(5)
朝、登校したシータは連絡用の大型掲示板の前に人だかりができているのを見た。授業が休みになったという知らせや呼び出しなど、生徒への連絡はすべてこの掲示板でおこなわれるのだが、この日の朝はいつもと様子が違っていた。集まっている生徒のほとんどが女生徒だったのだ。
男子生徒は、群がる女生徒の後ろから掲示板を見ている。シータも人と人のすきまから切れ切れの文字を読んだ。
それは学院長からの通達で、最近学院のそばにできた占い師の店への出入りを禁止するものだった。その占い師が生徒に配っていた薬が悪質なものであることが、薬の詳しい分析結果とともに説明されていた。
誰々が行っていたとか持っていたという話から、まだ心臓がとまったままの生徒の噂までがささやかれる中、シータは名を呼ばれてふり返った。けわしい表情のタウがイオタを連れて近づいてくる。
何かあったのだ――緊張するシータに、タウは一呼吸おいて言葉を吐いた。
「シータ、ミューが倒れた。ラムダの夢に入って、ネリアに連れていかれたらしい。息をしていないんだ」
店番を任されているからと控え室を出ていった最後の姿が、シータの脳裏で浮かび霞んだ。
放課後、ファイはシャモアに呼ばれて教官室を訪れた。薬の分析結果はすでに掲示板に貼られているので他の理由なのだろうが、無茶をするなと釘をさされることくらいしか思いつかない。今日は全員でミューの家に行く約束をしているし、小言は早めにすませてくれるとありがたいのだが。気が乗らないまま扉をたたくと、シャモアの声が応じた。
入ると、シャモアは窓辺に立って外を見ていた。ファイがいつものように大机の前に立ったところで、シャモアはふり向いた。
「あなたが持ってきてくれた薬のおかげで、すべてを解明できたわ。学院長からもお礼のお言葉をいただきました」
「占い師の正体はわかったの?」
「ファイ」
シャモアはためらう様子で眉間にしわを寄せると、引き出しから首飾りを取り出した。法陣の真ん中に虹色の星が描かれている。天空神の守護の力が込められたものだ。
「いつも私があなたを守れたらいいのだけれど」
シャモアは首飾りをファイの首にかけた。
「大地の神法士の中に、闇に堕ちた人がいるんだね」
暗黒神の呪力を打ち払えるのは天空神の力のみ。首飾りを手にとって虹色の星を指で触ったファイは、シャモアを見た。
「ミュー・レポリスのことは聞きました。でもあなたは……いえ、あなたたちはこの件にはこれ以上関わらないでちょうだい。彼女も他の生徒たちも私たちが助けます。だから後は任せて」
「誰なの?」
「ファイ、お願いだから」
「僕にこれを渡すのは、その占い師が僕と接触する可能性があるからだよね?」
「あなたはすべての神の力を受け入れられる存在なのよ。あなたのことが暗黒神の信者に知られたら、危なくなるのはあなたなの」
「みんなと待ち合わせしているから、行くよ」
「ファイ――」
きびすを返して扉へ向かう。だが途中で違和感を覚えてファイは足をとめた。横一列に並んでいる大地の法担当教官の肖像画を見やる。
気のせいだろうか。何かおかしい。ファイは肖像画を凝視していたが、シャモアが近寄ってきたので、引きとめられる前に離れた。
そのまま退室したファイは、廊下を歩きながら肖像画のことを考えた。なぜ変だと思ったのか、まもなく答えはわかった。いつも部屋を出るときに流し見ていたので、最後の肖像画がどのあたりにあるか覚えていたのだ。
そしてその肖像画――シャモアの一代前の教官の肖像画が横に一つずれていたから、いつもと違うと感じた。
つまり、誰かの肖像画が外されていたのだ。
学院の門の前で全員そろってから、五人はミューの家に向かった。パン屋を営むミューの両親は悲痛な面持ちだったが、ラムダがミューのそばにいてくれるからと店を開けていた。働いているほうが気がまぎれるのだと。
