第一章 「アルフライラワライラ」
一帯を満たす砂の旋風。
視線を少しでもあげようものなら、目蓋の隅々まで砂の粒子が入り込む。容赦などない嵐に、瞬きなど間に合うはずも無い。
漠然たる砂の支配下、名は砂漠。
上空を優雅に飛び、その翼で嵐を引き裂く鳥から見れば、大いなる大地が灼熱の光という金粉をまぶされているとわかるだろう。また、旅人たちが非常にちっぽけな存在であることも。
ラクダの足跡より小さい人間の足跡が連なるさまは、自然の猛威に対し、彼らが必死に歩みを進めたことを物語っている。
その軌跡たちを辿っていくと、一面に広がる黄櫓染色の向こうに、他の色が入り込み始める。
遥か彼方まで続く砂塵の中に築かれし、太陽の国 『シナ王国』
そこは旅人たちにとってオアシスであり、また砂漠という厳しい環境に打ち勝った、先人たちの努力と英知の結晶でもあった。
緻密に練られた幾何学的な文様を浮かび上がらせる絨毯、実用的かつ芸術的に積み上げられた煉瓦の家々、人々が纏う色とりどりのターバンという絵の具が、街を鮮やかに塗り替えている。
人々の往来によって奏でられる足音、立ち並ぶ店から飛び交う声、蛇使いの笛。子供たちの期待を一身に集める火吹きの芸人と、その道の反対側で笑いながら殴り合いの喧嘩をする、酔っ払いの男たち。
誰も彼もが浮かれて騒ぐ大通りの先に視線を移せば、色にまみれた街とは対照的な、白い大理石の宮殿。その大きさと絢爛さが、生み出してきた豊かさと、先代国王らの偉大さを物語っている。
____しかし、光があれば必ず、影が生まれる。
大通りから少し離れれば、その実態は浮き彫りとなる。
ひとつのパンを分ける六人兄弟。痩せこけた赤ん坊を抱く母親。飢餓に耐えきれず麻薬に手を出した者たちの残骸。
大通りと同じ国とは、到底思えない。
からからと音を立てて転がる枯れた草木。ぼろぼろにすり切れた麻布は、すぐに千切れて落ちる。陽気な音楽は、聞こえる距離なのに聞こえない。
そんな中、鋭い風が吹き抜けた。
タンタンッと心地良い足音が聞こえるようなステップで、しかし微塵も音を出さずに壁を蹴り、巧みに高い建物の上に立つ。と同時に身体を伏せ、そこから息を潜めて標的を物色する、一人の青年の姿があった。その身なりからは、乏しい生活が容易に理解できる。歳は十七、八ほどだろうか。
視線を慌ただしく、かつ慎重に動かす。その残光は狩人のごとく。
やがて、にやりと笑った。勢いよく背後に跳ぶと、慣れた様子で、細い洗濯棒の上でも不安定な布の上でも足場にして降りてゆく。同じタイミングで壁を降り始めたトカゲさえ、追いつけないその速さに目を剥いていた。
軽快に地面に降り立つと、顔をそこらの布きれで器用に覆い隠し、意気揚々と歩いていった。
青年の耳に入る、人混みの音が大きくなってゆく。
ぽん、と一人の男の肩に手を置いた。男は立ち止まると、太い首を回して振り返る。
「……なんだ、ガキ」
心底機嫌が悪いらしい。大の大人でも辟易しそうな威圧感で見下ろしてくるが、青年は全く怯まない。
「とても立派な剣ですね」
その一言で察したのだろう。男は苦い顔をして、さっさと去ろうとする。
「待ってくださいよ。盗もうなんて考えてません。買わせてください」
「戯言もほどほどにしろ。てめえみてえなガキが買える値段じゃねえんだ」
盗みや強奪は貧しい者の常套手段。それを分かっているのだろう。男は舌打ちをし、青年の腕を退けて服をはたく。
しかし、青年は懐から袋を取り出した。はちきれんばかりに金貨が詰まっている。
これにはさすがのしかめっつらも、驚きの表情へと移る。どういうことだと問いかけた。
「この前、兄が金持ちと結婚しまして」
その後、何度か言葉を交わすと、男は先程までとは打って変わって、喜んで金貨を受け取り去っていった。
青年はその浮き足立った後ろ姿を見送る。
布に隠された口角は、背後の店の絨毯同様、線対称に吊り上がっていた。
~~~
「アル、また盗みかい?」
青年……アルの歩みを引き留めたのは、小さいがよく響くハスキーボイス。裏通り沿いの、古びた空き家の中から聞こえる。
「……なんだジジイ、また腰痛くなったのか?直してやらんこともないぜ」
布を解き、焦茶色の髪をさらしたアルは壁に寄っかかり、わざと体重をかける。それだけで、家の中ではかろうじて残っている天井からまばらに砂が落ちてくる。
中にいる声の主はゴホゴホと咳き込むが、まるで気にしていない。挨拶がわりのようだ。
「…いんや、やめとこう。おまえさんなら、そこいらから突き落として恐怖の拍子に直す、なんつうことを言い出しそうだ」
「ははっ、その様子なら、まだまだくたばりそうにねえな。残念ながら」
言いよるのォ、とケタケタ笑うと、そのたびに金色が混じったいびつな歯並びがお目見えだ。
アルと顔見知りらしきこの男の名は、ヤクン。爺さんと言うべき風貌だが、その妖しげで鋭い眼光からはこの歳まで生き延びてきた理由が読み取れる。どこでなにをして生きているのか、知る者は皆無。
「さっきのあれは、なにを使った」
アルは見てたのかよと呟くと、先ほど手に入れた短剣を取り出し、クルクルと手の上で遊ばせた。
「なあに。あいつ、判りづれえが酔っ払ってたからな。パンパンに砂つめて金貨二枚乗せた袋でもいいんだとよ」
ヤクンはそれを聞くと、愉快そうに顎を掻いた。なるほどそういうことか、と呟くと、壁に預けていた栄養失調手前の身体を起こし、細長い枯れ木を手に取る。そして壁に空いた穴から外へ突き刺す。
「はっ?」
アルの手元に寸分の狂いもなく届いた枝の先は、剣の持ち手に引っかかる。クイッと枝が斜めに傾くと、剣は宙を舞い、綺麗な曲線を描きながら二人を隔てる壁を飛び越え、欠けた天井から家の内側へ。
反応する間もなく、年季の入った俊速枝さばきの餌食となったアル。ちなみにその枝はバシッとアルの手を叩いてから引っ込んだ。
「油断大敵。手に入れたモンを、んな簡単に見せびらかす阿呆がどこにおる。あ、ここにおったわ」
ニタニタと笑い、清々しく若造をおちょくっている。全く盗る気配を感じさせず虚をついたのは、さすがとしか言えない。
一杯食わされた。だが、そこで終わらないのがアルという青年だ。
「ッヤロォ!!」
一寸の迷いもなく、壁を叩き壊す。
……素手である。オンボロの空き家とはいえ、レンガ。馬鹿力に変わりはない。
サンオレンジの瞳は怒りに染まっていた。
