王の願い
深い霧が王国の石造りの大広間を包み込んでいた。吹き抜ける冷たい風は、石壁に掛かる古い紋章を微かに揺らし、まるで王国の運命そのものが震えているかのようだった。
ヴェルディア王は、白い大理石の玉座に座り、震える手で伝令の書簡を握りしめていた。窓から差し込む光は、王の顔に不吉な影を落とし、その瞳には深い不安が宿っていた。
「レツヤ・サメジマ…」王はわずかに震える唇でつぶやいた。
外では、紅の騎士団の馬のひずめが石畳を鳴らし、出発の準備が始まっていた。彼らの赤い鎧は、遠く地平線の果てまで続く海に照らされ、まるで血のように輝いていた。
自然は王国の運命を予感するかのように、木々はゆっくりとその枝を揺らし、遠くで雷鳴が微かに轟いていた。
ヴェルディアは立ち上がり、玉座の横で待機していたソノマに向き直った。ソノマの長い銀髪が、広間に吹き込む風にたなびいていた。
「ソノマよ」
王の声は低く、しかし芯が通っていた。広間に並ぶ柱の間を、その声が反響する。
「至急、全ての村と町に伝令を出せ。腕の立つ冒険者、戦士たち、そして――」
王は一瞬言葉を切り、窓の外を見やった。空には不穏な雲が渦を巻いている。
「魔法使いもだ。見つけられる限り多くの魔法使いを集めよ」
ソノマは片膝をつき、深々と頭を下げた。その仕草には、長年の忠誠が滲み出ていた。
「かしこまりました」
その声には迷いがなかった。
「勇者が敵についた以上、我々は万全の備えが必要なのだ」
ヴェルディアの声が硬くなる。
「もしサイノッテが落ちれば、次はこの地だ。リュカンは文字通り波に乗って攻めてくるだろう。奴を勢いづかせてはならない」
広間の窓を打つ雨の音が強まり、まるで王の言葉に呼応するかのように雷鳴が轟いた。
「必ず、守り抜かねばならぬ」
王の言葉に、ソノマは静かに頷いた。
その日の夕暮れ時には、既に十数人の伝令が、馬に跨って王都を後にしていた。彼らの背中には紅の騎士団の紋章が輝き、雨に濡れた街道を疾走していく。それぞれが異なる方角へ、しかし同じ使命を持って――。
各地の冒険者ギルドには、この夜、緊急の告示が次々と張り出されていった。報酬は破格。だが、その裏には王国の存亡を賭けた切実な願いが秘められていた。
街道を行き交う人々の間で、不安な噂が飛び交い始めている。
「勇者が、敵についたって本当か?」
「リュカン王率いるソルゼ王国軍が動き出したらしい」
「紅の騎士団が、全軍出撃するって」
噂は風のように広がっていった。そして、その風は次第に嵐となって、王国全土を覆い始めていた。
姫アリュゼの寝室は、柔らかな銀色の月明かりに包まれていた。窓辺に置かれた花瓶に活けられた白い花が、その光を受けて幻想的に輝いている。
その静謐な空間で、一人の少年が月光に照らされて立っていた。
髪は藍色。十歳ほどの少年の姿をしているが、その瞳の奥には千年の時を超えた叡智が宿っている。大精霊シルベア――今はハナスの名で呼ばれる存在だ。
「お父様...?」
アリュゼの声が震えた。目の前で起きている光景が信じられないのだ。
誇り高き父、ヴェルディアの王が、一人の少年の前にひざまずいている。その肩は小刻みに震え、月の光に照らされた頬には、確かに涙の筋が見えた。
「ハナス...」
王の声は掠れていた。
「お前の力が必要なのだ。増幅の祝福で、我が国の戦士たちに力を...」
ハナスは静かに目を閉じた。その小さな体から、かすかに青白い光が漏れ出す。寝室の空気が、微かに波打つように揺らめいた。
「力が欲しいと」
ハナスの声は、少年のものでありながら、どこか遠い世界からの響きを持っていた。
「レツヤ・サメジマという勇者から、この国を守るために......アリュゼを救ってくれ、頼むハナス」
アリュゼは息を呑んだ。父の涙。そして迫り来る危機。全てが、この瞬間、現実味を帯びて彼女の心に突き刺さった。
窓の外では、夜風が木々を揺らし、その葉擦れの音が、まるで何かを囁くように響いていた。運命の歯車が、確実に動き出そうとしていた。
「ねえ、私からもお願いシルベア様!この国を救って!」
アリュゼも父につられて泣いていた。訳も分からずに涙が出た。
藍色の髪の少年はにこやかに対応する。
「ちょっくら出掛けてくるわ」
窓辺にぴょんと軽やかに向かうと、振り向いた。
「ヴェルディア、アリュゼ!心配するな、頼もしい援軍を呼んできてやる」
にっこり笑うと、ハナスの姿のシルベアは、窓から外へ飛び降りた。




