アークスの報告
まだ夜の名残が空に残る頃、ミストベールの領主ヨルセフは普段通り、井戸端で顔を洗おうとしていた。朝もやが低く垂れ込め、湿った空気が肌を包む。
「領主様」
突然の声に、ヨルセフは水を含んだ手を止めた。振り向くと、薄靄の向こうからアークスの姿が浮かび上がってくる。その姿は疲れを帯びていたが、何か重要な発見があったことを予感させた。
「おお、アークスか。戻ってきたのだな」
ヨルセフは手ぬぐいで顔を拭いながら言った。
「はい。王都の先、フロストパイン港まで足を延ばし、老賢者をはじめ多くの方々から話を伺ってまいりました」
アークスは一歩前に出て、深いため息をつく。
「それで?聖なる鍵についての手がかりは?」
「...はい。ですが、私たちが探していたものとは、かなり異なるものかもしれません」
アークスは言葉を選びながら続けた。
「聖なる鍵は、私たちが想像していたような物ではないようです。それは...」
「ふむ?」
ヨルセフは眉をひそめた。
「はい。どうやら、生きた人間のことを指しているようなのです」
アークスの言葉に、朝の静けさがより深まったように感じられた。
「なんと...聖なる鍵が人間とはな」
ヨルセフは顎に手をやり、考え込んだ。
「その人物について、何かわかったことは?」
アークスは首を横に振る。
「残念ながら。その人物が今どこにいて、何をしているのかまでは、誰も知らないようでした。まるで霧の中を手探りで進むようなものです」
「霧か...」
ヨルセフは周囲の朝もやを見つめながら、苦笑を浮かべた。
「我がミストベールにふさわしい謎だな」
それから、アークスは一瞬ためらった後、再び声を上げた。
「領主様、もう一つ...報告すべきことが」
その声音に、ヨルセフは振り返った。アークスの眉間には深い皺が刻まれていた。
「王都の動きについてです」
アークスの言葉に、朝もやさえも緊張を帯びたように感じられた。
「ヴェルディアか」
ヨルセフの声が低く沈む。
「はい。ルシウス様の農園のことで...」
アークスは言葉を選びながら続けた。
「世界各地から奴隷たちが逃れてきて、農園に亡命している件です。これが王の耳に入り...」
「やはり動き出したか」
ヨルセフは井戸の縁から立ち上がり、霧の向こうに広がる領地を見やった。
「各地の貴族や領主たちが、秩序の崩壊を懸念しているようです。何より...」
アークスは一瞬言葉を切った。
「ヴェルディア王が直々に事態を重く見ています」
冷たい朝風が二人の間を通り過ぎた。
「すでに王都の紅の騎士団が編成され、ミストベールへ向かっているという確かな情報を得ました」
アークスの報告に、ヨルセフの表情が一層厳しさを増す。
「ルシウスには知らせは?」
「まだです。この報告の後、すぐに農園へ向かうつもりでした」
ヨルセフはゆっくりと目を閉じ、開いた。
「あの農園は、逃れてきた者たちにとって最後の希望なのだがな...」
「領主様、どうされます?」
「...アークス、鍵の事はいったん後回しだ」
ヨルセフは毅然とした声で言った。
「まず、ルシウスのもとへ向かってくれ。私も後から参る。」
「かしこまりました。ですが、王都紅騎士団が」
「心配するな」
ヨルセフは微かに笑みを浮かべた。
「ミストベールの霧は、招かれざる客には優しくない。時間は稼げよう」
アークスは深く一礼し、来た時と同じように霧の中へと消えていった。残されたヨルセフは、東の空を見上げる。
朝日は完全に昇りきっていたが、ミストベールの霧は一向に晴れる気配を見せなかった。まるで、この地を守るかのように。