部屋に入ると、寝台に横たわるミューの脇にラムダが座っていた。ミューの手をにぎりしめ、ラムダは五人をかえりみることもしなかった。
ミューは身じろぎ一つせず、静かに目を閉じていた。重い沈黙に包まれる中、ラムダが低くつぶやいた。
「どこかで聞いたことのある声だったんだ」
「思い出せないのか?」
タウの問いかけに、ラムダは力なくうなずいた。
「ずっと考えていたが、出てこない。あの声さえわかれば……」
「今日正体を探るから」
皆がここへ来て初めてラムダが顔を上げた。一睡もしていないのか泣いていたのか、ファイを見るラムダの目は真っ赤だった。
「ミューの居場所もつきとめる」
「本当か、ファイ? ミューを助けられるのか?」
「人の夢の中に御使いを飛ばすのは初めてだけど、うまくいけば犯人もミューのいるところもわかる。だからラムダはこれからもう一度眠ってほしい」
「ネリアの望みはあくまでもラムダだから、きっとまた来るわね」
「ラムダが捕まる可能性はないのか?」
懸念の表情で疑問を口にするタウに、ファイは「ないと思う」と答えた。
「彼女自身にそんな力があれば、ラムダはとっくに引っ張られているはずだよ。ラムダの夢の中だから、力関係ではラムダのほうが強いんだ。だから彼女は一定の距離以上近づけなくて、自分の手をとってくれるよう頼むんだよ。彼女に力を与えてミューを捕らえたのは別の存在だ。たぶん、あの声の主だと思う」
「ねえ、それって敵はかなり術力が高いってことじゃないの? 本当に大丈夫かしら。あんたまで連れていかれたら、こっちはお手上げ状態になるわよ」
不安げなイオタを一瞥し、ファイは服越しに胸元の首飾りにそっと触れた。
「彼女の来た道をたどるだけだから。できるだけ攻撃される前に戻ってくるよ」
問題はまさにそこだった。ラムダ以外の者が夢に進入すれば、敵は気づくだろう。御使いが傷つけられれば、自分にも衝撃は伝わるのだ。
ただ、気になる点があった。なぜ敵はミューを連れ去ったのか。ネリアの邪魔になるからだとは考えられなかった。まるでミューのことを知っているような口ぶりだったのだ。
シャモアとの会話が脳裏をよぎる。暗黒神アルファードの宿体として信者に追われる日々を想像し、ファイは一瞬寒気を覚えた。
五人は自分に注目していた。痛々しいほどに真摯なラムダの視線を受けとめたファイは、黒ずくめの信者たちを頭から追い出し、始めようと声をかけた。
すっかり見慣れた薄暗い場所にラムダが立つと、まもなくネリアが現れた。どうして自分が眠ったとわかるのか不思議なくらいだ。そして今日もまた三歩ほどの距離をあけて、ネリアはラムダと向き合った。
「ミューを返してくれ」
真っ先に訴えたラムダに、ネリアは不快そうに眉をひそめた。
「ねえ、思い出して。あの子が好きだと言っていたけど、もとは私の代わりだったんでしょう? 私を忘れるために、一緒にいたんでしょう?」
「違う。そんな理由でミューを好きになったんじゃない。何度言えばわかるんだ」
「どうして嘘をつくの? もうあの子はいないのよ。ラムダが気兼ねする必要はないわ。昨日だって、あの子がそばにいたから本当のことを話せなかっただけでしょう? もういいのよ、誰もとがめたりしないから。ラムダの本心を聞かせて」
もはや昔の面影はなかった。利発的な輝きを放っていた暗紅色の瞳はひどくにごり、よく笑っていた口もゆがんでいる。
自分の声は届かないのだ。ネリアが期待している言葉以外、聞こえないのだ。
もしあのとき仲直りできていたら。ネリアがけがをすることなく、花を摘んで帰ることができていたら。
「もっと早く、こんなふうに話ができればよかったのにな」
ぽつりとこぼしたラムダのつぶやきに、ねばついていたネリアのまなざしが少し弱くなった。
「俺たち、大馬鹿だな」
「ラムダ……」
