短い船の旅
少し戻って、これはハナスが海を渡るお話。
ハナスが海を渡る決意を固め、皆がハナスがサイノッテへ行く事を承諾したその日、シルベアは至急ヴェルディアとアリュゼに報告に戻った。
ハナスは、ルシウス、ハナフィサ、リベット、ヨルセフとその配下たちと共に港へ向かった。
「戦かぁ、何だかまだ現実味がわかないが、やっぱり怖いのかなあ」
ハナスは、心の中でそう呟きながら、馬車に揺られている。
途中、ラウラとリリスも合流した。ハナスは、心配そうにラウラに声をかけた。
「ラウラさん、本当に危ないよ」
しかし、ラウラは微笑みながら答えた。
「大丈夫だ、ハナス。向こうでポーションを作ったり、魔法で敵をかく乱できるだろう」
ラウラは何だか上機嫌だ。
「師匠は、精油を毎日飲むようになってから、凄く体の調子が良いって大はしゃぎなんです」リリスが教えてくれたので、なるほどレメディかぁとハナスは納得した。ハナス自身、前世でも精油を口にしたことはなかったが、ヨーロッパのほうの民間療法で、レメディとして精油をのむ場合があるのを知っていた。
さすがラウラさん、そういう方法も自分であみ出しちゃうんだ。
港に着くと、すでに船が準備されていた。
潮風が頬を掠め、白い帆が陽光を浴びて眩しい。用意されたのは、王家の紋章こそ刻まれているものの、ヴェルディア王の乗る豪華客船と比べれば、まるで小舟のようだった。水平線の彼方、白亜の巨躯がゆったりと波を切って進む。あれが、ヴェルディア王――この国の頂点に立つ男か。
ハナスは、波間に揺れる王船をぼんやりと眺めていた。どこか現実感がない。まるで、物語のワンシーンを見ているような、そんな不思議な感覚。
「あれ? ハナス様、こんなところでいったい何を……?」
背後から優しい声が聞こえ、ハナスは振り返った。白髪の髪を揺らしながら、心配そうに眉を寄せたソノマがそこに立っていた。
「船に、乗るんだよ、です」
ハナスは答えた。するとソノマは、ますます困惑した表情で尋ねた。
「あちらの、陛下が乗る船には乗らないので?」
その言葉に、ハナスは一瞬思考が停止した。ああ、そうか。シルベアと間違えられているんだ。そう思いいたった。
「今日は、こっちに乗るよ」
曖昧に笑ってごまかすと、ソノマは「それではお待ちください」と一言告げ、王船に向かって駆けて行った。木で出来た停泊場を軽やかに走るソノマの後ろ姿を見送りながら、ハナスはぼんやりとしていた。
しばらくすると停泊場に佇むハナスの元に、ソノマが小走りで戻ってきた。その後ろには、清楚な装いの侍女が二人、少し緊張した面持ちで続いていた。
「それでは、この者たちをお連れください、ハナス様。何かと身の回りのお世話を申し付けてください」
ソノマの言葉に、ハナスは思考が追いつかない。「えっ、えっ」と間の抜けた声を出してしまう。状況が理解できない。なぜ侍女? 頭の中が疑問符でいっぱいになった。
「それでは、ごめんください」
ソノマはペコリと頭を下げると、ハナスが何かを言う間もなく、また軽やかに木の床を駆けて行った。置き去りにされたハナスと侍女たち。沈黙が流れる。
「ハナス様、よろしくお願いいたします」
侍女たちは、ハナスが呆然としているのも構わず、にこやかに頭を下げた。ハナスは、成り行きに押されるまま、「あ、うん……よろしくお願いします」と曖昧な返事を返す。深く考えれば考えるほど、頭が混乱するだけだ。もう、流れに身を任せるしかない。
仕方なく、二人の侍女に導かれるようにして、小舟に乗り込んだ。波の揺らぎでバランスを崩しそうになりながら。
一方、ソノマは軽快な足取りで王船へと戻っていた。任務完了、とばかりに口元を緩ませている。ヴェルディア王の船にたどり着くと、甲板の上から元気の良い声が聞こえた。
「おーい、ソノマ!」