土煙や砂埃が漂う中、真っ直ぐに突っ込む。掴んだのはヤクンのマントと、短剣。
「おお、相変わらずの短気坊主よ」
ヤクンは隣の家の屋上にいつのまにか移動しており、ガラガラと崩れ落ちた壁を鑑賞していた。
「チッ、二度とふざけたマネすんなよ。次はぶっ飛ばすからな!」
ヤクンは飄々とアルの剣幕を笑い飛ばし、ゆらりと消えた。
アルはその姿を睨みつけながら、早くカネに替えとかねえと、と思い短剣を懐にしまう。しかしふと、ある事に気づく。
「…あんの、クソジジイ……ッ!」
______短剣についていた宝石たちは、見事に消え去っていた。
~~~
「なんだこの有様は!」
宮殿内に響き渡り、枝に止まる鳥を羽ばたかせたのは、第四十七代 現国王の声。威厳よりむしろ狂乱を滲ませるその声は、尊敬の代わりにただの恐怖を植え付ける物と化している。
「…申し訳ございません、陛下。しかしながら」
「黙れっ!」
お叱りという名の八つ当たりを受けている私…大臣のジャアファルは、降りしきる罵声の中、頭を下げ続ける。
『シナ王国の王は偉大である』
砂漠という厳しい自然環境の中、国家を築き守り抜いてきた国王たちを賞賛する言葉。だが、それはもはや、過去の話となっていた。
国を治める才に直結するのは、血筋は勿論、人々を魅きつけるカリスマ性、いざという時の判断力、度胸、弛まぬ努力。
ハッキリ言おう。現国王は、血筋以外どれも欠けている。
そこへ、自然の猛威は容赦なく殴りかかってきた。例年よりもひどい砂嵐、日照り。弱り目に祟り目とは、まさにこの事であった。
そして極め付けに、賢明であった王妃が亡くなられた。何者かによる、毒殺だ。
王の心はすっかり荒み、臣下を信じられず、常に怯え、疑い、何人も…何人も、殺した。お陰様で私は、二十二歳という異例の若さで大臣となったが、有能な人材が次々と消えた結果、国はますます衰退する始末。避けようのない悪循環が、この国を締め付ける。王は今や、実質政治を担う私でさえ、疑い始めている。
結果として、シナはかつての栄が嘘のように、今や他国とのつながりに依存する小国へと成り下がった。
「なぜおまえは冷酷になりきれんのだ!国を治める者には、時に残酷と思われるような決断も必要だと言っているだろうが!」
時に、ね。其方は理不尽で感情任せで残酷すぎる行いを、少しは振り返れば良いものを。
財政も法律も裁判も軍事も、何一つわかっていないくせに。筋違いもいいところ。
「……はい、仰るとおりです。偉大なる王に選ばれた私とした事が、なんとお詫びすれば良いか…」
本音を見事に隠し通して、心から懺悔する様子を演じられるようになった。自然と身についてしまった技術だ。
お叱りの原因は、もちろん財政が上手くいっていないからなのだが、それだけではない。私が、宮殿にあった壺を割ってしまった子供を、見逃したからだ。
情が捨てられない。それが良いことなのかどうか、たまにわからなくなっている自分に反吐が出る。
それはそれは長くおありがたい説教の後、急ぎ足で廊下を歩く。ここ数ヶ月、ろくに眠れていない。理由は……察してくれ。
屍のように歩きながらも、足元や壁の無駄に豪華な大理石を売れば、少しは民が飢えずに済むのではないか、と考える。王や貴族に進言すればまあ、伝統やら何やらとご大層な理由を挙げてくださるのだろうが。
「……豚め」
曲がり角を曲がって、誰もいないことを確かめた途端、口をついて出てきた言葉。
私が経済政策やり繰りして一年頑張った成果を、奴らは一日で貪り尽くす。
『国が腐敗していくのは、政治を行う大臣のせいだ』
『きっと自分のことしか考えてないんだわ』
苦しんでいる国民の間で、こんなクズ大臣の像が出来上がるのも無理はない。………ムリはない。
「……………あ˝あ…」
一瞬だけ、柱にもたれかかる。人間らしくない変な声が出た。意味もなく頭を打ち付けてみるが、常に頭痛がするのであまり変わらなかった。柱さえ、仕事をしろ、と私を押し返す。
反作用を受け、ふと天井を見る。色とりどりのガラスが円状に埋め込まれた、王家ご自慢の作品。そのまばらなガラスたちの周りには、偉く昔の話を、偉く昔の文字で彫ってある。
『_______宝石の街。
ルビーの門、エメラルドの門、瑪瑙の門、珊瑚の門、碧玉の門、銀の門、金の門…この七つの門を通り、中央の宮殿へ抜ければ、中庭にはエメラルドの亭があります。
その中心の小箱の中には赤硫黄。あらゆるものを、カネに変える力を持っています。
ただし、お気をつけて。宝石を盗むと殺されます。青銅の騎士は、いつもあなたを見張ってるのだから______』
訳がわからない。なんの知識継承にもなっていない。そう思うのは私だけではなく、未だ、全て解読できた者はいないらしい。
「…………やるかァ……」
硝子から入る光に嘲笑われながら、今日もちっぽけな一生懸命を注ぐ。
目的も意志も有耶無耶になった片隅で、それでも爪先は執務室へ向いた。
〜〜~
「あーくそッ…今ごろ三日ぶりのメシにありつけるはずだったってのに……」
アルは苛立ちの塊と化していた。歩いても景色の八割は廃茶色のまま。色も何も変わらない場所で砂を踏んで行く。
人気のない場所を見つけるのは得意だ。定住することはなく、というより、その日その日で逃げ回ってたどり着いた所が寝床となった。
「………チッッ!」
空腹と…生活への恨みを乗せて舌を打つ。口の中がピリピリと痛くなるほどに。
それでも収まらない怒りを、今度は短剣に乗せた。ブゥンと風を切る音が、自分の右手から聞こえ、遠ざかっていく。この感触だと、きっと短剣は右側のレンガ壁に突き刺さって…
「…ッ」
刹那、沸騰していた頭は零度へと降下した。
マズい。マズいマズいマズいマズ
アルの瞳に映ったのは。
曲がり角から不意に姿を現した人影。その身長。タイミング。自分が投げた短剣の軌道。
『当たる』
脳裏を駆け抜けた言葉。
一瞬で想像できた、してしまった光景。
なんでこの時間、ここに人が来てる。気配が全くなかった。俺が気づかないなんて。
なにか投げて軌道をそら____してるヒマはない。
俺が声を上げて____間に合わない。
無数の対策が浮かんでは消える。
ソイツはこちらを向こうとした。
そうじゃないかがめ顔に刺さっちまう…ッなにかないかなにかなにかどうにか
剣を投げてからまだ1秒未満だが、アルの思考回路は電気信号の渋滞。
止まれ、止まれ止まれ止まれ。
時間よ、止まれ!!
