(3)
野外研修の翌日、登校したシータは学院の雰囲気にとまどった。
いたるところで生徒数人がかたまり、深刻な容相で話をしている。笑い声はほとんど聞こえず、すすり泣きがどこからか漏れてくることさえある。
廊下で会ったタウから、意識の戻らない女生徒が日ごとに増えていることをシータは知らされた。また、男子生徒も何人か命を落としているという。
呼吸のとまった状態で眠りについている少女たちが全員神法学科生であることも、噂を大きくしていた。彼女たちは皆「自分は生き返る」と手紙を残しているが、いまだ誰一人目を覚ましていない。
そして放課後、シータは数日ぶりに闘技場に足を運んだ。タウやローに研修のことを尋ねられて報告したが、隣に座っていたラムダは何度もあくびをしていた。
「寝不足なの、ラムダ?」
「んー、ちょっとな」
ラムダは半目で髪をかき乱した。
「最近のラムダ、ずっとこんな調子なんだよ。でもファイも様子がおかしいんだ。このところ全然顔を見ていない」
「そういえばそうね」
果汁の入った杯を配るイオタもローに同意する。そこへミューとファイが一緒に現れた。ファイは明らかに顔色が悪く、部屋に踏み込んだとたん額を押さえた。
「ファイ、無理をするな。具合が悪いなら今日は家で休んでおけ」
ミューと並んで席に着くファイにタウが眉をひそめる。
「解決しないかぎり、ずっとこの状態が続くから……話をしておかないと」
イオタが二人の前にも杯を置いたが、ファイはそれには触れず、ラムダを見た。
「ラムダのそばに行くと気持ち悪くなるんだ。ラムダだけじゃない。他にもそういう人が学院内にけっこういて、できるだけ避けていたから、何なのか気づくのが遅れた」
視線をあわすことすら耐えられないのか、ファイはすぐにラムダから顔をそらした。
「闇の力だ。ラムダにまとわりついている」
「なっ……ネリアが俺に呪いをかけているというのか!?」
椅子を蹴倒して立ち上がったラムダは全員に注目され、口を滑らせたことを悔やむかのように歯ぎしりした。
「ネリアって誰よ?」
イオタがラムダをにらむ。ミューは目を見開いたまま唇を震わせていた。
「焦点はそこじゃないだろう。間違いないのか、ファイ?」
確認するタウにファイははっきり肯定を返した。
卓上でラムダがこぶしをにぎる。ローが起こしてくれた椅子にラムダは乱暴に座りなおした。
「睡眠不足と関係があるのか?」
よけいな感情をこめない淡々とした調子で、タウが尋ねる。しばらく自分の顔をなでまわしていたラムダは、やがて話しはじめた。
「もう十日以上になるか。毎日夢に幼なじみが出てきて、言うんだ……やり直したい、一緒にいたいって。俺がうんと言えば自分は幸せになれるからって」
「承知したのか?」
ラムダはかぶりを振ると、椅子の背もたれに身を預けた。
「ネリアとは、俺がまだリーバの町にいた頃によく遊んでいたんだ。今は神法学科生らしいが、あの頃はそんな力があるとはわかっていなくて、俺が他の奴らと冒険まがいのことをするのを黙って見てた。でも四年前、ネリアが欲しがっていた花を取りに、俺は一人でサルムの森に行こうとしたんだ。誕生日に渡すつもりだったから、遊び仲間を連れていくわけにはいかなかった。花なんか摘んでいたら、からかわれるからな。こっそり出かけたつもりだったんだが、俺が一人だと知ってネリアが無理やりついてきてしまってな。口では帰れと言いながらも、俺はあいつを守れる自信があった。だけどネリアは今まで冒険をしたことがなかったから、森でどの生き物が危険かなんて知らなかったんだ」
「獣に手を出したのね?」
ラムダはイオタにうなずいた。
「俺がふり向いたときには、毒ハリコネズミを捕まえようとしていた」
