー伯爵家の嫡男で、焦げ茶色の短い髪に、茶色の瞳の優しい顔をした人だった。いつも笑顔で、ヒロは彼といると自然と笑顔になれた。
ヒロは誰からも選ばれない人生だった。いつもそばにいる2人の友人は美しく、家族である兄も美しかったヒロは、彼らと比較した自分にいつも落胆した。それに、生来の華やかさを持たないヒロは、いつも埋もれて、周りの人にとってはいないような存在だった。家族はヒロを大事にしてくれたけれど、それは家族だからで、周りにいる他人にとっては自分は取るに足らない人物で、自分は他人から選ばれることのない人間だとだと、20年の人生を生きてきたヒロには痛いほど染みていた。
そんなヒロにとって、ジムは自分を選んでくれたたった1人の男性だった。12歳のとき、ジムはヒロに思いを告げてくれた。好きだと言われたとき、ヒロは心の底からうれしかった。何でもないような、いてもいなくてもいいような自分が、彼にとってだけはそうではないのだと、特別な存在なのだと、そう思えたからである。
しかし、ジムは3年前、家の事情で別の女性と結婚しなくてはならなくなった。それは、貴族である2人にとっては当然受け入れるべきことだった。しかしヒロは、余りにも突然のジムとの別れに泣きじゃくるしかなかった。そんなヒロを優しく抱きしめたジムは、彼女の耳元でこういった。
「どんなに離れていても、僕の心は君にある。遠くから君のことを愛し続けるよ、いつまでも」
最後にジムから残されたこの言葉が、ヒロはずっと心にあるのである。ヒロは、ジムが別の女性と結婚した今でも、ジムのことを変わらずに思い続けている。
そんな状態の中、他の人と結婚するなんて、未来の結婚相手に申し訳ないとヒロは思っていた。仲睦まじい両親を見てきたヒロは、彼らのようになるのが普通の夫婦であり、政略結婚だとしても、彼らのように夫婦で仲良くしなければいけないものだとヒロは思い込んでいた。だから、自分の今のこの状況ではとてもそんなことを他の男性とできそうになく、それはとても夫となる相手に失礼だと、そうヒロは思っていた。だから、婚約者の話を今日まで断り続けてきた。
マーガレットは、もう、と呆れたようにヒロを見た。
「ジムのことなんか早く忘れてしまいなさいよ。もう3年よ?十分じゃない。向こうだって、別れ際にあなたに調子いいこと色々言ってたみたいだけど、どうせそんなこと忘れてるわよ」
マーガレットの言葉に、ヒロは強い意志で頭を振る。
「ジムはそんな人じゃ決してないわ。…マーガレットはジムを知らないもの」
ヒロの曇りなき瞳に、マーガレットは、はあこれだ…と額に手を当てる。アリスは、にこにこと微笑みながら2人を見て、口を開く。
「でも、かといって、アディントン侯爵家のエドと結婚…というのも、どうなんでしょうか」
アリスが困ったように頬に手を当てる。マーガレットは、まあ、確かに…と頷く。ヒロは、そんな2人に苦笑いをする。
アディントン侯爵家といえば、とても大きな家である。その嫡男であるエドは、容姿端麗で有名である。家は代々国の重要なポストを担っており、彼はその若さで仕事で城に出入りするという、仕事面でも優秀であることが伺える。
ここまでは、貴族社会に広く知られているエドの評判である。そして、若い子息令嬢の間でされているエドの評判は他にもある。とにかく女遊びが派手だというものである。どんどん違うご令嬢との浮き名を流しており、結局はその誰もが遊びであったという悪い男っぷりである。ヒロも何度か社交界で見かけたことがあるけれど、いつも女性に囲まれていて、周りにいる女性たちも含めて、華やかで、ピカピカと眩しく輝いて見えた。あの辺りは自分とは別世界だと、陰の者であるヒロは近づきもしなかった。
マーガレットは、うーん、と考え込む。
「スミス侯爵家も大きな家だから、家格がみあった結婚を考えたらアディントン侯爵家もありなのね。とはいっても、エドはねえ…。ご両親はエドのことを知らないのかしら?」
「色恋のお話は、結局子女世代の間でしか流行りませんから。ヒロのご両親のお耳に入っていなくても不思議ではありませんわ」
「だからって、ジムのことを引きずり続けるなんて…」
話していたマーガレットが言葉を止めた。不思議に思ったヒロが振り向くと、仕事から帰宅した兄のランドルフの姿が見えた。ヒロは、お兄様、と小さく手を振った。ランドルフは、ヒロに気がつくとこちらへやってきた。
ランドルフは、ヒロよりも2つ年上の兄である。黒色の髪と、イエローがかった瞳をしている。ヒロの両親は2人とも黒髪で、兄はその色を受け継いだようである。背がうんと高く、体格がしっかりとしていて、精悍な印象を与える彼は、凛々しい姿と真面目な性格で、社交界の令嬢たちの一部の層に人気が高いようで、縁談の話もちらほら来ているようだけれど、そのどれも上手くいかないらしい。こんなに外見も中身も素敵な兄なのになぜだろう、寡黙で口下手なところがあるからだろうか、とヒロはいつも不思議に思っていた。
