亡命者
「ルシウス様!また新しい方々が!」
早朝の農園に、若い狐族の少女の声が響き渡った。ルシウスは手元の帳簿から顔を上げ、窓の外を見やる。確かに、農園の東門のあたりに小さな影が何個か見えた。
「わかった。すぐに行く」
立ち上がったルシウスの背後から、妻のハナフィサが心配そうな声を投げかけた。
「大丈夫?昨日も遅くまで受け入れの手続きで忙しかったでしょう」
「ああ、問題ない」ルシウスは優しく微笑んで答えた。「それより、ハナスには悪いことをしたな。一緒に行けなくて」
ハナフィサは首を横に振る。「仕方ないわ。奴隷の受け入れがうまくいかないと、農園の秩序も乱れかねないわ」
二人は黙って見つめ合って頷いた。この数ヶ月、何かの噂を聞きつけたか農園に逃げ延びてくる奴隷たちの数は増える一方だった。
外に出ると、朝露に濡れた草の香りが鼻をくすぐる。東門に向かいながら、ルシウスは昨日までの出来事を思い返していた。兎族の家族五人、その前は鳥族の若い夫婦。みな、着の身着のままで逃げてきた人々だった。
「シャルル、彼らに温かい食事の準備を」
傍らで控えていた人間の召使いに指示を出す。シャルルは「かしこまりました」と返事をして、さっと屋敷の方へ消えていった。
東門に着くと、そこには疲れ切った表情の熊族の一家が立っていた。父親らしき大柄な熊族が、幼い子供を二人抱きかかえている。その横では母親が不安そうな表情で周囲を見回していた。
「よく、ここまで辿り着きましたね」
ルシウスが声をかけると、一家は一瞬身を縮めた。奴隷として扱われてきた者特有の反応だ。しかし、ルシウスの穏やかな微笑みを見て、少しずつ緊張が解けていくのが分かった。
「うちの農園で、ゆっくり休んでください。ここは安全です」
その言葉に、母親の目から涙がこぼれ落ちた。子供たちも、初めて安堵の表情を見せる。
後ろから駆けてきた狐族の少女が、温かいスープの入った鍋を運んできた。「お腹が空いているでしょう?まずはこれを」
農園の中では、すでに様々な種族が働いている。かつては奴隷だった者たちだ。今では皆、誇りを持って仕事に励んでいる。畑では人間と獣人が協力して作物の世話をし、納屋では鳥族が食用の卵の選別を行っている。
ルシウスは新しく来た家族に目を向けた。逃げ延びてくる者たちを受け入れ続けるのはハナスの願いでもある。たとえ、それが自分たちの生活を更に厳しいものにすることになっても覚悟を決めよう。
「ルシウス様!」
今度は別の方角から声が聞こえた。振り返ると、犬耳族の若者が息を切らして走ってきている。
「西の森の方から、また...」
その声を聞いて、ルシウスは深いため息をつきながらも、確かな足取りで歩き出した。これが今の自分たちにできる、最も大切な仕事なのだから。
背後では、ハナフィサが新しい家族の世話を始めていた。
西の森からの知らせを受けて急ぐルシウスの背中を、朝日が優しく照らしていた。先ほどまでとは打って変わって、その足取りは軽やかだった。
「ルシウス様、この先です!」
案内役の犬耳族の若者――ミケルは木々の間を縫うように進んでいく。その動きは無駄がなく、まるで森と一体化したかのようだ。
「待て、ミケル」
ルシウスは立ち止まり、耳を澄ませた。微かな物音と共に、誰かが息を潜めている気配がする。
「...出てきても大丈夫だよ」
柔らかな声で呼びかけると、低い藪の向こうから、小さな影が三つ、おずおずと姿を現した。狼族の子供たちだ。長女らしき少女が、弟と妹を庇うように両腕を広げている。
「お前たちだけか?大人は?」
ルシウスの問いに、少女は一瞬だけ目を伏せた。
「お父さんとお母さんは...私たちを逃がすために...」
それ以上は言葉にならなかったが、状況は十分に理解できた。ルシウスは静かに膝をつき、子供たちの目線の高さまで身を屈める。
「よく、ここまで来られたな。偉かった」
その言葉に、張り詰めていた空気が少しずつ溶けていく。ミケルも安堵の表情を浮かべた。
「ミケル、農園まで案内を」
「はい!」
ミケルが子供たちに近づこうとした瞬間、森の向こうから物音が聞こえた。全員が一瞬で身構える。
「追っ手か?」ルシウスの表情が厳しくなる。
だが、茂みを押し分けて現れたのは、血に染まった服を着た一匹の狼族の女性だった。
「お母さん!」
子供たちが駆け寄る。
声をかけようとしたルシウスの言葉を遮るように、母親は子供たちを抱きしめた。
「生きていた...生きていたのね...」
涙声の中に、確かな安堵の響きがある。その背中には深い傷が見える。必死の逃走の末についた傷痕だ。
「奥様、すぐに手当てを」
ミケルが素早く支えに入る。
「旦那は...」
ルシウスが問いかけると、女性は悲しげに首を振った。夫の犠牲があって、母子は逃げ延びることができたのだ。
農園に戻る道すがら、ルシウスは考え込んでいた。日に日に増える避難民。誰かを逃がすために犠牲になって命を落とす奴隷は多いが、それはただ奴隷の日々を送るだけでもそれ以上に命が奪われてきた歴史がある。ならば......。
農園が見えてきた頃、ハナフィサが門の前で待っていた。傍らには医術に長けた兎族のリリアが控えている。朝方来たばかりの熊族の家族も、新参者を迎える準備を手伝っていた。
「大丈夫よ。ここなら」
ハナフィサの静かな声に、狼族の母子は涙を流した。
振り返ると、東の空が赤く染まっていた。また新しい一日が始まる。この農園で過ごす、誰もが自由な一日が。
ルシウスは帳簿のことを思い出した。新しい家族の分の食料と寝床の手配をしなければ。だが不思議と、疲れは感じなかった。
「ハナフィサ、手伝ってくれるか」
「ええ、もちろん」
夫婦は黙って見つめ合い、微笑んだ。まだ為すべきことは山ほどある。
農園に朝の風が吹き抜けていった。新しい命が、また一つ、ここで息づき始めるところだった。




