誰も見たことのない新しい世界
「お父様ーーッ!!」
豪奢な大理石の廊下に、怒号が木霊する。
アデレード・ヴィオレッタは、顔を真っ赤に染めながら、ドレスの裾をひるがえして全力疾走していた。メイドたちが慌てて道を開け、執事が「お嬢様、走られては…!」と制止の声を上げる。が、今のヴィオレッタにそんな声は届かない。
「どこなの、お父様はッ!」
ついに執務室で見つけた父親は、なぜか机の下でちぢこまっていた。
「あ、ヴィオレッタか…声が怖くて、つい…」
「そんなところで何をしていらっしゃるの!さっさと出てきてください!」
ヴィオレッタは腰に手を当て、威風堂々と父を見下ろす。小柄な父は、おずおずと机の下から這い出してきた。
「お父様!わたし、紅の騎士団にこんな酷い仕打ちを受けたのよ!」
「ほ、報告は聞いておる…」
「叩かれたり、笑われたのよ?私が!あのヴェルディアめ」
父爵は娘の剣幕に、さらに体を縮ませる。
「し、しかしなあ、ヴィオレッタ…」
「私兵を出してちょうだい!すぐに襲撃よ!」
「うちの私兵は五十名しかおらんのじゃ…」
父爵は震える声で告げる。
「たったの五十名!?なんですって!?どうしてそんなに少ないのよ!今すぐもっと雇って!」
「王都に楯突くのは…良くない考えじゃぞ…」
父爵がいうと、ヴィオレッタの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「お父様は私が汚されたことよりも、王都が怖いというの!?おのれ、ヴェルディア!絶対に許さないわよ!」
「ヴィオレッタ!王に向かってそのような…!」
「お父様のバカァーーッ!」
豪華な扉が激しく閉められ、廊下には再び足音が響く。
ヴィオレッタは悔しくて悔しくて、心の中で必ず王への復讐を誓ったのかどうかは、ヴィオレッタだけが知るところである。
完璧ではなかったが。ハナスは学校を作った。まあ、使いながら調整してゆけばいい。
藍色の髪が夕暮れの風に揺れる中、ハナスは新たなプロジェクトの建設現場を見つめていた。がっしりとした体格のドワーフたちが、次々と材木を運び込んでいく。
「ここの天井は、もう少し高くした方がいいと思うんだ」
「ふむふむ」髭もじゃのドワーフのソーン・ハンマーが、真剣な面持ちでハナスの意見に耳を傾ける。「確かに。蒸気がこもらないようにするなら、その方が理にかなってるな」
大浴場の建設は着々と進んでいた。そう、次はみんなが集まって憩える場所を——。
「ねえねえ!ハナスくーん!」
突如響き渡る声に、現場の作業が一瞬止まる。
振り返ると、アデレード・ヴィオレッタが駆けてくるところだった。その表情には、どこか憤りの色が見てとれる。
「あ、ヴィオレッタさん」
ハナスの隣で、猫耳を持つ少女のリベットがぴょこんと耳を動かした。
「どうしたの?」ハナスが首を傾げる。「なんだか怒ってるみたいだけど」
「もう!お父様がねっ…」
と、言いかけた時だった。
「あれ?」
ヴィオレッタの視線が、建設現場に釘付けになる。足場が組まれ、壁の一部が立ち上がり始めているその光景に、彼女の目が輝きだした。
「これって…何を作ってるの!?」
声のトーンが、怒りから好奇心へと一変する。
「大浴場っていうんですよ、大きな器に湯をはって温まるところです!」リベットが得意げに説明する。「坊ちゃんが考えたんです。みんなが一緒にお風呂に入れる場所を作ろうって」
「へぇ…」
ヴィオレッタは二人の横に並んで立ち、建設現場を見つめる。三人の影が夕陽に伸びていく。
「あのね」ハナスは少し照れくさそうに続けた。「せっかく学校ができたから、今度はみんなが集まれる場所が欲しいなって。種族とか関係なく、裸で付き合えば、もっと仲良くなれると思って。…」
「...お父様のことは、後でもいいかな」
ヴィオレッタの瞳に、新たな光が宿った。
「これからが本番なんだ」
ハナスは建設中の大浴場を見上げながら、真剣な表情で言った。
「水場を整備して、いつでも綺麗なお水が飲めるようにしたいんだ。それから、トイレの整備も必要だし...衛生環境全般を強化していかないとね」
