平和な日々の終わり
サイノッテ王国の首都モララは、春の陽光に包まれていた。
港に続く石畳の道には、色とりどりの花々が咲き乱れ、潮風に乗って甘い香りが漂う。ヴェルディア王国から派遣された騎士たちの鎧が、紅い光を放っている。彼らの存在は、この国の平和を象徴するかのようだった。
王城最上階のペントハウス。そこは街を一望できる開放的な空間で、まるで空中庭園のように美しい花々に囲まれていた。
ユリ王女は、純白のドレスに身を包み、小鳥たちに餌を与えていた。その姿は、まるで童話から抜け出してきたような優美さを湛えている。銀色の髪が風に揺れ、その瞳には慈愛の光が宿っていた。
「ほら、こちらへ」
王女の柔らかな声に誘われるように、小鳥たちが寄ってくる。その光景は、この国の平和そのものを体現しているかのようだった。
だが、その静謐は、一通の報せによって粉々に砕かれることとなる。
「ユ、ユリ様!」
扉が乱暴に開かれ、従者が飛び込んできた。その顔は、まるで血の気が引いたように蒼白だった。小鳥たちは驚いて空へ散っていく。
「どうしたの? そんなに取り乱して」
「大変です! ソルゼ王国が...リュカン王が...」
従者の声が震えている。
「あの、北方で召喚された勇者を...レツヤ・サメジマを雇ったとの報せが!」
その名前を聞いた瞬間、ユリ王女の表情が凍りついた。
レツヤ・サメジマ。その噂は、既に各国に轟いていた。竜を屠り、魔獣の群れを蹂躙し、そして...罪のない人々までをも残虐に扱う、狂気の勇者。
「まさか...」
王女の手から餌籠が落ちる。その音が、不吉な予兆のように響いた。
窓の外では、変わらず花々が風に揺れ、騎士たちの鎧が輝いている。だが今、その光景は、失われゆく平和の最後の輝きのように見えた。
「すぐに父上に報告を」
ユリ王女の声には、今までにない緊張が滲んでいた。
「そして、ヴェルディアの方々にも...」
その時、遠くの空に一羽の黒い鳥が舞っていた。まるで、これから起こる暗い出来事を予告するかのように。
「失礼いたします」
ユリ王女の静かな声が、薄暗い寝室に響いた。
重厚なカーテンが引かれ、僅かな光が漏れる中、ベッドに横たわる父の姿が浮かび上がる。かつては威厳に満ち、サイノッテ王国を導いた元国王。その姿は今、病のために痩せ衰え、かつての面影を残してはいなかった。
「ユリか...」
嗄れた声と共に、激しい咳き込みが起こる。
「陛下...」
元王妃のマリエルが、夫の背中を優しくさする。銀色の髪に白髪が目立ち始めた彼女の表情には、深い愛情と心配が刻まれていた。
「ごめんなさい、お父様」
ユリは膝をつき、父の手を取る。その手は、以前より細く、冷たくなっていた。
「こんな、心苦しい報せしか...」
「かまわんよ」
元国王は、娘の手を優しく握り返した。その握力には、かすかに昔日の強さが残っていた。
「いずれリュカンめは、力を蓄えて攻めてくることは分かっていたからな。奴の野望は、昔から知れていた」
また咳き込みが起こる。マリエルが水の入ったグラスを差し出す。
「ですが、あの残虐な勇者まで...」
「時は我らに味方せぬようだ」
元国王は、窓の外を見やる。その目には、まだ王としての鋭さが宿っていた。
「それより急ぐべきは、ヴェルディアへの報告だ。援軍も要請せねばなるまい」
「はい。既に使者の準備を」
「よくやった」
父は微かに微笑んだ。その表情には、娘への信頼が満ちていた。
「最悪の場合、近いうちに戦になるやもしれん。その時は...」
言葉が途切れる。しかし、ユリには父の想いが痛いほど伝わってきた。
「私が、この国を...この民を守ります」
静かな、しかし芯の通った声。マリエルは、そんな娘の姿に目を細める。
「ユリ...お前は立派な女王になった」
元国王の声には、誇りと共に深い憂いが混ざっていた。
外では、夕暮れが迫りつつあった。オレンジ色に染まる空が、まるで炎に包まれているかのように見える。




