(4)
ファイが学院に着くと、ちょうど会議室の扉が開き、教官たちが散っていくところだった。ロードン教官の姿が見えたので、ファイはシャモアを呼んでもらった。
会議は終わったのではなく、どうやら休憩に入ったらしい。他の教官たちからの視線を浴びながら、ファイは薬をシャモアに渡した。
「大地の法術が?」
いつもより大きな声をあげたシャモアに、ウォルナットとヒドリーが何事ですかと駆け寄ってくる。学院長までが廊下に出てきた。
シャモアはファイと同じように、自分の人指し指に薬を垂らした。緊張した面持ちで親指と人指し指をこすりあわせていたシャモアは、学院長を見た。
「間違いありませんわ。暗黒の法術のほうが強いけれど、かすかに大地の法の力が感じられます」
「ケローネー先生!」
学院長に呼ばれて、水の法担当のキュアノス・ケローネー教官がやってくる。薬学担当でもあるケローネーに、シャモアは薬瓶を渡した。
「分析をお願いします」
「わかりましたー」
のんびりした口調だがけわしい顔つきで、ケローネーが去る。
「これであの薬は解明できる。瓶底に残っているものだけでは研究が十分にできなくてね。君のおかげだ」
微笑む学院長に頭を下げて、ファイは帰ろうとした。それをシャモアがとめた。
「これからどこへ行くつもりなの?」
見透かされている。ファイは一呼吸おいてラムダの家に向かうことを告げた。夢に入る手助けをすると言えば反対されるだろうから、悪夢をしりぞける方法を教えにいくのだと嘘をついた。
シャモアはしばらくファイを凝視していたが、やがて小さなため息を漏らした。
「私との約束を覚えているわね? お願いだから、危険なことに首を突っ込むのはやめてちょうだい。いいわね?」
承知しないと帰してくれそうにない雰囲気だったため、ファイは黙ってうなずいた。そしてそれ以上追及されないよう、シャモアの前から逃げ出した。
「やはり大地の神法士がからんでいたか」
ファイがいなくなってから、学院長がつぶやいた。
「これで疑わざるを得ないようだ。非常に残念なことだが」
休憩時間が終わりに近づき、再び教官たちが会議室に集まりはじめた。シャモアの甥であり特異体質でもある生徒がなぜこんな時間に来たのかいぶかる声があちこちでしている。学院長もいることで、かなり重要な話だったのではないかと皆気にしているようだ。
「今後接触がないとは限らない。身を守るものを持たせておいたほうがいいかもしれないね」
「ええ、そうします」
会議再開の声がかかる。先に歩きだす学院長に続いて、シャモアも会議室へ入った。
ラムダの家の前で待ちはじめて、すでに一刻が過ぎようとしていた。リーバから帰った後で話したいと言っていたから、もしかしたら自分の家に行ったのかもしれない。母親に伝言を残しておけばよかったかなと思いながら、ミューが爪先で地面に横線を描いたとき、遠くからラムダが歩いてくるのが見えた。うつむきかげんだったラムダは、誰かが立っていることに気づいたらしい。顔を上げ、すぐに走り寄ってきた。
「ここにいたのか。先にミューの家に行ったら、まだ帰ってないって言われて、今日はもう会えないかと思ってた」
「ごめんなさい、私もラムダに話があったから。もうすぐイオタとファイも来るわ」
首をかしげるラムダをミューは見据えた。
「ラムダの気持ちが落ち着くまで待つつもりだったけど、私にはできないってわかったの。不安をかかえたままだと、ラムダの顔を正面から見ることができない。疑ってばかりの自分でいたくないの。だから、ネリアさんと話をさせて」
ネリアの名に、ラムダの顔色が変わった。
「彼女がラムダを取り戻したいと思っているなら、ラムダを好きな人は他にもいるんだって言いたい。本気でラムダにぶつかる権利を、私にも与えてほしいの」