しかし剣は、願いも虚しく無慈悲にその人影へ一直線に向かっていき、
________静止。
「………ェ」
凄まじい速さで動いていた短剣は、振り向いたソイツの顔の前で、ピタリと止まる。
アルは初めて、自分の目を疑った。
手を伸ばし、無様に口を半開きにした奇妙な格好で、アルもまた停止する。と、膝から崩れ落ちて顔が地面に突っ込んだ。
ラクダの鳴き声より滑稽な音を吐き出すも、すぐに顔を上げた。今、コイツから目を離してはいけないと、本能が叫んでいた。
ソイツは完全に止まった短剣の刃先をつまんだ。棚からコショウでも取るように、当たり前だとでも言わんばかりに。手から血が一滴も出ていない。やはり、止まっている。
ソイツはきょろきょろと周りを見渡すと、滑稽な四つん這い姿の青年を見つける。
二人の目線が、パチリと合った。
実際は、合ったような気がしただけだ。ソイツは顔を布で隠していた。ただ、盗みをする時のアルとは違い、ちゃんとした服の一部として、だ。
背中には、自身の身長より大きななにかを布でグルグル巻きにして背負っている。余程大事なもののようだ。楽器だろうか。
ソイツはアルに歩み寄り、無言で短剣を差し出す。その仕草はどこか人間らしくて、逆に不気味さを増加させていた。
アルはずっとソイツを凝視していたが、自分が四つん這いであること、コケたついでに口に砂が入っていたこと、息と瞬きをしていなかったこと等を思い出し、勢いよくむせてから後ずさった。声にならない悲鳴と共に。
「…………」
ソイツはアルに対し、1ミリも興味を示さなかった。無言で短剣を地面に刺すと、すぐに立ち去ろうとする。
アルはソイツの背中をボヤッと見つめる。
混乱と混乱と混乱。
なぜ、短剣の動きが止まった。何かの武芸に精通しているのか。いや、ありえない。なんというか、それにしては不自然すぎた。身長はアルより頭一つ分小さいし、体格が特別優れているわけでもない。さまざまなことを考えたが………結局、見間違いということにした。
次に不思議なのは、刃物を投げつけられたのになんの文句もないこと。普通、怒るはずだ。金を請求してもおかしくない、なのに。
『…死ななくて、良かった』
異様な光景を目の当たりにしたせいか、そこに思い着くまで数秒かかった。相手が何者であろうと、自分のせいで死にそうになったのは、変わり無い、はず。それに、きっと年下だ。
「……だ、大丈夫だったか」
明らかに声が届く距離まで駆け寄って問いかける。だが、ソイツはスタスタと歩みを止めない。
アルはその後、懺悔の言葉を口にしたが、見事なまでにガン無視された。これには、流石に不愉快になる。痺れを切らして、ソイツを振り返らせようと、肩に手を置いた。
「………ッッッ!?」
_______てのひらが。
燃えるような、氷漬けにされたような、皮を剥がされたような、金属に触れたような。
いや、どれとも違う、猛烈な違和感。
人間に触れた感覚が、無い。
アルは慌てて手を引っ込めた。
その拍子に、ソイツの顔を覆っていた布が、ぱさりと落ちる。
二人の間に、生温い風が吹き抜けた。
砂金色よりも少し薄い、いわゆるプラチナブロンドの髪が、日光を反射して煌めく。この国の衣装とは不釣り合いで、しかも割と雑に切られている……にも関わらず、何故だか絵になっている。
左眼は髪がかかっていて見えないが、もう片方の瞳はエメラルドを彷彿とさせる色彩。この国の人では、無い。商人のような格好をしているが、雰囲気からしてどこかの王族と言われてもなんら不思議では無い。
それにしても、やけに整った顔だ。アルは先ほどの手のひらの違和感を忘れ、目を見張って思わず嘆息した。しかし。
「…………何、お前」
ソイツから発された言葉は、不機嫌さが天元突破しているように鋭かった。
その神秘的な瞳は秒数を重ねるごとに苛立ちで歪み、アルを射抜くように睨みつける。
ギョッとしたアルは、へ、あ、えと、などと、三文字以上の言葉を紡げずにいた。ソイツはその様子を見て、盛大なため息をつく。
「…俺は『シナ王国』ってトコの宮殿に用がある。お前に付き合ってるヒマねェんだよ失せろ」
しかし、その言葉を聞いたアルは、ポカンとした。そして、失礼極まりないが、コイツバカかと思った。
「…え、何言ってんの。シナ王国って、ここだけど」
「…………」
ソイツはジワリジワリと目を開くと、マジか、と聞き返す。アルはマジだ、と頷く。
「………ヘェ、アイツ機嫌良かったのか…?いつもは違うトコにトばすクセに…」
先程までの緊迫した空気は、風にさらわれどこかへ去ったようだ。ソイツは顎に手を当て、ブツブツとなにかを言いながら考えている。
一方、アルの頭の中では緊急会議が始まっていた。
目の前にいるコイツは、極度の方向音痴か、馬鹿か、はたまた記憶喪失か。
訳の分からない現象が立て続けに起きていて、アルの頭ははち切れ寸前である。
「……えっと、お前、誰なの」
とりあえず率直に聞いてみるが、ソイツはまたギロリとアルを睨み、顔を布で隠して踵を返した。
「お、おい待てって。あ、そうだ。宮殿に用があるなら、俺が案内できるぜ。ここら辺には詳しいし、宮殿のやつらとも仲良いから」
アルは、咄嗟にデマカセを口にした。実際、宮殿の者たちとは話したこともない。
「………要らねえよ」
「お前すごい怪しいぞ、絶対捕まるぞ。この国初めてか?しかも方向音痴なんだろ?」
「ついてくんな」
ソイツは全く歩くスピードを緩めないが、それでもアルは食らいつく。
もし、どこかの王族か貴族なら、仲良くなって金をもらう。
もし、武芸の達人なら、体術を教わって盗みに活かす。
もし、商人なら、取引に介入して仕事をもらう。