ヴィオレッタの整った眉が、クエスチョンマークのように曲がる。
「...水場の整備?衛生環境?」
首を傾げるヴィオレッタの表情は、まるで異世界の言葉を聞かされているかのようだった。彼女は隣にいる猫耳の少女の方を向いた。
「ねえ、リベット。ハナスくんは何を言ってるの?」
「エッヘン!」
リベットは小さな胸を張り、得意げな表情を浮かべる。その仕草は、まるで自分が何かを成し遂げたかのようだ。
「分かりません!」
「...え?」
「ですが!」リベットの猫耳がピンと立つ。「坊ちゃんは天才なのです!坊ちゃんに任せておけば、すっごい立派なものが出来上がるのです!」
その言葉には、どこまでも純粋な信頼が込められていた。
「あら」ヴィオレッタは小さく笑う。「それもそうねぇ」
彼女は納得したように頷いた。確かに、目の前にはつい先日まで誰も想像できなかったアロマの展示場や、レストランがある。そして今、大浴場が建設されている。この藍色の髪の少年は、不思議な形で人々の暮らしを変えていく——。
「じゃあ、私も楽しみに待っていましょうかしら」
ヴィオレッタの言葉に、ハナスは照れくさそうに頬を掻いた。その横で、リベットは「でしょう!でしょう!」と嬉しそうに飛び跳ねている。
夕暮れの工事現場に、三人の笑い声が響いた。誰も理解できていないのに、みんなが期待に胸を膨らませている。そんな不思議な空気が、ミストベールの新しい未来を優しく包み込んでいた。
ミストベールは、もはや「農園」という言葉では表現できないほどに膨れ上がっていた。
世界中から、誰も見たことのない種族が続々と流れ着く。翼を持つ者、鱗に覆われた者、時には半透明の体を持つ者まで——。彼らは皆、どこか傷を抱えている。心に、体に、魂に。
しかし不思議なことに、この地に来た者たちは皆、次第に生まれ変わる。受けた治療で傷が癒えていくように、心も癒えていく。そして気づけば、新たな才能を開花させ、この地の人材として輝き始めるのだ。
「ねぇ、ハナス君」
ヴィオレッタは建設現場の片隅で、少年の横顔を見つめていた。
「この調子だと、世界中の目が、もっともっとミストベールに集まることになるわね」
彼女の声には、どこか楽しげな響きがあった。
「うん...危険な目にあわせてごめんなさい...」
ハナスの言葉は途切れる。確かに、これほど多くの亡命者を受け入れ続ければ、いずれもっと大きな波乱が訪れるだろう。恐ろしい誰かが、何処かの国が、世界に変化を嫌う者たちが、この場所に目を付けないはずがない。それに、移民を受け入れることへの大きなリスクは多々ある事を前世の記憶があるハナスは知っている。
だが、ヴィオレッタは楽しそうに微笑んだ。
「面白いじゃない」
彼女の瞳が輝く。お転婆で、野心家で、誰よりも先を行く考えを持つ大貴族令嬢。そんな彼女の脳裏には、すでに様々な構想が浮かんでいるようだった。
(いつか...ヴェルディア陛下を出し抜いて、私が王女に...)
そこまでの野望が、この時点で彼女の中にあるかどうかは定かではない。もしかしたら、その考えは後になって芽生えるかもしれない。
ただ、確かなことが一つあった。
この破天荒な貴族令嬢との出会いは、ハナスの人生を大きく変えていくのだろう。良い方向に?悪い方向に?それとも...。
「ねぇねぇ、次は劇場を作りましょうよ!」
「いいえ、その前にフードコートです!」
「病院も必要ですわ!」
ヴィオレッタの声が、リベットの意見が、そして次々と集まってくる住民たちの声が、ハナスの耳に押し寄せる。
望むと望まざるとに関わらず、彼の人生は確実に、そして賑やかに変化していく。かつての奴隷が働く農園は、もう戻ってこない。
藍色の髪が風に揺れる中、ハナスはため息まじりの笑みを浮かべた。リベットが心配そうに覗き込んでくる横で、ヴィオレッタは次の計画に思いを巡らせている。
誰も見たことのない新しい世界が、この場所から始まろうとしていた。そして、その物語の主人公が望むと望まざるとに関わらず——ミストベールは、止まることなく動き出していく。