ラムダは何も言わなかった。ただじっとミューを瞳に映していた。
だめだと反対されても食い下がるつもりでいた。いつ終わるかわからない結果をこの先もいらいらしながら待つくらいなら、うとましがられても自分の気持ちを伝えたい。
つと、ラムダがてのひらを差し出してきた。ミューがつられて自分の手を重ねると、ラムダはしばらくの間、ぬくもりと感触を確かめるようにミューの手を見つめた。
「……怖かったんだ」
ラムダがぽつりと答えた。
「自分の好きな人をまた守れなかったら……またけがをさせて、責められたら、俺はたぶん、もう二度と槍を持てなくなる。だから、誰かを好きになるのが怖かった。でも一緒に冒険をするようになって、気がついたら俺はミューのそばにばかりいた。戦闘中も、ついミューを守る位置に立ってしまっていたんだ」
ずっとミューの手を触りながら、ラムダは一度空をあおいだ。
「自覚はしていたけど、認めたくなかった。ミューへの気持ちを認めてしまったら、俺はもっとミューのことばかり気にするようになって、仲間にも迷惑がかかる。だから、ミューを仲間に誘ったことを後悔したこともあった。治療室で出会ったときに予感はあったんだ。感じのいい子だなって思ったあの最初のときに、いつかきっと仲間以上の感情をもつことになるって」
ミューの手をにぎる力を強め、ラムダはきゅっと唇を結んだ。
「ミューが俺と同じ気持ちかもしれないって知ったとき、ものすごく不安になった。このままでは同じことを繰り返すんじゃないか、俺はまた大事な人を失うんじゃないかって。もし冒険の最中にミューがけがをしたら、俺は……」
「それは違うわ。私は誰かに守ってもらうために冒険をしているんじゃないもの。同じものを目指したいから、みんなと一緒に見つけたいから参加しているのよ。イオタやファイみたいに攻撃の援助はできないけれど、私には私の役割があるし、それを大切に思っているの。だから私がけがをしても、ラムダのせいではないわ。ラムダ一人に責任を押しつけるようなことも、誰もしないわ」
「ああ、わかってる。ミューはそんなことをしないし、みんなもしない。だから俺も少しずつ前向きに考えられるようになったんだ」
不意にラムダの背後が暗くなった。すぐそばの服屋が店を閉めたのだ。
「エルライ地底湖に二人で行くことになったとき、告白するつもりだった。もう大丈夫だと思っていたんだ。でもリーバの町でラキスに会ってネリアの名前を聞いたとき、動揺したんだ。俺はまだ乗り越えていなかったんだって気づいたら、ミューに何も言えなかった。ネリアが夢に出はじめたのは、それから何日かたってからだ」
ミューが一瞬びくりとして手を引きかけたが、ラムダは離さなかった。そして湿りけをおびた目でミューをとらえた。
「あやまられたよ。ずっと後悔してたって。もう一度やり直したい、その機会を与えてほしいって何度も言われて、泣かれた。ネリアも俺と同じように今まで気にし続けてきたんだって思ったら、きつく追い返せなくて。どんな気持ちで過ごしてきたか、自分と重ねたら、いまさら何を言ってるんだって責めることなんかできなかった」
ラムダはミューの手を両手で包み込んだ。
「でも、もう終わりにしないとな。いくら頼まれても、俺はネリアのもとに戻る気はないから。俺には今、大事な人がいるから。ずるずる引きずってきたもののせいで失いたくないんだ」
「ミューが好きだ」
意識の遠くのほうで聞いた気がした。告げられた言葉がしみ込んでくるまで、少し時間がかかった。
やっと距離が縮まった――ラムダの手のぬくもりを感じながら、ミューは声なくうなずいた。
