大精霊の確信
「いかーーーーーーーん、許さんぞ!それだけはダメだ!!!!」
ヴェルディア王の怒声が王城に響き渡る。最近はすっかり温厳な老人と化していた王様だが、この時ばかりは昔の威厳を取り戻したかのような迫力だった。
「お父様...」アリュゼが申し訳なさそうに目を伏せる。
「何故じゃ!わしの可愛い娘を、五十日も!往復だと百日以上もじゃぞ!?遠い地へ放り出すなど......」
ヴェルディアは激しく首を振る。その様子は、まるで幼い娘を初めて遠出させる父親のようだった。
「おいおい、大げさすぎるぜ」シルベアは呆れ顔で腕を組む。「護衛だって十分につけるって言ってるだろ?それに俺が———」
「駄目じゃ!ハナスよ、紅の騎士団をつけてもじゃ。ダメなものはダメだ!」
「どうしてだよ?」
「街道には人さらいがおるやもしれぬ!魔物も出るかもしれぬ!それに、それに...」
「はぁ...」シルベアは大きなため息をつく。「紅の騎士団の精鋭をつけたら、そんな心配は無用だと思うんだけどなぁ」
「それでも!アリュゼは...アリュゼは...」
ヴェルディアは震える声で続ける。
「母親もおらぬ可愛い一人娘じゃ...。わしにとっては、たとえ女神が守ると言っても、心配で心配で...」
「お父様...」アリュゼの目が潤む。
シルベアは天井を仰ぎ見た。これは予想以上に手ごわい。かつての強大な王も、娘のことになると完全なる過保護父になってしまうとは。
「ねぇ、ハナス様」アリュゼが小声で囁く。「どうしましょう...」
「うーん」シルベアは考え込む。「作戦を練り直さないとダメかもしれないな...」
「作戦、ですか?」
「ああ。例えば...」シルベアが意地悪な笑みを浮かべる。「どこかで精霊を呼んできてアリュゼに化けさせるか?」
「もう!ハナス様ったら!」
アリュゼは笑いを堪えながら、シルベアの腕を軽く叩く。
一方、ヴェルディアは今や執務机の前で「わしの可愛いアリュゼ...」と呟きながら、うなだれている。
これは確かに、かなりの難関になりそうだ。千年の大精霊様でさえ、一筋縄ではいかない「親馬鹿な父」という壁の前に、新たな策を練る必要がありそうだった——。
夜更けの姫の寝室。銀色の月光が、薄いカーテン越しに差し込んでいた。
「やっぱりヴェルディアも連れて行くか?」
窓辺に腰かけたシルベアが、星空を見上げながら言う。長旅の打開策として、意外な提案だった。
「せっかくの長旅にお父様と一緒なんていやだけど、それも仕方ないのかしら」
アリュゼは寝台に座ったまま、小さなため息をつく。憧れの農園行きが実現するのならと、諦めにも似た覚悟が垣間見える。
ふと、アリュゼの表情が曇る。
「でも、お父様、城を空けて大丈夫なのかしら?」
「どうしてだ?」シルベアが振り返る。月光に照らされた横顔は、艶やかな緑の木の葉のようで綺麗だ。シルベアは元の姿に戻っている。
「お父様が留守にすると、そのすきを狙って隣国が攻めてきたりしないかしら?」
「そんなに情勢がひっ迫してるのか?」
シルベアの声に、驚きが混じる。千年の大精霊とて、人間界の政治にはうとい。というより、眼中にないというのが本当か。
「分からないけど...」アリュゼは母の形見の人形を強く抱きしめる。「海の向こうのリュカン王が治める国はいつでも隣国を狙ってるみたい...」
「ほう」シルベアは腕を組む。「で、今のところは?」
「ユリ王女様が治めるサイノッテとヴェルディア国が同盟を結んでるから静観しているみたい」
アリュゼの言葉に、シルベアは深い思索に耽る。リュカン王——かつて幾多の小国を飲み込んだ野心家。そして、その野望をかろうじて同盟によって押しとどめているサイノッテのユリ王女。
「なるほどな...」シルベアは月を見上げる。「つまり、ヴェルディアが城を離れることは、この微妙な力の均衡を崩すことになりかねない...というわけか」
「シルベア様は、そういう人間の争いごとには無関心よね?」
「ああ、千年も生きてると些細な問題に思えてな。」シルベアは少し寂しそうに笑う。「だが、お前とヴェルディアのことは別だ...」
そういうシルベア。アリュゼには、彼女のその言葉だけで嬉しかった。
「あのね、シルベア様」アリュゼが小さな声で切り出す。
「私たちが旅に出ることで、お父様が悲しむなら私は少し、もう少し大人になるまで我慢するわ。その頃には国の情勢ももっと良くなってるかもしれないしね」
アリュゼはいつの間にか大人になっているのかもしれない。一国の姫として、この先アリュゼにも様々な試練があるのだろう。そんなアリュゼをシルベアはいつまでも見守ってやりたいと思うのだった。
「それならよ」
シルベアが悪戯っぽい笑みを浮かべる。月明かりに照らされた表情は、まるで悪知恵を思いついた子供のようだった。
「こっちにハナスを呼び寄せて、あいつの増幅の力を紅の騎士団に使って、リュカン王をやっつけちまうか?」
その言葉を聞いた瞬間、アリュゼの頬が真っ赤に染まった。怒りと恥ずかしさが入り混じったような、複雑な表情だ。
「駄目よ!」
声が震えている。普段の優しげな姫君の面影はどこにもない。
「どうしてだ?」シルベアは更におどけた声で尋ねる。千年の大精霊様とは思えないほど、子供じみた意地悪さだ。
「戦争なんて...」アリュゼは強い口調で言う。「本当はないに越したことないもの。防衛はしても、こっちから攻めるなんてこと、絶対にダメ!」
その瞬間、アリュゼの表情が一変した。いつもの可愛らしい姫君の顔が、まるで厳格な王のような凛とした表情に変わる。
シルベアは思わず笑みがこぼれた。からかうつもりが、意外な一面を見せられた形だ。
「お姫様は平和主義者なんだな」
「当たり前です!」アリュゼは母の形見の人形を強く抱きしめる。「戦争で傷つくのは、いつも民なんです。お母様もね...」
言葉が途切れる。部屋の空気が、一瞬重くなった。
「すまん」シルベアは珍しく素直に謝った。「冗談のつもりだったんだが...」
「分かってます」アリュゼは小さく頷く。「シルベア様がそんなこと本気で言うはずないって」
「ああ」シルベアは窓の外を見やる。「それに、あのハナスも争い事は大嫌いだからな。奴の力は人を癒すためのものだ。戦いのためじゃない」
「...本当のハナスさんも、そういう人なんですね」
アリュゼの表情が、少しだけ柔らかくなる。
「ま、だからこそボクもあいつの姿を借りてるんだよ」シルベアは軽い調子で言う。「平和ボケした幼子の姿は、結構気に入ってるんでね」
「もう!またからかって!」
アリュゼの抗議の声に、シルベアは声を立てて笑った。だが、その笑顔の奥で、彼女は真剣に考えを巡らせていた。
この姫君の強い信念——。それは必ず、この国の未来を良い方向に導くはずだ。千年生きた大精霊として、そう確信できた夜だった。