いつもならそんなことを考えるだろうが、なぜかこの時ばかりは、好奇心だけで動いていた。とにかく、この謎だらけの存在について知りたかった。
路地を抜け、屋上を跳び、凄まじい速さで移動するも、ソイツはアルを巻くことができなかった。ちなみにこの間もずっと話しかけられている。
「………ああもう好きにしろ。俺は忙しいんだ。邪魔だけはすんなよ」
「おうよ!つか名前くらい教えてくれてもよくね?」
「ウルセェ」
約一時間の粘りの末、ついにソイツは折れた。
〜〜~
夕方となり、徐々に辺りは色を鎮めてゆく。夜の帳が降りるまで、空は色のハーモニーに染まる。
その下で、はたはたと風になびく絨毯や服も、家の中へ吸い込まれてゆく。
穏やかな街の中で、しかし全く穏やかではない青年が一人。
肩で息をし、必死の形相。今や好奇心だけではなく、絶対についていく、という一種の負けず嫌い根性のもと足を動かすアル。体力には自信があったが、いかんせん空腹が限界であった。よろよろとレンガにぶつかりながらもついていく様は、尊敬に値する。
そんなアルを見かねたのか、ソイツはピタリと歩みを止め、視線を向けないまま話しかけた。
「……腹減ってるのか」
答えの代わりに、アルの腹が鳴った。楽団にいたら即クビになるような歪な奏を響かせる。ソイツは呆れて溜息をつく。
一方、アルは密かに歓喜していた。ソイツから話しかけてくれたのは初めてだった。もしかして。
「……金、ねえんだけどさ」
「じゃ砂でも食ってろ」
「………」
コイツ鬼畜だ。少しでも期待した自分が間違いだった。また忙しなく歩みを進める。
宮殿に行って何をするのだろう。
外国からの使者とか?
こんなに重そうな荷物背負ってるくせに、なんで息切れひとつしないんだ。
実は中身ないんじゃね?
何も答えてくれないソイツの代わりに、アルは自分と会話していたが、途中で違和感を覚えた。この方向は。
「へいらっしゃ〜い」
肉の焼ける匂い。酒臭いオヤジたち。女店主の元気な声。確信する。
「……お前方向音痴じゃなかったの!?」
「そこかよ」
いやそもそも、ずっとアルの前を走っていたのだから、方向音痴なはずはないのだが。酸素栄養諸々足りていないアルの頭は働くはずもない。
間違いなく、この辺りで一番美味い店。ということは、この国に来たこともあるのか。謎は深まるばかりだ。
「でも俺金…」
「適当に二人前頼む」
「あいよっ!」
アル、固まる。二人前……ニニンマエ……
「い、え、おま……」
「黙ってはやく食え。俺は忙しいんだ」
相変わらずな態度だが、思わず目頭が熱くなった。いそいそとソイツの隣に座り、久しぶりの飯を食べ始める。うめえ、うめえ、と動物の鳴き声のように言い、無意識にニヤニヤとしながら勢いよくかきこむアル。
ソイツはその様子を、静かに横目で見ていた。
「…最近、ここらで何か変わった事件とか無いか」
ソイツは女店主に問いかけた。いつのまにか、皿はすべて空だ。
「ん、旅人さんかい?そうだねぇ、妙な病気が流行ってるよ。なんの前触れもなく、口から血ぃ出して死んじまうんだ。それに、連続殺人鬼がうろちょろしてるらしいし…」
食べるため布を外していたソイツに、女店主は上機嫌で情報提供。いつもなら、なかなか教えてくれないくせに…世の中顔ってのもあながち間違いじゃないな、とアルは半笑い。
しかし、内容を聞いて、ゆるりと食べるスピードが遅くなる。また、人が死ぬのか。
「…それって」
「ああん!?借金返すの今日までっつったよなぁ!」
「てめえこそふざけたこと抜かしてんじゃねえぞ!金借りたのはソッチだろォ!」
アルが口を開きかけたその時、店の隅で酒を飲んでいた男二人組が声を荒げた。女店主がなだめに行くが、効果は期待できなそうだ。取っ組み合いのケンカに発展していく。
「あの家に女の子が産まれたんですって」
「はぁ?なに言ってるのよ。あそこには婆さんしかいないじゃない」
「アンタ昨日会う約束してたのに、どうして来なかったのよ!」
「ええっ?それって明後日の話じゃ…」
「なあ、ペンダント屋の隣の巨大ジャスミン見た!?」
「あそこには昨日まで何もなかったろ」
店のあちこちで、次々に口論が生まれ始める。勘違いにしては多すぎないか。
隣を向いて意見を仰ごうとしたが、途中で首の動きと言葉が途切れた。
ソイツが、いつにも増して険しい顔をしていたからだ。
「………行くぞ」
「お、おうよ」
ガタンと立ち上がり、布を被って走り出した。食後なのに容赦ない。アルは吐きそうになりながらもついていく。
外は、すっかり闇に包まれていた。
さっきの表情は、一体なんだ。
怒っているような、悔しんでいるような…違うか。いずれにしても、きっかけがわからない。酒や人混み…が嫌なら、そもそもあの店を選ばないだろう。…誤解が、嫌いなのだろうか。人なら、誰しも間違えたりするものだと思うが。
そんなことを考えていると、ソイツはいきなり立ち止まる。アルはソイツの背中に鼻を強打。
「ヒェボグッ」
「ウルセェぞ奇声猿」
「お前が急に止まるせいだろ…イッテェ……つか俺はアルだ!」
「………」
また無視。なんとも不本意な名前で呼ばれてしまったものだ。アルは、お前絶対友達いないだろ、と文句を垂れた。それも無視。
立ち止まった場所は、大きな邸の前。この辺りでは有名な、裕福な商人の家だ。
ソイツは塀の上にひょいと跳び、普通に不法侵入していく。宮殿に急ぐって言って、あれだけ人のこと無視したくせに…と不満を抱くが、アルも手慣れた様子で不法侵入。
広い庭を抜け、立派な建物の中へ。
暗いのでよく見えないが、色とりどりの芸術作品が立ち並んでいるらしい。
……『暗いのでよく見えないが』?