それからミューは、占い師や薬のことをラムダに話した。その頃には、ミューも占い師を疑う気持ちをもてるほどに落ち着いてきていた。そこへイオタがやってきた。イオタは二人の顔をじろじろ見ると、やれやれといったように前髪をかきあげた。
「どうやら話はついたみたいね」
「ええ。イオタのおかげよ」
「ファイはどうしたんだ?」
「薬を渡したら、シャモア先生に確認してもらうって学院に行ったわ。暗黒神の力にまぎれて大地の法術の気配がしたみたい。もう来ると思うけど。でも少しくらい待ってくれたっていいのに、先に一人で出ていくのよ。本当にむかつくったら。ちょっとラムダ、一発なぐらせてよ」
「はあ? なんで俺がイオタに……」
「うるさいわね。ファイにも腹が立つけど、あんたにはもっと怒ってるのよ、私は」
イオタに胸ぐらをつかまれ、ラムダはのけぞった。
「落ち着け、イオタ! ミュー、とめてくれっ」
「すぐに『治癒の法』をかけるから心配しないで」
「ミュー……大丈夫か?」
にっこり微笑むミューに、ラムダが困惑顔でかたまった。
「ここ数日の間にイオタに毒されたんじゃ……」
「聞き捨てならないわね。どういう意味よ?」
「いや、なんか性格が変わったような気がするんだが」
「馬鹿ね。あんたそれだけ近くにいて、ミューの性格をきちんと把握してなかったの?」
呆然としたさまのラムダに、今の暴言で二発に変更ねとイオタが迫る。逃げようとしたラムダのえりをイオタが引っ捕まえ、こぶしをふり上げた。
「腹ごしらえはすませてきたみたいだね」
「ファイ、いいところに来てくれたっ」
ラムダがイオタの手を振りほどき、足をもつれさせながらファイに駆け寄る。行き場のなくなったこぶしをそのままに、イオタは冷やかにファイを見た。
「おかげさまでね。それで、結果は?」
「やっぱり大地の法術がからんでいた。たぶん今日中にケローネー先生が分析してくれると思う。ラムダの夢に入るの?」
最後の問いはミューに向けられていた。ミューがうなずくと、ラムダが心配そうにミューに視線を投げた。
それから四人はラムダの部屋に移動した。ラムダの寝台が二人用の大きさであることをイオタが尋ねると、下の弟や妹がよくもぐり込んでくるので、フォーンの町に越してきたときについでに広い寝台に替えたのだという。
たまに上の弟が混ざることもあり、三人になるとさすがにぎゅうぎゅう詰めできついんだとラムダがぼやく。兄弟仲がいいのは聞いていたが、想像するとおかしくてミューは笑みをこぼした。
ファイの説明の後で眠り薬を受け取ったラムダとミューは、一度お互いを見合ってから薬を飲んだ。
並んで横たわってすぐに二人とも眠りに落ちる。ラムダの魂がよそへ飛ばないよう安定させるのはイオタが、ミューの意識をラムダの夢に運ぶ難しい役はファイが担った。ファイは左手をラムダの手に添えて文言を唱え、ラムダの夢をとらえると、右手をミューの額に当ててミューの魂をラムダの夢へ導いた。
もやがかかっている以外何もない場所で、ラムダは一人立っていた。もう何度も見ているからわかる。この夢のときはいつも彼女が現れるのだ。
そしてラムダの予想どおり、まもなくひたひたとやってくるネリアの姿があった。まっすぐな焦げ茶色の髪の先を腰のあたりで揺らし、暗紅色の瞳は切望にぎらついている。今までと同じように、ネリアはラムダと三歩ほどの距離をあけて立ちどまった。
「ラムダ、今日こそはいい返事を聞かせてくれるでしょう?」
答えないラムダに、ネリアは一歩前に出た。
「もう待てないわ。お願い、ラムダ」
ラムダは唇をかむと、今まで何度となく繰り返してきた言葉を告げた。
「俺は、ネリアとは一緒に行けない」
「どうして!?」
悲痛にゆがむ表情に、ラムダの胸がうずいた。