見た目は小さく愛らしいが、触ろうとすると怒り、体の毛を飛ばしてくる動物だ。そのかたくとがった毛の先には毒があり、刺されば高熱が何日も続く。死にいたるほどではないが、運が悪ければ後遺症がでる可能性があった。
「急いで逃げたが、連中は一匹が凶暴化すると他のも集まってくるだろ? 森を出たときには二人とも体中が針だらけだったよ」
それから数日間、ラムダは熱にうかされて起き上がることができなかった。やっと意識が戻ったとき、ネリアも同じ状態だと聞かされた。
どうにか動けるようになってから、ラムダはネリアの見舞いに行ったが、ネリアは泣いてラムダに怒りをぶつけ、追い返した。その後、ラムダの祖父が年で仕事ができなくなったというので、一家はフォーンの町に移ったのだ。
「それからネリアとは一度も顔をあわせていない。でもこの前エルライ湖に行く途中で、昔の遊び仲間に偶然会ってな。久しぶりに名前を聞いたから夢に見るようになったのかと思っていたんだが」
「それだけあんたも彼女のことを気にかけていたってわけね。どうりでいつまでもぐじぐじはっきりしないと思ったわ。あんたまさか、まだそのネリアって人のこ……ミュー?」
「ごめんなさい。私、店番を任されているから」
席を立ったミューは、イオタがとめるより先に部屋を出ていった。
「あんたのせいよ」
「イオタ、その話は後だ。ややこしくなる」
ラムダを責めたイオタはタウに注意され、ますます目をつり上げた。
「何よそれ。そもそもその人が勝手についていってけがをしたくせにラムダに八つ当たりしたんでしょ? 自分から突き放しておいて、今頃になって夢に出てきてよりを戻したいなんておかしいじゃない。何が目的か知らないけど、わがままもいいところだわ」
「ネリアの悪口はやめてくれ」
ラムダが声を荒らげる。イオタはラムダとにらみあった。
「本気で言ってるの?」
無言のラムダにイオタは腰を上げた。
「最低ね」
大きな音を立てて扉が閉まる。イオタも出ていった室内にしばらく沈黙が落ち、タウがため息をついた。
「ラムダが彼女を受け入れれば彼女も幸せになれると言ったんだな?」
「ああ。いつも手を差し出してくるんだが、俺がなかなかにぎろうとしないから、昨日はついに泣かれてしまったけどな」
「そういえばバトスも、一年前に別れた相手が最近夢に出てきて復縁を迫っているって言ってたな」
「その相手も神法学科生?」
「ああ、たしか大地の法専攻生だ」
タウが女生徒の名前を告げると、情報通のローははっとした表情になった。
「三回生だよね? 彼女、三日前に家で倒れて、今も息がとまったままだよ」
五人は顔を見合わせた。
「じゃあ、ネリアも半分死んだ状態で俺の夢に出てきているってことか?」
「可能性は否定できない。とりあえずラムダは彼女が何と言おうと、絶対に手をとってはだめだ。もし倒れた男子生徒が夢で相手の誘いに乗ったのだとしたら、ラムダも同じようになるかもしれない」
ファイの言葉に、ラムダは「わかった」と重苦しい容相で承知した。
ミューとイオタが抜けたため冒険の話し合いは中止となり、タウとラムダを残してシータたちは闘技場を出た。
ラムダと離れたおかげか、ファイの顔色はしだいによくなった。控え室にいる間は今にも倒れそうなくらい青ざめていただけに、シータはほっとした。
「ラムダとバトスの話を聞いて気づいたんだけど、今まで僕が耳にした情報をあわせても、どうもみんな好きな相手の夢に現れているような感じだよね。でも、それならタウが夢を見ていないのは変だな」
いつでもどこでも人の視線を背負って歩いているような人間なのにと、ローが首をかしげる。
「人の夢に入るのは簡単なことではないんだ。力のある人間や神の啓示の類なら、本人の意志に関係なく割り込むことができるけど、普通の人が夢の中で話をするには、相手も自分のことをよく知っている必要がある。相手の記憶の中に自分の存在があってはじめて会話ができるんだ」
