プロローグ
彼女の人生は幸せではなかった。
喧嘩の絶えない両親の元に産まれ、冷えきった家庭に育った。
それでも、優しい祖父母に恵まれたのは彼女の人生で一番の幸運だったといえる。多忙な両親により、彼女は祖父母の家に預けられることが多かった。良識ある祖父母と接する時間が長かったため、礼儀正しく穏やかな性格になった。問題点としては、両親から愛情を受け取れなかったことで、内向的な部分があったということだ。
小学四年生になると、優しかった祖父母が他界した。必然的に自宅で一人でいることが多くなる。読書の世界に浸ることは、自然の流れだった。
物語は彼女の 寂寥感で溢れた心を優しく包んでくれた。空を自由に飛べる魔法、神秘的な架空の動物、不幸な人々に救いをもたらす英雄——。いつでも苦しみのない世界へ連れていってくれる。本のページを 捲る度に彼女の胸が高まった。
中学に上がる頃には学校の図書室に入り浸るようになり、自宅に帰るまでの時間を潰した。もしかしたら、少しでも空虚な家にいる時間を減らしたかったのかもしれない。
町の図書館にも通うようになった。学校にはない本が沢山ある。新刊もすぐに並ぶ。こうして、希望に溢れる青春時代を家と図書館の往復という狭い世界だけで彼女は過ごした。
両親は彼女を放っていながら、自由は許さなかった。小遣いも外出先も厳しく制限されていたのだ。他に遊ぶところはない。決まりを破ったり、誤魔化したりすることは、恐ろしくてできなかった。
ある日、彼女はいつもの通り、下校で寄り道をして図書館で数冊の本を借りて帰宅していた。予約待ちだった本が届き、小さな幸せを感じていた。
交通量の少ない二車線道路の信号待ちをしていると、反対側の歩道で楽しげに歌っている幼児二人と母親が同じように立っていた。しっかりと信号を守り、母親と手を繋いで待っている。温かい光景に彼女も周りの人々も微笑んでいた。
それは偶然という名の奇跡だったのだろう。借りた本を早く読みたかった彼女は、高揚感があって気もそぞろだった。きょろきょろと視線をさ迷わす。やがて道路の先にある光景を捉えた。
こちらへやって来るトラックが少し速いような気がする。狭い道で違和感があった。このような場所では減速するものではないだろうか。おまけに蛇行気味では……?
信号が青になった。歩行者が躊躇いなく横断歩道を歩き始める。彼女の背筋が凍る。とてつもなく嫌な予感がした。思考の前に本能でその場を駆け出した。人生で一番大きな声を上げていたと思う。危ない、戻って、と喚きながら両手を振る。驚いた通行人は数歩下がり、歩道で足を止めた。ほっとしたのも束の間、加速したままのトラックが青信号の横断歩道に突っ込んできた。
いくつもの悲鳴が上がり、彼女の身体は宙を舞った。始めは衝撃、遅れて全身に激痛。遠くでざわめきが聞こえていた。
過労働の居眠り事故。その後、盛んに報道されることになるが、彼女がそれを知ることはなかった。薄れゆく意識の中で、誰も傷つかなかったらいいなと思っていた。
死者数一人、重症者一人、他負傷者ゼロ。少女一人の命をもって、運転手以外の怪我人が出なかったことは奇跡的だった。
こうして、少女の儚い人生は終わった。早々に意識を失ったことで痛みが長く続かなかったことだけが救いだった。
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それを見ていた運命の女神は、一粒の涙を溢した。あまりに寂しい命に憐れみを感じていた。女神は少女の魂を優しく 掬い上げ、ふうと息を吹きかけた。小さな魂は空を舞い、風に乗って遠くまで飛んでいく。住んでいた国を離れ、まるで景色の異なる場所まで運ばれた。魂は森の中で風に揺れる開花前の花に辿り着くと、つぼみの中に留まった。そして、事故の痛みを癒すように柔らかい花弁に包まれ、すやすやと安らかな眠りについたのだった。