見上げると、満面の笑みで手を振るハナスがいた。その笑顔は、まるで太陽のように眩しかった。
「えっ? ハナス様? やはりこちらの船に乗られるので?」
ソノマの額に、汗が滲む。目の前の光景が、理解できない。だって、たった今、ハナスを小舟に乗せたばかりなのだ。
「当たり前じゃないか」
ハナスは、さも当然のように言い放つ。その言葉に、ソノマの思考回路は完全に停止した。何がどうなっているのか、全くわからない。
「そうですか……それは、承知いたしました。まあ、こちらの船のほうが揺れは少ないですよ……」
腑に落ちないながらも、ソノマは王船に乗り込んだ。頭の中は、疑問符で埋め尽くされていた。まるで、幻無を見ているような、そんな気分だった。
甲板の手すりに寄りかかり、ハナスは潮風を頬に感じていた。隣には、リベットとハナフィサ。三人で並んで、刻々と変化する海の景色を眺めていた。
遠くに見えてきたのは、奇妙なほどに紅い海。まるで血のように紅く染まった水面が、不気味なほどに美しい。そして、その海面に浮かぶ無数の小舟。それぞれに、真紅の鎧を身に纏った騎士たちが乗り込んでいく。紅の騎士団――ヴェルディア王国最強と謳われる精鋭部隊だ。
「すごい景色だね……」
思わず息を呑むほどの光景に、ハナスは呟いた。紅い海と紅の騎士団。その異様なまでの美しさは、どこか不安を掻き立てるような、不思議な魅力を放っていた。
「そうね……今回は騎士団が味方だと思うと、頼もしいわね」
ハナフィサが、穏やかな笑みを浮かべて言った。その言葉に、ハナスは小さく頷いた。確かに、これだけの戦力が味方についているのは心強い。けれど、どこか胸騒ぎがするのも事実だった。まるで、これから何か大きな出来事が起こる前触れのように……。
水平線に沈みゆく夕日が、紅い海をさらに鮮やかに染め上げていく。その光景は、あまりにも美しく、そして、どこか儚げだった。まるで、この穏やかな時間が、すぐにでも壊れてしまうかのように……。
ところで、サイノッテまではどれくらい船に乗ってるの?ハナスが尋ねると
「一刻(2時間)程よ」とハナフィサが言った。
近いのね.......。
波に揺られる船。水平線を見つめるハナスの瞳は、焦点が定まっていない。まるで魂が抜け落ちたように、ただ茫然と揺蕩うばかり。
「坊ちゃん、お水、どうぞ。」
リベットの声が、遠くから響くように聞こえる。差し出された水杯を受け取ることもなく、ハナスはただ空を見上げていた。額に浮かぶ汗をリベットが優しく拭き取る。その手つきは、壊れ物を扱うように、慈しみに満ちていた。
ソノマの計らいで侍女たちが2人付いているのだが、リベットは彼女たちにハナスを触れさせようとしない。まるで親鳥が雛を守るように、ハナスを周囲から隔絶するのだ。
勇者……一体どうすれば……
ハナスの思考は、淀んだ水面のように、ゆっくりと、そして重く回っていた。伝説の勇者。物語の中、ゲームの中、あらゆるフィクションで"最強"の存在として描かれる、まさにチート級の人物。弱点らしい弱点は見当たらず、圧倒的な力で全てを薙ぎ払う。そんな化け物じみた存在に、どうすれば抗えるというのだろうか。
波の音、潮の香り、リベットの小さなため息。現実の感覚が、ハナスの意識をぼんやりと撫でる。それでも思考の波紋は消えず、ハナスの心を揺らし続ける。
勇者にもきっと弱点があるよなあ?
ハナスはゆっくりと瞼を閉じた。揺れる船の上で、一筋の光明を求めて、思考の迷宮を彷徨う。勝機の見えない戦いに、わずかな希望の光を見出そうと、もがき続ける。まるで暗闇の中、小さな光源を求めて、手を伸ばすかのように。
そして、再びリベットの声が響く。
「坊ちゃん……大丈夫ですか?」
その声は、ハナスの迷える心を、優しく包み込むようだった――。