おかしい。灯りが一つもついていない。人もいない。
少し行くとひらけた場所に出たが、そこにも人の気配は全くない。
歩き回っていると、裸足のアルは、床になにかが流れていることに気付いた。温い液体の感覚が、足の表面から伝わってくる。花瓶が倒れて水でも流れたのかと思い、しゃがんで匂いを嗅いでみる。
「なッ」
アルは鼻を押さえた。
血だ。しかも少量ではない。
驚いて視線を上げると、壁一面に描かれていたのは、百年後に絶大な評価を受けそうな絵画。
ただし、その大半は。
「なん………」
真っ赤な花に占拠されていた。
腰を抜かしているアルを他所目に、ソイツは淡々と大広間を歩き回る。そして、邸の主人とその家族であろう四人が、血を流して倒れているのを見つけた。
「おいっ大丈夫か!」
「もう死んでる」
アルはすぐさま駆け寄るが、冷たい現実を告げられる。ソイツはさらりと遺体を観察し、周りを見渡した。
二人の温度差が広がってゆく。
「警備してた奴らや召使い達も、この感覚だとどこかで大方同じようになっているんだろうな。時間差はあるだろうが」
「そ、そんな……!」
大人数が、同じ邸内で、ほぼ同時に死亡。女店主が言っていた、妙な病か。あるいは…相当手練れの殺人鬼か。もしそうなら、絶対に許さない。
ふつふつと殺人鬼捕獲の決意に煮えたぎるアルに対し、ソイツはやけに冷静だった。顎に手を当て黙考すること五秒で、スッと視線を鋭くした。
「…アイツ………」
「は?」
アルが、何か言ったか、と問いかけようとした、その時。
「………あ」
黒い影が窓の近くに揺らめいたのを、アルの動体視力は捉えた。
_____犯人だ。
アルは直ぐ近くにあった大理石のテーブルを投げつける。片手。
うわ馬鹿力、と率直な感想を残すも全く動揺しないソイツに反し、影はわかりやすく狼狽し、窓から落ちてしまった。
大理石は壁にぶつかり耳障りの悪い音を鳴らす。
アルは窓から飛び出し、軽やかな身のこなしで地面へ着地する。あの落ち方からして、受け身を取れず地面に叩きつけられているに違いない。
しかし辺りを隈なく探しても、結局、ネズミ一匹見つけられなかった。
悔しがるアルは今になって、やっと自分の立場を再考してみる。
盗み常習犯。不法侵入中。邸中には無数の遺体。あれだけ大きな音が鳴れば、警察が駆けつけるのも…
冷たい汗が背中を伝った。
案の定、耳に大人達の声が届く。視界で瞬く灯りの数と取り囲まれ方からして、絶望するしかない。
「貴様が連続殺人の犯人か!」
「ち、ちが」
「捕えろ!!」
「ええええええ」
アルは後ろを向き、一緒にいたはずのソイツを…
「っていねえし!!」
全身全霊でツッコんだが、生憎笑いは取れない。文字通り笑えない状況である。
「俺じゃない!見たんだって犯人!」
問答無用で邸から連行される。いくら叫んでも、聞く耳をもつものはいない。馬鹿力を発動させようとしたが、薬品を嗅がされ眠ってしまった。
「……勝手について来て勝手に捕まってんじゃ、ブザマ極めてんな…」
アルが轟音を響かせた時点で、既に華麗に逃げていたソイツは、縄で括られた哀れな青年を遠くから見ていた。付近で一番高い屋上の縁に片足を立てて座っている。顔の布を取り、髪をなびかせて深い溜息をつく。
夜の隙間を縫って、氷の風が吹き抜けた。
「……お前も来てたんだな、ランプ」
虚空に向かって言葉を紡ぐと、背後の暗黒から溶け出た、影。
肩の上で切りそろえられた漆黒の髪。光をすべて遮断した漆黒の瞳。ただし、左眼には黄金の三日月が浮かんでいる。スラリとした体型で女性か男性か分からないが、アルよりも少し年上そうだ。
姿だけならば、怪しむ奴はいないだろう。しかしその周りには、四つのランプが灯りを消したまま浮遊していた。暗がりで捉えられないだけで、その後ろにも無数のランプが浮遊しているようだ。
「お久しぶりです、トケイ様」
影……ランプは恭しくお辞儀をする。
ソイツ……トケイは、畏まらなくていいって言ってるだろ、と軽口を叩く。随分と気がおけない仲らしい。
「窓から落ちてたけど、平気か?」
「なんとか。それにしても、あの青年は頭大丈夫ですか」
全くいきなりあんなもの投げつけてくるなんて、と不満顔のランプ。確かに、と同意するトケイ。
「……アクソナスの異変が広まっている。お前の仕事にも多大な影響を与えているのは間違いない……急がないとな」
トケイは二つのエメラルドを深め、夜空を仰いだ。刺々しく緊迫した気を放ち、背中の荷物に右手をかける。
ランプはその様子を真剣に、しかし心配そうにみつめていた。口を開きかけるが、首を振り、トケイと同じように夜空を眺める。
すると、他とは形が異なるランプが灯りをつけ、ランプの周りを規則的に回る。
「…おや、次は宮殿で仕事があるようです。わたしはこれにて」
立ち去ろうとするランプを、トケイは振り返って引き止める。
「あ、なら…ついででいいんだけど」
「なんでしょう」
トケイが言葉を言い終わる前に、グルンと勢いよく振り返ったランプ。余程別れるのが名残惜しかったのか、その顔は嬉々としていた。しかし、あなた様からの頼み事なんて珍しいですね、と首を傾げる。
「俺はちょっと、寄るところ出来たからさ。代わりに…」
トケイはちら、と警察たちの方に視線をやり、もう一度呆れてため息をついた。
