(1)
校門へと移動する生徒たちの流れに逆らい、ファイは薬学教室を目指して放課後の廊下を小走りに渡っていた。
もうじき『炎の神が奮い立つ月』に入るせいか、建物内は熱気にあふれている。通気性のよい法衣に変えても体が汗ばむ毎日は、たまらなく苦痛だった。
「ファイじゃないか。どうかしたのか?」
階段をのぼりかけたところで、ラムダが下りてきた。彼が一人でいるのは珍しい。目を細めたファイは不意に悪寒に襲われた。
天井が一回転する。とっさに壁に手をつき、ファイはどうにか踏みとどまった。
「おい、大丈夫か?」
「たぶん走ったから」
差しのべられたラムダの手を取ると、吐き気を覚えた。体はほてっているのに芯の部分が冷えているような、奇妙な感覚だった。
「薬学の教科書がなくて。教室に置き忘れたんだと思う」
「だからって倒れるほど急がなくてもいいだろう。たしか去年もこの時期に体調を崩していたよな」
「蒸し暑いのは苦手なんだ」
ファイは深く息をつくと、青銀色の髪をかきあげた。
「神法学科生って大変だよな。どんなに暑くても法衣を着ていないといけないんだから」
「ラムダは今日、外の手洗い場で水のかけあいをしていたよね」
午後の太陽が一番照りつける時間帯、中央棟の二階でファイが薬学の授業を受けている間、ラムダは他の槍専攻生たちと上半身裸で水遊びをしていたのだ。
武闘学科生は何をするにもたいてい集団で楽しむ。水浴び一つでなぜ大騒ぎできるのか不思議だが、そのときのファイは暑さに滅入りそうだったため、水に触れているラムダたちがうらやましかった。
「気持ちよかったぞ。今度ファイもやるか?」
「学院内では遠慮しておくよ」
ラムダの誘いにファイはかぶりを振った。
「一人で歩けるか? 教室に行くならついていくぞ」
「もう大丈夫だから」
そのとき、ラムダの視線がファイの後方へ動いた。つられてファイがふり返ると、シャモアが歩いていた。階段にファイがいることに気づきもせず、前だけを向いている。
ファイは違和感を覚えた。いつも落ち着きと理知の光をたたえている緑色の瞳が、どこかぼんやりしているように見えたのだ。
「叔……先生?」
声をかけると、ふっとシャモアの足がとまる。ゆっくりと首をめぐらせたシャモアのまなざしは、ファイがよく知るものだった。
「あら、ファイ。そこにいたの。先ほどまでイフェイオン先生がいらしていたのよ。あなたとお話がしたかったようだけど、あまり長居はできないからと帰られたわ。途中で会わなかった?」
イフェイオンは先々代の大地の法の担当教官で、少し前に地下水路で発見した盗賊の髑髏を封印した人物だ。ファイがかぶりを振ると、シャモアは「そう」と答えた。
「先生、何かあった?」
「いいえ、何もないわよ。どうかして?」
「……それならいいんだ」
「ふふ。おかしな子」
シャモアはやわらかい笑みを残して去っていった。
やはり気のせいだったのか。あまりの暑さに自分の視界がゆがんでいるのかもしれない。
「なあ、ファイ」
ふらふらと階段をのぼりはじめたファイは、今度はラムダに呼びとめられた。
「お前、夢解きってできるか?」
「そこまではまだ……」
夢解きは精神治療もあわせて神法学院で習うものだ。それにファイは四つの法術に加えて天空の法術も独学で勉強しているため、使える時間はもう残ってはいなかった。
「気になる夢を見たの?」
「あー、いや、いいんだ。また明日な」
ラムダの横顔はどことなく暗かった。だが問いかける気力もなく、ファイは黙って見送った。そして広い背中が完全に視界から消える頃には自分の体調もよくなったので、そのまま薬学教室に向かった。
教室の扉を開けたところで、ファイは一瞬かたまった。まだ誰かが残っているとは思わなかったのだ。しかもそれが自分の知っている人物とくれば、笑い話のような偶然だ。
「ああっ、ファイ、いいところに来てくれたっ」
窓際中央の席に座していたシータが、両手を挙げてファイを歓迎する。幾分陰りはじめた斜光を浴びるその顔は、疲労の色に染まりきっていた。
「反省文はなんとか書けたんだけど、もう一つの課題がさっぱりでね。どうしようって思ってたの」