「なるほど、そういうことか。それにしても、ラムダやバトスみたいに夢を見ている人って何人くらいいるんだろう。ファイが学院内を歩けないくらいだから、かなりの数だよね。でもイオタやミューは平気みたいだし、他の神法学科生も気分が悪くなったりはしないのかな」
「闇の気配には鈍感なほうがいいんだよ。僕は……体質的に反応しやすいんだと思う」
ファイが目を伏せる。神々の寵児であるファイは四神だけでなく、天空神や暗黒神ともつながれるということなのだろう。
「それなら私は?」
「シータはどう見ても敏感じゃないだろ」
ローが笑う横で、ファイが真顔で答えた。
「シータは神法士としての能力がないからわからないだけだ。でも一度体に宿しそうになったことで暗黒神と関わってしまったから、注意したほうがいい」
暗黒神アルファードの手がのびてきたときのおぞましい感覚を思い出し、シータも身震いした。たとえ邪気は祓っても、一度触れてしまうと絆ができてしまうのか。
これ以上暗黒神に関係のあるものに近づかないようにしなければ。ファイの忠告をしっかり心に刻み、シータは二人と別れた。
休日の早朝、身支度を整えてラムダは家を出た。昨日武具屋に寄って馬を頼んできたので、カラモスは準備してくれているはずだ。急げば夕方には帰ってこられるだろう。その足でミューのもとに行こうと考えていたラムダは、前方から本人がやってきたため驚いた。
「おはよう」
一見いつもと変わらない調子であいさつされ、ラムダも慌ててあいさつを返した。
「どこかに行くのか?」
「この先のカヌラさんの家にね。休みの日はいつもパンを届けているから」
ミューはパンの入ったかごをちょっと持ち上げてみせた。
「朝ここを通っていたなんて知らなかった。教えてくれれば……」
「誰にも言ってないもの。言うつもりもなかったし」
ミューはラムダの家をあおいだ。
「私だけの秘密の楽しみだったから。ラムダはこれからリーバに行くの?」
ずばり当てられてラムダはこわばった。そんなラムダを見てミューは視線をそらした。
「ネリアが仮死状態で俺の夢に出てきているかもしれないって聞いたから。でも確認したらすぐに帰る。その後で少し話せないか?」
「ごめんなさい。今日は用があるから」
「じゃあ明日は?」
「明日も都合が悪いの。カヌラさんが待っているから、もう行かなきゃ。気をつけて行ってきてね」
脇を通り過ぎるミューにラムダは食い下がった。
「リーバにいたとき、俺はネリアが好きだった。それは事実だ。でも今の俺には大事な人がいるし、ネリアにも付き合っている奴がいる」
「ネリアさんは違うわ。彼女はまだラムダのことが好きなのよ。そうでないと、薬を飲んでまで夢に出てきたりなんか……」
「ミュー、俺はもう二度と後悔したくないんだ。きちんと話ができないまま、あきらめるようなことをしたくない。だから頼む」
ふり返らないミューにラムダは頭を下げた。
「……少し考えさせて。私も決めたいことがあるから」
ミューはそのままラムダのほうを見ることなく去っていった。
追いかけたい気持ちと、これ以上声をかけるのが怖い気持ちが入りまじり、のどの奥が詰まった。
別れ際にミューがふり向かないことは今までなかった。いつも自分がミューをかえりみると、ミューも同じように自分のほうを見て、笑顔で手を振ってくれていたのだ。
どんどん小さくなっていくミューの後ろ姿が、泣きわめきながら自分を扉の外へ押し出したネリアと重なる。
また失うのか。そう思うと背筋が寒くなった。
ラムダは一度こぶしをにぎると、深呼吸をした。
二人だけになった闘技場で「ミューならわかってくれる」とタウは言ってくれた。今日ネリアの家に行くのも情報を得るためであって、やましい気持ちはない。大丈夫だ。