後ろに気配を感じた。ひんやりした風が近づいてくる。ラムダが目を閉じた瞬間、半透明の鳥が二人の頭上を滑り過ぎた。
「何……何なの、あれ!?」
ネリアが鳥をふり返る。風の神の使いは、あっという間に見えなくなった。
「俺はもう二度と大事な人をなくしたくないんだ。だから、ミューは返してもらう」
「ラムダ!?」
「遅すぎたんだ、ネリア。今の俺はミュー以外好きにはなれない」
ネリアが歯ぎしりしてラムダをにらみつける。ラムダは心の奥にわずかに残っていたネリアへの情を、氷の沼へ沈めた。絶対に、永遠に浮かぶことのない、深い深い沼に。
「そう、それが答えなのね。いいわ、取り返せるものなら取り返してみなさいよ。でも私は許さない。あの子をラムダのもとへは帰さないからっ」
ファイの放った御使いを追って、もやの彼方にネリアが消えていく。一人になってからもラムダはその場を動かなかった。
「頼むぞ、ファイ……」
すでに影も形もない半透明の鳥に向かい、ラムダは祈った。
枝分かれしたいくつもの道があった。だがそれらすべてが幹となる太い道につながっている。暗闇の中でひときわ濃い闇を落とす中心線の上を、風の神の使いは颯爽と翔けていた。
まもなく、ネリアが迫ってきた。捕まえようとのびてくる手をくぐり抜け、鳥はさらに速度を上げた。
ネリアを完全に引き離し、鳥はついに根元にたどり着いた。ゆがんだ黒い穴を抜けた先にミューを見つける。他の魂とともに闇の呪膜に押し込まれていた。天井付近を旋回した鳥の目に、部屋のすみで椅子に腰かけている人物が映る。
膝上で本を広げていた老人は、招かざるはずの御使いを見て嬉しそうに目を細めた。
「ようやく会えたな、ファイ・キュグニー」
男が左手に持っていた杖を振り上げる。闇の砂に巻きつかれた鳥は、破裂音を響かせて消滅した。
「ファイ!?」
はじかれたようにのけぞったファイは、真後ろにいたローに支えられた。吐き気をもよおして口を押さえるファイを、みんな心配そうにのぞき込む。
頭が痛い。部屋中が回転して、自分が上にいるのか下にいるのかわからない。かたく目をつぶってめまいがおさまるのを待っていると、ラムダの声がした。どうやら起きたらしい。
「大丈夫か、ファイ?」
「攻撃されたみたいね」
やっぱり無茶だったんだわとイオタがぼやく。異常に速まった鼓動はなかなか落ち着かず、ファイは短い呼吸を繰り返した。
最後に大きく息を吐き出し、ファイは目を開けた。汗で額にはりついた髪をかきあげる。
緑の魔王のときのように怒りの念までは飛んでこなかったので、意識は失わずにすんだが、かなりの術力の保持者であることは間違いなかった。
「相手はわかったのか?」
「うん、顔を見た。ミューも無事だ。闇の呪膜に閉じ込められているけど」
会ったことのない人間だった。それなのに何となく見覚えがある。
「どんな奴だったんだ?」
「けっこう年がいってた。ちょっと待って、思い出すから」
ファイはこめかみをもみほぐした。「ようやく会えたな」と笑いかけた顔がぐるぐる駆けめぐる。
相手も自分のことを知っていた。知っているのに、初めて会ったような言いかただった。年齢的にはロードン教官と近そうだ。教官、という言葉にファイははっとした。
ずれていた肖像画。大地の法の教官……シャモアの前は女性だった。その前は男性、さらにその前は女性。
すうっと背筋を冷たいものが流れ落ちた。
わかった――何に違和感を覚えたのか。
女性、女性だったのだ。今日見た肖像画の最後の並びが。間にあるはずの男性教官が取り除かれていた。そしてその教官の顔は、たった今ファイが風の神の使いを通して目にした人物と似ていた。
「……イフェイオン先生」
タウとラムダが一番に反応した。ファイは二人と見つめあい、もう一度はっきりと言葉にした。
「イフェイオン・ソルム。地下水路で盗賊の首を封印した、元大地の法の担当教官だ」