ファイは歩み寄ると卓上の用紙を見やった。嫌々書いたのが丸わかりな文字で、反省文が二枚つづられている。そして別の一枚はまったくの白紙だった。
「六限目の授業で忘れ薬を作ってたの。でも隣の班のピュールが私たちの薬にこっそり『とまりの水』を加えようとしたから、喧嘩になっちゃって」
忘れ薬はアポッリュナイ草とエルライ湖の霊水で作る。だがそれは一時的に忘れさせる場合のもので、永久に記憶を封じるならば『忘れたいもの』に関係する材料を追加し、最後に『とまりの水』を垂らす。もしここで必要な材料を入れず『とまりの水』だけを加えると、すべての記憶をずっとなくしたままになってしまう。
周囲を見回すと、すみのごみ箱に割れた瓶が山積みにされていた。自分がここで授業を受けたのは五限目だったが、今日は実験をしていない。あれら全部をシータたちが割ったということか。
「ピュールは?」
「片づけが終わったら出ていった。別の場所で反省文と課題をやってるんじゃないかな。必修科目はともかく、選択授業までほとんどピュールと同じだから最悪だわ」
シータは愚痴を言いながら羽ペンをかんでいる。よほど腹にたまっているらしい。
「毎回喧嘩してるの?」
「私だってできれば穏やかに過ごしたいけど、ピュールが意地の悪いことばかりするから。ああもう、入学してから何回反省文書いたんだか」
「あまり机に顔を近づけないほうがいいよ。ここの教室、いろんな薬がこぼれてるから」
べったりと長机にうつぶしたシータは、ファイの忠告に慌てて顔を上げた。
「なんで薬学をとったの?」
武闘学科生なら初級薬学は必修科目になっていないはずだ。実際、植物学は習っても薬学までとる武闘学科生は少ない。手順や材料など覚えることはどんどん増えていくし、授業は難しい部類に入るので、初級薬学が必修科目に入っている神法学科生でさえ、選択科目になる中級と上級薬学を取得する人間は減るのだ。
「パンテールに誘われてつい……それに、薬を作るのもおもしろそうかなと思って。作ること自体は楽しいんだけど、ピュールはいるし、ケローネー先生の話って眠くなるのよね」
あのしゃべりかたがねえ、とシータがぼやく。
「そういえばファイ、何か用事があって来たんじゃないの?」
「教科書を忘れたんだ」
ファイは自分が座っていた机に行くと棚をのぞいた。予想どおり入っていた本を袋にしまい、シータをふり返る。
「課題って何?」
「ピレイン草の花と永遠の結晶、それから自分の血を一滴、エルライ湖の霊水を満たした銀の鍋に入れて冷えた炎で煮ると、どんな薬ができるか。ついでに材料の採取場所についても調べろって」
「どこまでわかってる?」
「全部わからない」
ファイはため息をついた。
「惚れ薬だよ。ピレイン草はエルライ湖の底に生えていて、『水の女神がまどろむ月』の満月の晩だけ花が咲く。つぼみのときに近づくと幻覚を見て意識がなくなるから、おぼれないように気をつけなければならない。永遠の結晶は降臨祭の日に降る雪のことだ。集める量としては小瓶一本分くらいかな。銀の鍋は必ず新しいものを使うこと。冷えた炎は『水の女神がまどろむ月』にレオニス火山で芽吹く氷樹の枝を燃やすとできる。ただし薬を作るのは満月の晩限定で、それ以外の夜だと正反対の性質になるんだ」
「すごい……さすがファイ」
「書かなくていいの?」
目をしばたたいていたシータは、すぐ声に出して繰り返しながらペンを走らせた。普段は授業の内容をほとんど覚えていないくせに、こういうときは一回で頭に入るんだなと、ファイは感心した。瞬間的な記憶力がいいのか、忘れるのが極端に早いのか、あるいは集中力に波がありすぎるかのどれかだろう。シータが書き終えるのを待ってファイは続けた。
「薬は完成後六日以内に使用しないと蒸発してしまうらしい。効果は一月くらいと言われている。ああ、自分の血は絶対に一滴にすること。多ければ多いほど相手の気持ちが愛情ではなくて食欲に変わる恐れがあるから。それくらいかな」
無言で手を動かしていたシータは、最後の一文字を記すとそのまま両腕を前に突き出して伸びをした。
「終わったあ。本当にファイが来てくれて助かったわ。この薬って二回生で習うの?」