こんな形で終わらせたくない。自分はまだミューに言いたいことを言っていない。やっと芽吹いてきた気持ちをむだにするわけにはいかない。
急いで行って帰ってこよう。少しでもミューと話す時間を長くもてるように。ラムダはミューから目を離すと、カラモスの武具屋へと走った。
リーバの町に着いたのは、昼を過ぎた時分だった。ファイに『早駆けの法』をかけてもらえばよかったなと悔やみながら、ラムダはネリアの家に向かって馬を進めた。
あとわずかで到着するというところで、ラキスに再会した。顔がやつれているせいか、ラキスの目つきは以前よりきつく感じられた。ラムダは馬を下りてラキスと並んで歩きだしたが、ラムダの行き先がネリアの家だと知ったラキスはいっそう剣呑な表情になった。
「何の用なんだ? ネリアはお前とは会わないと思うぞ」
「そうだといいんだが……ネリアは生きているのか?」
ラキスがびくりと肩をはね上げた。
「お前、どうしてそれを……?」
やはりか、とラムダは唇をかんだ。他の女生徒たちと同じように、ネリアは仮死状態で眠っていたのだ。
「倒れてからもう十日以上になる。薬を飲んだらしくて、心臓は動いていない。でも『生き返るから』って手紙があったから、ネリアの両親も俺もずっと待っているのに……毎日呼びかけているのに、目を覚まさないんだ」
ラキスが鼻をすする。どれだけネリアを案じているのかが伝わってきて、ラムダは胸を痛めた。
自分が手をとりさえすれば、ネリアはよみがえるのだろうか。だが今のところ、誰かが蘇生したという話は聞こえてこない。息がとまってしまった男子生徒のことも気がかりだ。そのときラムダはミューとの会話を思い出した。
ミューはなぜネリアが薬を飲んだことがわかっていたのだろう。
「何か知っているのか、ラムダ? だからここに来たのか?」
目に涙をためながら、ラキスはラムダにすがりついた。
「なあ、教えてくれ。ネリアはどうなってしまったんだ? 息を吹き返すんだろう?」
「大丈夫だと思う。昨日も夢に出てきたから、まだ生きているはずだ」
昨夜の夢でも、ネリアはラムダに訴えてきたのだ。どうか手をにぎってくれ、そうすれば自分は元の世界に戻れるのだと。
「夢って何のことだ?」
「ああ、それは……」
説明しようとして、ラムダはしまったと口を押さえた。ラキスに言えるような話ではなかったのだ。
「ネリアが夢に出てくるのか? ネリアは何て言ってるんだ?」
何とかごまかそうと必死に考えをめぐらすラムダに、ラキスが詰め寄る。へたな言い訳をするよりはいったん逃げたほうがいいかと迷っているうちに、ラキスに両肩をつかまれた。
「言えよ、ラムダ。ネリアはお前に何て言ったんだ!?」
「……自力では体に戻れないらしいんだ。理由まではわからないが」
ネリアの言葉をそのまま告げるわけにはいかない。ラムダはできるだけ答えをぼかしたが、ラキスは奥に隠されたネリアの気持ちまで読み取ったようだった。
「どうしてお前なんだ? ネリアが今付き合ってるのは俺なのに、なぜお前なんだよ?」
それまでつかまれていた肩を乱暴に突かれ、ラムダはよろめいた。
「お前がいなくなってから、ネリアが落ち込んでいたのをなぐさめたのは俺だ。ずっとそばにいたのは俺なんだ。それなのに……」
「ラキス、俺は」
「帰れよ」
「聞いてくれ。俺はもう、ネリアとは――」
「ネリアは俺の恋人だ。誰にも渡さないし、俺はお前のようにネリアにけがをさせるようなへまはしない。帰ってくれ。お前の顔なんか二度と見たくない。帰れ!!」
もみあい、突き飛ばされたところに馬車がくる。ぎりぎりのところでラムダを避けた御者が、悪態をついて過ぎ去った。
馬車を見送ったラムダがふり返ったとき、ラキスはすでに駆け出していた。この先にはネリアの家がある。もうあと少しの距離だったが、ラムダはため息をつくと馬にまたがり、来た道を引き返した。