「まだ怒ってるの? あんなにあやまったのに、まだ許してくれないの?」
「そうじゃない」
「何でもするから。もう責めたりしないから。ラムダと一緒にいたいの。ラムダじゃなきゃだめなの」
「できないんだ。俺には今、大切な人がいる」
背後に慣れ親しんだ気配を感じ、ラムダはネリアのほうを向いたまま後ろに手をのばした。
夢の中なのに、重なった手はあたたかかった。
「誰……?」
ネリアの声が警戒にくもった。ラムダはその名をかみしめるように答えた。
「ミュー・レポリス。俺の好きな人だ」
ネリアは目を見開いた。かぶりを振り、二人を見つめる。
「嘘……だって、言ったじゃない。私のことを忘れたことはなかったって。ずっと気になっていたって」
「それは本当だ。俺はネリアの存在が頭から離れなかった」
「だったら!」
「でも『好きだから』じゃないんだ。ネリアのことを想い続けて忘れられなかったわけじゃない。俺が今までどんな気持ちで過ごしてきたか、二日前に言ったはずだ。そこから解放してくれたのは今一緒に冒険している仲間で、そしてミューだった。ミューがいなければ、俺は今もずっと過去に引きずられたままだったと思う」
「……邪魔したのね」
こぶしを震わせ、ネリアが低くつぶやいた。
「その子がいなければ、ラムダは私との関係を切ろうなんて思わなかった。その子が邪魔をしたんだわっ」
ネリアの全身から激しい怒りの念が噴き出す。ラムダは自分の背中にミューをかばおうとしたが、ミューはラムダの手をしっかりとにぎりしめ、隣から逃げようとしなかった。
「ミュー・レポリス。ラキスから話は聞いているわ。ラムダとエルライ湖へ行こうとしてたって」
まったくひるまずに視線をぶつけ返すミューに、ネリアは歯ぎしりした。
「どんな人かと思ってたけど、どこにでもいるような普通の子じゃない。けっこうかわいい? ラキスったら大嘘つきね。私は『クラーテーリスの水晶』よ。あんたに私以上の何があるっていうの? 自慢できるものがあるなら言ってみなさいよっ」
「どこにでもなんて、いない」
口を開きかけたミューより先にラムダが言った。
「俺が必要としているミューは一人しかいない。俺にとって、ミュー以上の人はいないんだ」
ミューがラムダを見上げる。ラムダはミューの手を強くにぎり返した。
「ラキスのもとへ帰ってやってくれ。あいつはネリアを本当に心配してる」
「嫌よ」
「ネリアが何度会いにきても、俺の気持ちは変わらないんだ。だから……」
「絶対に嫌!!」
ネリアが涙目で叫んだそのとき、あたりに低くしわがれた声が響いた。
“ミュー・レポリスか……いただこう”
ラムダとミューが周囲を見回した一瞬の間だった。今まで一度も近寄らなかったネリアが動いた。
ネリアがミューの腕をつかむ。つないでいた手から火花が散り、ラムダとミューは互いの手を離した。
「ミュー!?」
そしてミューはネリアに引きずられ、ラムダの前から姿を消した。
夢からはね起きたラムダは、隣で横になっているミューをふり返った。
「ちょっとラムダ、そんな急に起きたらミューが戻ってこられなくな……え? ファイ、どうしたの?」
ラムダを非難しかけたイオタは、寝台に手をついて額を押さえるファイに目をみはった。
「ミュー、起きてくれ。ミュー!」
ラムダは何度もミューの肩を揺すり、頬を軽くたたいた。だがミューはまったく反応を示さない。
「何があったの? ねえ、ラムダ。ファイ、あんたラムダの夢を見てたんでしょ? 説明してよっ」
わめくイオタにかまう余裕はなかった。ラムダは焦燥感に打ちのめされる中、ミューの手に触れた。
まだぬくもりはある。まだあたたかいのに。
かたくまぶたを閉ざしたミューは、息をしていなかった。