「まさか。忘れ薬は治療でも使うものだけど、こんなものを授業でやれば絶対に作る生徒が出てくる。もめごとにもなりかねないし、先生の首が飛ぶよ」
「そうだよね。ということはファイの独学? もしかして……」
「ないよ」
シータが質問を言い切る前に否定する。知識としてはもっているが、作ったことも作ろうとしたこともない。
シータの表情はどこかほっとしたような残念そうな、複雑な感じだった。
「先に帰るよ」
「あ、ちょっと待って。先生に出してくるから、途中まで一緒に帰ろうっ」
身をひるがえすファイにシータが腰を浮かす。結局ファイはシータにつきあって教官室まで行き、その足で下校した。
さすがに昨日の今日だからか互いに警戒しあい、ピュールとは何事もなく一日が過ぎた。今日は町の闘技場に集まる日であり、シータが足早に校門へ向かっていると、ローが大きく手を振りながら追いかけてきた。
「シータ、聞いてくれよ! もう最高なんだよ。昨日叔父さんが久しぶりにうちへ来たんだけど、土産に何をくれたと思う? びっくりするくらいすごいものだよっ」
「何をもらったの?」
一応問い返しはしたが、ある程度予想はついた。ローが喜ぶものといえば、あの類しかない。
「『女神の御使い』だよ。野生ではサルムの森にだけ生息する蛇で、国内でも百匹もいないって言われているんだ。しかもなぜか発見されるのは雌ばかりで、繁殖方法はいまだ解明されていない不思議な生き物なんだよ。叔父さんからもらったのも雌だけど、子供でね。体は真っ白。目はきれいな黄色をしているんだ。すごくかわいいよ。僕、昨日は興奮して眠れなくて、ずっとルーナを見てたんだ」
「ルーナってその蛇の名前?」
「そうだよ。いい名前だろう?」
二人は肩を並べて歩きだした。ローは幸せの絶頂にいるらしく、足取りがいつもより軽やかだ。今ならヘイズルたちが嫌がらせをしてきても、笑って許してしまうに違いない。
「奇跡のパンのおかげだよ。シータに効果があったからかなり期待してたけど、本当に願いがかなうなんて」
そういえば、皆が何を望んだのか教えてもらっていない。
他の五人はいったいどんな願い事をしたのだろう。
ポケットをまさぐると、指先にかたい石の感触が伝わってくる。今日もまたちゃんと手元にあることにシータは安心した。
自分に降りかかった災難が解決した後、てのひらに現れた緑色の玉――他の六人が触るとすぐ消えてしまうが、いつのまにか自分のふところに戻っている。さらに、玉が見えるのは七人だけというのがわかったのは、次の日パンテールに話したときだった。パンテールは玉に触れるどころか、目に映りもしなかったのだ。
結局七人は相談し、七人だけの秘密にしておこうということに決めた。ローの言うとおり、本当に虹の森へ行くために必要な宝なのかもしれないし、自分たちだけにしか見えないということは、何か意味があるに違いない。
「あれ? あそこにいるの、ミューじゃないか?」
校門を抜けたところで、ローが左斜め前方を指さした。小さな天幕から出てきたのは確かにミューだ。
シータは名前を叫ぼうとしてやめた。様子がおかしい。
「どうしたんだろう? なんだか元気がないね」
ローも首をかしげる。声をかけるかどうか二人が小声で相談していると、ミューのほうが二人を見つけて近づいてきた。
「このまま闘技場に行くの?」
「うん、ミューは?」
「私もよ」
にこりと笑うミューに、シータはほっとした。いつものミューだ。
「あそこ、最近町へ来た占い師の店だよね」
ローが天幕をかえりみる。
「ええ。よく当たるって聞いたから」
「ミューは占術の授業をとってなかったっけ? 自分でできるのに見てもらうの?」
疑問を口にするローに、ミューは困った顔をした。
「本当に知りたいことは自分では占えないのよ」
「占いの決まり?」
「違うわ。自分の望みが強すぎて正しい結果をゆがめてしまうことがあるし……怖くてできないだけ」
ミューが足元に視線を落とす。薄紫色の瞳が弱く光って揺れている。
「でも『こういう未来が待っています』って言われても、そのときになってみないと実感はわかないわよね」
「占いの結果、あまりよくなかったの?」
遠慮がちにシータが尋ねると、沈黙が落ちた。ミューは一度きゅっと唇を結んだ。