〜〜~
あの日の朝はうるさかった。
人混みを切り抜けて、バケツ片手に数少ない水場へ急いだ。早く帰りたいなあと、ボンヤリ思っていた。
バケツがぐっと重くなる。それを小さな体躯で持ち上げた。手に数滴ついた微温さは、いつでも貴重に感じる。
その、水という宝石がこぼれないギリギリの速さで、慣れた足裏の感覚を確認しながら近道に飛び降りる。
砂、レンガ、砂、金属、絨毯、砂、砂。
乾いた空気を吸い込んで、走って走って疾って、いつもどおり我が家へ着いた。
「ただい…」
そう、いつもどおり。自分の帰りを家族に知らせようとした、途中で。
_____あかいものがみえた。
そこからは記憶が曖昧だ。
蒔かれたおびただしい量の血。
床と全身をくっつけた母と、その前に立つ
手に短剣を持ち、こちらを振り向いたアイツの姿は。
十年以上経った今でも、瞼の裏に焼き付いたままだ。
~~~
ちゃり、と金属のこすれる音がした。手首に巻きつく違和感に起こされ瞼を開ければ、うっすらと掠れる唐茶と紅欝金。
久しぶりに夢をみた。みたくもない夢だ。
しばらく放心状態だったが、何故だか腕の疲労感が半端でない。首を上に向けると、両手が枷にはめられて縛られ、天井から太い鎖で繋がれていた。
「……宙吊り…ってひでえなあ…」
まだ寝ぼけているアルは、意味もなくぶらぶら身体を揺らした。しかしあくびを三回すると、じわじわと何が起きたのか思い出した。
「……あの野郎……俺を見捨ててトンズラかましやがったな……!」
怒りが眠気を追い出す。
絶対に一発殴ってやろうと決意を固めると、兎にも角にも逃げ出さなければと思い立つ。上を向いて手錠と鎖を確認。
「よいっせ」
両手は固定されているが腕力で懸垂をし、下半身を持ち上げ、両足を天井につける。床と天井が逆転したかのような体勢で、重力の力も借り、鎖を引っ張って天井から抜こうと試みる。しかし、踏ん張るのみでなかなか抜けない。
どうしようか。
コウモリの体勢のまま、なんとなく開脚してプラプラと考えていた、その時。
「これまたすごい体勢ですね」
聴き慣れない声が耳に入った。
誰だ。その方向に視線を向けた次の瞬間、銀色の鋭い何かが自分の頭めがけて飛んでくる。
「……ッ」
ギリギリで避けると、その銀色は手首スレスレを横切り、鎖を断つ。
「うおっ」
拍子に、アルの身体は重力に従い床に吸い付いていく。逆さまだったため、このままでは頭を強打してしまう。咄嗟に両手を地面につけ腕立て状態になったが、一晩括られていた腕は予想以上に使い物にならず、バランスを崩し背中を強打。
「ってぇ〜〜!」
仰向けのまま悶絶する。普通なら骨折か捻挫は確定だが、アルは五秒後怪我もなく回復。……頑丈である。
ヒョイと飛び跳ねて立ち上がり、腕をグルグル回して顔を上げた。
「おや、思ったより鈍臭いようで」
「ハァ!?んだとこの」
眼前数センチに、黒い瞳が二つ。
振り返ったアルは勢いよくのけぞる。
黒いマント。黒い髪。それとは対極的な白い肌。作り物のように弧を描く唇。息をするのを忘れるほど、不吉で美しく冷たい容姿。まるで人間味がない。
そんな不審者の手にはいつのまにか、天井に刺さっていたはずの剣が握られている。警察に没収されていた、アルの短剣だ。
誰だ。どうやって入った。
さまざまな疑問が浮かんだが、まずは。
「あ、あああぶねぇだろ!!」
文句が飛び出た。
「昨日のお返しです」
しかし、予想外の言葉が返ってくる。
昨日、会った、人物……
「あああああっ!て、てめ殺人鬼!!」
「失敬な。わたしは人を殺したことなどありませんよ」
予想通りうるさいですね、と笑顔を向けられ、言葉が喉に引っかかって出ない。
「ここは宮殿の地下牢獄です。あなたを助けに来たんです」
「なっ、なんでだよ!」
「頼まれまして」
誰に、とアルが問いかける前に、不審者は短剣を差し出した。それで手錠を絶って外せ、という意味だったのだが。
「あ、コレ外してなかったか」
チャリィ、カシャン、と音を立て、千切れた鎖が地面に落ちる。そう、腕力のみで外したのである。
不審者は目をパチクリとさせた。吊るされていないから、その分、左右に力が入りやすいとはいえ、これは。
「………ほう、馬鹿力くんと呼びましょう」
「やめろ俺はアルだ」
「冗談ですよ」
クスクスと笑いながら、丁寧な手つきで短剣を返してくれる。殺人鬼にしては優しいな、と訝しむアルは、警戒しながらも口を開く。
「…お前、名は?」
不審者は笑うのをピタリと止め、笑みを消し、鋭い視線でアルを捉えた。思わず身構える。
しかし、予想より柔らかい声色で告げた。
「………ランプ」
「…は?」
道具の名前じゃないか、と言いたげなアルに、不審者…否、ランプは、不敵な笑みを魅せつけた。
「ランプですよ、アルくん」
それ以上の質問は許さない。
そう、言っているように見えた。
〜〜~
王宮、執務室の天窓から朝日が差し込む。太陽の高潔さを象徴する、純度の高い光。
一人の青年に、起きよ、と命じる。
「………ッ」
顔を歪め、緩め、歪めて目蓋を開けた。しかし一筋の光が彼の瞳を焼こうとしたので、反射的にまた閉じる。閉じたまま、休みを要求する上半身を無理やり起こして肩を回す。ここ半月自室に戻っていない彼にとって、執務室の机に突っ伏して寝ていたことは、今更言及するまでもない。