「おかえりなさい、お兄様…あっ」
兄の方に座り直したとき、ヒロはカップに肘があたり、中身をこぼしてしまった。慌てた使用人が、濡れたテーブルを片付けに来た。ヒロは、ごめんなさい、と申し訳ない気持ちで謝る。そんなヒロに、目を細めたランドルフが、相変わらずぐずだな、と優しく言う。ヒロは眉を困ったように下げながら、兄に苦笑いを返した。
「ああ。マーガレットとアリスが来ていたんだな」
ランドルフが2人の方を見る。アリスはにこりとほほ笑み、お邪魔しております、と軽くお辞儀をした。先ほどまで威勢がよかったマーガレットは、なぜかしおらしくなり、手を膝の上に乗せて無言でお辞儀をするだけだった。ヒロは、いつもランドルフが来るとおとなしくなるマーガレットのことが不思議だった。男性が苦手というようにはみえないのに、なぜか彼女はランドルフがそばにいるときだけ、もの静かな女の子になってしまうのだ。
ヒロは、とにかく、とアリスとマーガレットの方を見た。
「私、アディントン侯爵家にはお嫁に行きません。お断りしてもらいます」
そう宣言するヒロに、まあ、とアリスは頬に手を当てて微笑む。マーガレットは何かいいたそうな顔をしたまま何も言わない。
ランドルフは、そんなヒロに少し目を丸くした後、そうか、と嬉しそうに目を細めた。
「そんなに焦るような時じゃないし、まだ家にいたら良いさ。…あの男はもう忘れたほうがいいとは思うけれど」
ランドルフの言葉に、ヒロは苦笑いをもらす。ランドルフはヒロの頭を優しく撫でると、それじゃあ、と言って去っていった。ヒロはその背中を見送った後、マーガレットの方を見た。さっきまで、もう20になるのに!と説教をしていた彼女が、ランドルフの言葉には反論せず大人しくちょこんと座る姿が、やはりヒロには不思議だった。
アリスとマーガレットと別れて、ヒロはリビングに向かった。すると、両親が仲良さそうに二人でお茶をしており、その向かいのソファーに静かにランドルフが座って本を読んでいた。ヒロはランドルフの隣に座った。両親はヒロをみると、ヒロ、と笑顔で彼女を見た。ヒロは、アディントン家との縁談をいつものように断ってもらおうと思い、口を開いた。すると、それよりも先に父が話し始めた。
「ヒロ、もうすぐで君も20歳だね。誕生日パーティーを開かないといけないね」
「節目ですもの、盛大にしないとね」
ふふふ、とうれしそうに微笑む母に、ヒロはありがとうございます、と微笑む。この国では、10の位の数字が変わる年にパーティーを開く貴族が多い。毎年開く人もいるけれど、ヒロの家は一般的な頻度で開いていた。パーティーが得意ではないヒロは、少し憂鬱にも思うけれど、祝おうとしてくれる両親や親戚、友だちの気持ちは素直に嬉しい。20歳のパーティーはどうなるんだろう、そう考えていたらヒロの目に、急に真面目な顔をした両親が見えた。
「…実は、ずっとヒロに隠していたことがあるんだ。ランドルフも聞いてほしい」
父のただならぬ様子に、ランドルフは読んでいた本を閉じて姿勢を正した。母は、目を伏せて今にも泣きそうな顔をしていて、ヒロは異様な空気感に胸が嫌な鼓動を打った。
「…今まで言っていなかった…、言えなかったことなんだけれど、実はヒロは、…ヒロは私たちの本当の子どもじゃないんだ」
「えっ…」
ヒロは目を丸くして固まる。ランドルフも、驚きの余り口を開けたままにしている。
父はゆっくりと、ヒロは自分の友人夫婦の子どもだったが、ヒロが生まれてすぐに彼らが流行病で亡くなってしまい、ヒロの兄たちは家の跡取りとして親戚が引き取ってくれたけれど、まだ生後間もないヒロまでは育てられないという話になっていたところ、話を聞きつけた両親が、ヒロを引き取ると言って、ヒロはスミス家の娘となった、という話をした。ヒロは、話を聞く間にどんどんわけがわからなくなり混乱した。
母は、父の話が終わると、とうとう涙をこぼし、ヒロの手を強く握った。
「もう20歳だから、あなたにはわかってもらえると思ったの。私たちに血の繋がりはない。けれど、私たちはあなたのことを血の繋がりを超えた愛情を持ってきたし、それはこれからもかわらない。傷つかないで、なんて無理な話だとは思うわ。でも、私たちのことを他人だと突き放さないでほしい。まだ赤ん坊のあなたをこの腕で抱いたその日から私は、自分があなたの本当の母親で、あなたは私の本当の子どもだって、そう思って今日まで生きてきたのだから」
母の涙ながらの言葉に、まだ完全に混乱しているヒロは、もちろん信じています、と母の手を握り返すしかなかった。