「恐れていたことが現実になるって言われたの。大事なものを失わないためにすることは一つだって」
「何のことかわかってるの?」
ミューはうなずいた。
「負けたくないから……頑張らないとね」
そこでミューが話題を変えたので、二人も追及はしなかった。そしてローはシータに話したのと同じように、奇跡が起きたことをミューにも報告した。結局闘技場に着くまで、シータとミューは爬虫類がいかにすばらしいかという熱弁を聞き続けるはめになった。
三人が闘技場内の控え室に入ると、他の四人はすでに来ていた。イオタが準備したのか、円卓には菓子や果汁が並べられてある。
「珍しい組み合わせね」
一緒に現れた三人にイオタが目をみはった。
「途中で会ったのよ。奇跡のパンに祈ったローの願い事がかなったんですって」
ミューの言葉にシータはぎょっとした。案の定「そうなんだよ、実はさ……」と再びローが嬉しそうに話しだす。
これでまたしばらくの間、ローの一人演説大会だ。一回聞くだけでお腹がいっぱいになる話なのに、三回も聞くのはつらい。まさか他のみんなにも同じ苦痛を分け与えるのが狙いなのか。涼やかに微笑むだけのミューに、シータは密かに疑いのまなざしを投げた。
翌日、学院は朝から大騒ぎだった。昨夜から行方不明になっていた一人の神法学科生が、法塔の前でぐったりと横たわっていたのだ。発見したのはモーブ・ヒドリー教官。毎朝の日課にしている礼拝をおこなうため、炎の神の礼拝堂に向かっていた途中、女生徒が倒れているのを見つけたらしい。
大地の法専攻生である少女は左手に空の瓶を持っており、右手は手紙をにぎりしめていた。自分は近いうちに生き返るから埋葬しないようにと、手紙には書かれていた。
心臓はとまっていたが、両親は少女を家に連れ帰り、葬儀はおこなわないと学院に伝えた。手紙の内容を信じるということだったが、娘の死を受け入れたくないというのが本音だろう。
学院側は瓶に付着していた滴の分析を急ぐとともに、少女についても調べた。そして少女と同じように手紙を残し、死の眠りについた神法学科生が数人いることが判明した。
「おー、シータ。ちょっと来い」
昼休み、会議室のそばを通りかかったシータは、階段脇にいたタウとラムダに手招きされた。
「何?」
「いや、昨日、次の冒険の話し合いをする予定だったができなかっただろう? シータはあさってから野外研修だし、今日もう一度集まろうかと」
ラムダが苦笑いを浮かべながら答える。ローがルーナを含めた自分の動物たちについて長々と語ったおかげで、六人は冒険について意見交換をする時間も気力もなくなってしまったのだ。
否定しないところをみるとタウも同じ気持ちなのだろう。今日の放課後に闘技場に集合するよう手分けして伝言することを決めた三人のもとへ、うまい具合にイオタとミューがやってきた。さらにローとファイまでが現れたので、シータは笑ってしまった。学院はそれほどせまくないはずなのに、まるで示し合わせたかのように集まるのはなぜだろう。
もしかしたら玉の力なのだろうか。そういえば玉が手に入ってから、廊下で仲間に会う機会が増えた気がする。ポケットに手を突っ込んでシータが玉の感触に満足していたとき、会議室の扉が開いた。
先に教養学科の教官たちが出てくる。続けてロードンとケローネー教官がシャモアを中心に、深刻な表情で言葉を交わしながら退室し、ウォルナットとヒドリー教官が互いを押しのけながらシャモアを追っていった。最後に学院長が槍専攻担当教官のカウダ・フォルリーとともに姿を現した。学院長は幾分疲れた容相をしていたが、シータたちのほうを見ると温和な笑みを広げ、去っていった。
「父さんから聞いたんだけど、フォーンの町より先に、リーバの町で似たような事件が起きていたらしいよ」
ローの情報に、シータは隣のラムダが息をのむ気配を感じた。そんなラムダをミューは今にも泣きそうな顔で見ている。さらにファイまでがラムダに目を向けていたため、シータはいぶかしんだ。心なしかファイの顔色も悪い。まるで嫌な汗がじっとりとにじみ出てくるのを我慢しているかのようだ。心配になったシータがファイに尋ねようとしたとき、授業の予鈴が鳴った。結局シータは三人に何も聞けないまま別れた。