ジャアファルは首を上に向ける。が、まだ意識がはっきりしない。壁に埋め込まれた棚、巻物の山、誰のものかもわからない置物、と視線を移してゆく。
「………は」
途中で、瞳の動きを止めた。
誰だ。
棚前の脚立に座る後ろ姿。髪色からして、明らかに外国の者。外国からの使節の予定、無し。服装は商人、ならば執務室に用はない筈。
違う。問題は、この国の中枢である情報を、無許可で閲覧していることだ。
椅子を引いて立ち上がり、すぐさま駆け寄る。侵入者を見上げて問いかけた。
「何者だ。ここへどうやって入った」
随分と熱心に本をめくっている。こちらに全く注意を払わない。
「ここにあるものはすべて国家機密だ。それ以上勝手な行動をするならば、刑に処さなければなら………おい、聞いているのか」
「ウルセェ」
侵入者は予想外な言葉を突き刺した。表情筋が瞬間冷凍されるジャアファル。
ただでさえ疲労で苛苛していたところに不法侵入者、しかも穏便に済ませようとしてやったというのにこの態度。
脳神経が切れる音が聴こえた。
「あのなァ……コッチは死に物狂いで働いてんだ!部外者は出てけ!」
ピク、と彼の肩が動いた。そして、ゆっくりとジャアファルの方を向く。
異様なエメラルドに見つめられ、思わず息を呑んだ。
「…………そうか、お疲れ」
しかし、彼は片手でパタンと本を閉じただけだった。
「じゃ、さっさと終わらせる」
「…は?」
なにを。その疑問を無視し、彼は脚立から飛び降りる。そのまま執務室を出て、広間の中心へと歩む。
____解法は組み上がった。
彼は棚の横に置いてあった、大きな布の地図を床に広げ始める。シナ王国全図。
何をしている。やめろ。
ジャアファルが口を開きかけた時、遮るように語り出す。
「この国では、線対称で規則正しい模様が美とされる。にも関わらず、この天井の模様がまばらなのはなんでだ」
一体、なんの質問をするかと思えば。
「……それは……」
しかし、確かにそうだ。明らかに不自然でバラバラ。こんなもの、王家の趣向の真反対もいいところだ。
彼は絨毯のように敷かれた布地図の上を歩き、ある地点で立ち止まって指差す。
「ここにあるのは、矢で射抜かれた獅子の像。その獅子の瞳の色、わかるか」
地図の上を歩くな。何の話をしている。そんなことより早く出て行け。
言うべき言葉が、何故か出ない。不思議な力に導かれるように、気づけば彼の質問に答えていた。
「……確か、紅宝石」
彼はまた歩いて、立ち止まる。
「この国の唯一の水源。伝説には、『緑の原石がオアシスに一欠片沈んでいる』とあった」
「……ああ、それを見つけた者が救世主である、と伝えられている。未だ見つけたものはいないらしいが」
「で、ここは裁判所だろ。罪人への罰の種類で、色の名が入るものがひとつだけある」
「……死刑の三つ下に、灰印というものがあったな。罪人の腕に焼き印を入れる…」
「この辺りは踊り子の稽古場。毎年必ず行われる劇の演目は、『青夜の道化師』」
「……『道化師は恐ろしい。ただし、珊瑚の腕輪をしていれば襲われない』」
「絨毯の柄の伝承に出てくる神に共通点があった」
「必ず、碧の瞳を持っている」
「数年前まで、ガラス職人の工房に銀の台座があったと」
「…今は砂に埋れているが、当時から禁忌があった。その台座の上には、何人たりとも乗ってはいけない」
「この時期に毎年行われる祭りは…」
「金漏祭。ランタンを灯して国家の団結を願うものだ。近年はただの酒飲みが集まる催しになっているが…」
次の質問を待っていたジャアファルは、ふと我に帰った。しまった。
十五、六の少年…しかも侵入者相手になにをしているんだ、と己を戒めると、固く口を結ぶ。
しかし、質問はもう来ない。地図の上を一周し終えた彼は、思った通りだと言わんばかりの表情で天井を見上げた。ジャアファルも釣られて上を見る。
『_______宝石の街。
ルビーの門、エメラルドの門、瑪瑙の門、珊瑚の門、碧玉の門、銀の門、金の門…この七つの門を通り、中央の宮殿へ抜ければ、中庭にはエメラルドの亭があります。
その中心の小箱の中には赤硫黄。あらゆるものを、カネに変える力を持っています。
ただし、お気をつけて。宝石を盗むと殺されます。青銅の騎士は、いつもあなたを見張ってるのだから______』
「…………え」
そして気づく。
ルビー、エメラルド、瑪瑙、珊瑚、碧玉、銀、金。
紅宝石、緑の原石、灰印、珊瑚の腕輪、碧瞳の女神、銀の台座、金漏祭。
慌てて地図に目を落とす。
彼が歩いて指差した地点。繋ぐと、奇妙なほど綺麗な、七角形。
「これって……」
「天井の宝石の配置」
「え」
天井にまばらに埋め込まれた、七つの宝石。それを外から日光が透かして、地図の上に七色を浮かび上がらせる。
「少しずつ、ズレている……」
「多分、それを調整しろってことだな」
彼は執務室から脚立を持ってくると、荷物を背負ったまま上って頂点に立ち、ドーム型の天井の端に飛び移る。そして器用な身のこなしと手捌きで、ステンドグラスを傷つけることなく外し、組み替えた。
地図上の地点と、七色の光が重なる______
「こんなところにいやがった!!」
張りつめた空気を破ったのは、怒りの篭った大声。
天井から降りてきた彼…トケイは、そちらを一瞥してため息をつく。
「お前か」