徐々に影のさしはじめた川を、ミューは橋の上からぼんやり眺めていた。カヌラにパンを届けてから一度家に戻ったものの、ラムダが訪ねてくるかもしれないと思うと落ち着かず、結局出てきてしまった。
エルライ湖で、ラムダの気持ちの整理がつくまで待つと約束したのに。ネリアがラムダの過去に深く関わっている人だという予感はしていたのに、話をしようとするラムダから自分は逃げている。
リーバにいた頃にラムダが好きだった人。そして、今もまだ彼女はラムダを好きで、ラムダも彼女を忘れていないこと。明らかになるたびにそれらすべてが全身に突き刺さり、気がふれそうだった。いっそのこと忘れ薬を飲んで記憶を消してしまおうかとさえ思った。
ネリアのこともラムダのことも、自分の気持ちも、全部忘れることができたらどんなに楽だろう。
ミューは家から持ってきた瓶をかざした。成分表示も薬名も書かれていない瓶に入った灰黄色の液体は、ミューが飲むのをせかすように中でちゃぷちゃぷ揺れた。
占い師に言われたとおりのことが、今起きている。自分が足踏みしている間にも、彼女はラムダに近づいているのだ。そして本気でラムダを取り戻そうとしている。
大事なものを失わないためにすることは一つ。でも本当に彼女に勝てるのだろうか。
クラーテーリス学院の代表に選ばれるような人と――ラムダが忘れずにいた過去に存在し続けてきた人と、対等に勝負ができるのだろうか。
ミューはポケットの中の手紙にそっとさわった。これを飲んで目を覚ました人はいない。もしかしたら永久に魂がさまようことになるかもしれない。
瓶をしばらく見つめ、ミューは意を決してふたを開けた。
「だめよ、ミュー」
瓶を持っていた手を横からつかまれる。深黄色の瞳がまっすぐにミューの顔をのぞき込んだ。
「おばさんに聞いても行き先がわからないって言うから、ずいぶん捜したのよ。その薬、もしかして噂になっているものじゃないの?」
イオタはミューから瓶を取り上げるとふたを閉めた。
「これを飲んで、ラムダの夢に入るつもりだったの? どうしてラムダと直接話をしないのよ?」
「私……」
「怒ればいいじゃない。ふざけるなってひっぱたいてやればいいじゃない。いつまで過去にこだわっているんだって。今までさんざん待たせておいてこれは何よって言ってやりなさいよ」
ミューはかぶりを振った。
「そんなことをしたらラムダが……」
「困らせてやればいいじゃない、あんな馬鹿男。それくらいしたって罰は当たらないわよ。勇気が出ないなら私が『勇みの法』をかけてあげるわ。とにかくこの薬はだめよ」
返してくれという言葉は思い浮かばなかった。どこかでほっとしている自分に気づいたとき、ミューは涙がとまらなくなっていた。
イオタに抱きしめられると、ますます感情が高ぶった。人前でしゃくりあげるほど泣くのは初めてだったが、恥ずかしいというよりはむしろ気持ちがすっとした。
それからミューは今までのことをイオタに話した。リーバの町でのこと、エルライ地底湖でのこと、占いの店で言われたこと、そして今朝ラムダに会ったときのこと。
「ラムダはずっと彼女のことを忘れられなかったんだって思ったら、どうしたらいいかわらかなくなって……」
「忘れられないからって今も好きとはかぎらないわよ。嫌な思い出ほどなかなか消えないものだし」
「でも『過去の思い出』って『今』より人を引きつけることがあるわ。彼女と私では、一緒にいた年数が違いすぎるもの」
「大事なのは時間の長さじゃないわ。どれだけ親密だったかでしょ」
「それに彼女、『クラーテーリスの水晶』なの。きれいな人だと思うし」
「あらそうなの? 私より美人ならちょっとまずいわね。でもそんな人めったにいないから大丈夫よ」
「イオタったら」
