激突
「全軍止まれ!」
ユリ王女の凛とした声が、風を切り裂いて響き渡った。
その号令下、世界が静止したかのように、あらゆる動きが止まった。サイノッテ王国精鋭部隊の重装騎兵、ヴェルディア王国自慢の紅の騎士団、空を翔けるソルゼ共和国の竜騎士たち。ヨルセフと彼に従う百戦錬磨の戦士たち。ルシウス、ハナス、リベット、ハナフィサ──皆息をのんで、その場に足を止めた。ラウラを筆頭とする魔法使いたちの手からも、今まさに放たれんとして魔力が淡く光っている。
地平線と空の境界線、まだ遠くに小さな点にしか見えない。しかし、その存在感は圧倒的だった。剣を背負った男が、一人、こちらに向かって歩いてくる。
その姿は、まるで荒野を進む巨大な獣のよう。
男と連合軍の距離は、まだ数キロメートルはあろうか。しかし、確信めいたものがあった。あの男は、間違いなく、こちらに気づいている。そして、その歩みを止める気配は微塵も感じられない。
静寂。張り詰めた空気の中、不気味なほどに一定の速度で男は近づいてくる。
「貴様が通った村の獣族の子供たちはどうした!」
ユリ王女の、普段の可憐さからは想像もつかないほどの、凄まじい剣幕が荒野に響き渡った。
「はあ?」
男は、一瞬だけ考え込むような素振りを見せた後。
「そったら、子供ら、おら知らネッけどなあ」
どうやら勇者はとんでもない田舎者らしい。訛り丸出しだ。それでいて残忍さを感じさせる笑みがこぼれた。その瞬間、ユリ王女は馬上で剣を抜き放った。刃が太陽の光を反射し、鋭い閃光を放つ。
「おっと、王女様が出るにはちと早いぜ」
巨躯の魔獣に跨ったルーベンが、ユリ王女を制止するように飛び出した。まるで弾丸のような速さだ。上空で旋回していたエイラの鳥が、ルーベンに何事かを伝えている。ロクス、ナミダ、アークス、そしてルシウスも、次々と勇者のもとへ駆けて行く。
「準備は良い?」
セルフィーヌが隣に立つラウラに声をかけた。
「まかせて」
ラウラは静かに頷き、杖を握りしめる。
ルシウスの背後からは、リベットに背負われたハナスが続く。ハナスは、可能な限り近くでルシウス達を支援するため、あえてリベットに運んでもらう方法を選んだのだ。
勇者の視線が鋭く研ぎ澄まされる中、ハナスの祝福が魔法のエネルギーのように、ルーベンと魔獣の融合体を包み込んだ。瞬間、彼らの身体がオーロラのような虹色の光に包まれ、空間そのものが震えるかのような力強さで、勇者へと突進していく。まるで光と影が交錯するダンスのように、ルーベンの動きは今までにない凄まじい速度と迫力を纏っていた。
勇者の巨大な黒い剣が!
と思ったが、勇者?はその場にへたり込んで震えていた。
涙?鼻水?
「ふぅえええ、おら、何もわるい事してねえだよぉ~」
ルーベンはとっさに止まる!
白黒の魔獣の背からしなやかに飛び降り、鞘に愛剣を収めた。男は地面に這いつくばったまま、震える手で股間を押さえている。
「おい、お前、勇者か?」
ルーベンは片眉を上げて尋ねた。男は顔を上げもせず、か細い声で答えた。
「ひ、ひえぇ…どなたか知りませんが、許して下せえ……」
男の股間からは、既に黄色い液体が流れ出していた。ルーベンは苦笑を堪えながら、
「勇者だなんて、とんでもない。俺はただの冒険者でさぁ」
男に手を差し伸べた。男は恐る恐るルーベンを見上げ、震える声で答えた。
「…冒険者を目指して、田舎から出てきたんですよぉ…」
男の視線は、再び自分の股間へと戻った。ルーベンはさすがに耐えきれず、吹き出してしまった。
「がっはははは!いや、すまんすまん!ちょっと可笑しくてな」
ルーベンは笑いながら謝り、男を抱き起こした。魔獣が静かに鼻を鳴らす。
「おいおい、どうやらこの男は勇者じゃねぇみてぇだぜ!」
ルーベンは魔獣の手綱を握り直し、背後――少し離れた場所に陣取るユリ王女一行――に向かって大声で告げた。男はルーベンの腕の中で、まだ震えていた。
「人違いだったか。緊張のあまり、少々迂闊だったな」
ユリ王女は小さく呟き、隣に立つヴェルディア王に視線を向けた。ヴェルディア王は苦笑いしながら肩を竦めた。
「まあ、勇者じゃなくて何よりだ。全面戦争が始まるかと思ってヒヤヒヤしたぞ」
ユリ王女は安堵の息を吐いた。
王女の銀鈴のような声が、集まった兵士たちの間に響いた。「皆、聞いてください!」
心配の色を滲ませた翡翠色の瞳が、一人一人を捉える。勇者レツヤ・サメジマの行方は依然として杳として知れず、焦燥感がユリの胸を締め付けていた。獣族の村から王城までは、ほぼ一本道。道に迷うとは考えにくい。
「レツヤ・サメジマはまだヒキガエル族の村にいる可能性があります。皆、全速力で村へ向かいます!」
ユリ王女の言葉に、兵士たちの間に緊張が走った。
「一刻を争います!全速前進!」
王女の号令が、静寂を切り裂いた。
重厚な鎧を纏った騎士たちが、先陣を切って駆け出す。続く軽装の兵士たちも、武器を手に持ち、その後を追った。
大地を揺るがす足音と、金属が擦れ合う音が、彼らの焦燥感を物語っていた。