ミューは噴き出した。立て続けにあっさり返されると、悩んでいたことがとてもちっぽけなものに見えてきた。
「いい、ミュー? もしラムダがあの人のことをまだ好きなら、とっくに誘いに乗ってるはずでしょ。ラムダが今誰に目を向けているか、私たちにさえわかるのよ。それを、ずっとラムダを見てきたあんたがわからなくてどうするの?」
胸の奥がじわりと熱くなった。それまで弱々しかった意志の鼓動が力強くなる。
「きっぱり突き放せない軟弱ぶりには腹が立つけど、寝不足になっても断り続けていることに関しては、まあほめてあげてもいいわ。とにかく、ミューはあの人に負けているところはないんだから、もっと自信をもちなさい」
「イオタ……ありがとう」
ミューはイオタに抱きついた。
きついとか傲慢だとか、よく陰口を聞くが、やっぱり自分はイオタが好きだ。イオタといると、心に炎を分けてもらえる。
「私、ラムダに会いに行くわ。ネリアさんとも話をしてくる」
「ラムダの夢に入るってこと?」
「今のところ、そこでしか会えないから。彼女は本気だもの。ラムダを連れていかれないように、ちゃんと話をしたいの。もちろん薬は飲まないから、夢に入る手助けをしてくれる人が必要だけれど」
「そうねえ。私一人じゃ少しこころもとないわね。いいわ、ファイを呼びにいくから、ミューは先にラムダの家に行ってて。ついでに薬もファイに見せてくるわ。だからそれまでに、ラムダときちんと話をしておくのよ」
「わかったわ。お願いね」
そうと決まればとイオタが足早に去っていく。ミューはイオタを見送ってから、ラムダの家へと向かった。
いきなり家に押しかけてきたイオタに、夕食の最中だったファイは渋い表情で応対した。だがファイの母親は、あまり人付き合いをしない息子を訪ねてくる学院生は貴重な存在だとでも思っているのか、快くイオタを客間に通したうえに食事まで運んできた。「あんたのその愛想のなさは誰に似たの?」とイオタに言われてむすっとしながら、ファイは長椅子に座って薬瓶のふたを開けた。
「匂いは仮死状態になる薬のようだけど」
予想される原料を紙に書き出していく。道具を使って詳しく調べれば、無臭のものもいろいろ出てくるだろう。研究部屋に移動しようかと考えながら指に液を一滴垂らしたファイは、伝わってきた『力』に眉をひそめた。
「でもただの仮死状態になる薬なら、いまだに誰も目覚めないのはおかしいわよね。魂が体に戻れない事情が何かありそうなんだけど……あら、これおいしいわ」
野菜の煮物をつついていたイオタは、無言のファイをふり返って手をとめた。
「ただの、じゃない。術が施されている」
ぴりぴりした刺激の続く指をファイは見つめた。できれば関わりたくない神の法の力だが、それはラムダからも漂っていたのでわかっていたことだ。それよりも――。
「術って、やっぱり暗黒神の?」
「うん。それともう一つ……」
ファイは天空の法術で暗黒の力を追い払ってから、さらに水の『清めの法』を使って、指にまとわりついていたけがれを取り除いた。
「この薬、預かってもいい? 確認してもらいたい人がいるんだ」
「誰に? シャモア先生?」
ファイはうなずくと立ち上がった。
「確かに闇の力は感じるんだけど、それに大地の法術がまざっているような気がするんだ。うまく隠されているというか……もしかしたら作った本人の本来の力がたまたま流れてしまったのかもしれないけど。今日はたしか学院で会議をしているはずだから、ちょっと行ってくる」
「これから? 夢に入る手伝いはどうするのよ?」
「渡したらすぐにラムダの家に向かうから。イオタはお腹がすいているなら、ここで食べていけばいい」
「ちょっと、ファイ!? もうっ」
薬を手に部屋を出ていくファイに、イオタはぶつぶつ文句を言った。
「それって、まるで私が食いしん坊みたいじゃない」