「お前か、じゃねえよ!せめてコッチ見ろ!」
「ウッセェなご自慢のバカデカ声披露してえなら他でやれ」
後からついてきたランプは、今にも掴みかかりそうなアルの襟首を笑顔で引っ掴む。トケイと視線が合うと、少々の疲れと呆れを宿して微笑んだ。
「この子、やはり元気ですね」
「だろ」
「離せよランプ!こんのっ」
賑やかな三人に対し、ジャアファルは石像のように固まっている。
彼の視線は、その中の一人に釘付けであった。
「…………ア、ル……?」
消え入りそうな声。瞳は目一杯に開かれ、収縮と膨張が激しい心の臓を押さえつけるのに精一杯。
信じられない、と息遣いが語った。
「あ?」
ランプの手を引き剥がしたアルは、声の方に視線を向ける。
その顔は、純粋な驚きに染まった。口は半開きのままだ。
双方向に、同じ風が吹き抜けた。
対照的な二人の青年が、向き合って立つ。
擦り古した一色と豪華な絹。
雄叫びをあげ奮い立つ猛獣と疲弊した孤独な鷹。
太陽と、太陽。
「……アル、だよな…?ずっと」
ジャアファルは、震える口を動かす。
しかし、アルは視線さえ寄越さなかった。纏う空気がじっとりと重くなる。握りしめた拳には、血管が浮き出ている。
「……母親殺しのお前と話すことなんか、一つもない」
混沌から湧き出るような憎しみの低音は、ジャアファルの言葉を途中で切り落とす。
「…………え?」
その時だった。
体の芯に響く轟音と共に、広間全体が揺れる。飾ってあった壺は次々と地に落ち、絢爛な壁画はひび割れる。歪曲したガラスは破片となって散っていく。
ただ、その中で、天井の宝石たちだけが笑っていた。
広間を真二つに分けるように、地面から緑の尖った石が突き出る。
中心にいた四人は、串刺しの一歩手前であった。
トケイは側にいたアルを抱えて西へ。
ランプはジャアファルを連れて東へ。
亜麻色の煙の中、二人は再び、分断された。
〜〜~
「母、さん……?」
吐血した母は膝をつく。
俺は持っていた物をすべて落とした。
「母さん、母さん!?」
「ごめん……ごめんな、さい……あなたたちに、心配……かけたく、なくて……」
血の量をみて、息を呑む。日々、スラムの端に横たわる死体を見てきた。そいつらと、母さんの影が重なる。
あいつを、あいつを呼んでこなきゃ。
走り出そうとした俺を、弱々しい腕が引き留める。もう間に合わないから、と、ゆっくり首を振った。その動きは、一瞬で俺を絶望に叩き落とす。
足に力が入らず、音もなく座り込んだ。
「…私のお父さん……先代国王直属の、兵団の……団長だったの。そのとき託された、んですって…」
母さんは赤い手で、俺に短剣を渡す。
「…お守り。いつか、あなたたちを…助けてくれる気、がする…から…」
受け取った短剣は、鉛のように重かった。
母さんは、もう一度大きく吐血する。
もう保たない。母さん自身も、俺も、悟った。
「ジャアファル……アルを、お願いね…」
伸ばされた細い手を、取ろうか迷った。
触れてしまったら、もう二度と。
今触れなければ、もう二度と。
「_____任せて、母さん……ッッ」
俺はその手を握りしめた。
なんで母さんが。どうして言ってくれなかったんだ。あの時もあの時もあの時も、我慢しながら笑ってくれたのか。優しかった。なんで。ここで死んでいいひとじゃない。
置いていかないでくれ。
全部全部押し殺して、縋った。任せろ、なんて、口では言っておきながら。
母さんは、ぐしゃぐしゃな顔を晒す俺を見つめる。消えそうな瞳は、異様なほど綺麗なサンオレンジだった。
ふわ、と微笑んで……まぶたを閉じる。
柔らかい風が、空に吸い込まれていった。
しばらく、泣いていた。
何も考えずに、身体が軋むほど。感情が絞り切れるほど。
水汲みから帰ってきたあいつに、なんて答えていいのかわからなかった。絶望する顔、泣き叫ぶ顔、すべてがありありと想像できる。言いたくない。ああ嫌だ、言いたくない。
『アルを、お願いね…』
「……………」
腕で乱暴に顔の水を拭う。何をしている。
母さんと約束したんだ。俺は、兄だろうが。
短剣を握りしめて、立ち上がる。
背後から物音がした。
振り返ってまわってみると、溢れた水、投げ出されたバケツ。
帰って、きたのか。なら、どうして…
「はなせっ!はなせよ!!」
「騒ぐな、ガキ!」
聞き間違えるはずのない声が、耳に飛び込む。嫌な予感が吐き気を汲み上げる。それを落とすように駆け出す。
「がっ」
見えたのは、数人の男と、蹴り飛ばされる
「アル!!」
こいつら、奴隷商人だ。
まずい、だめだだめだだめだだめだそれだけは。
麻布に詰め込まれる、気絶した小さな身体。まるで物扱いだ。ふざけんな、ふざけんなよ、俺の弟を。
「やめろ!!」
無我夢中で突っ込んでいった。形になる言葉を発していたのか、どんな顔をしていたのか、まるで覚えていない。
「カッハッッ」
しかし現実は残酷だ。子供一人で何ができる。壁に叩きつけられて終わりだった。
母さんが託してくれた短剣も、奪われた。
「……………」
必死に手を伸ばす。絶対に届かなかった。地を這って、また手を伸ばす。
もう誰も、この手を取ってはくれない。
まってくれ。たのむ。
そいつは俺の、『唯一の家族』に……ついさっき、なったばかりなんだ。
「……………ッッ」
_____あの日から、少しずつ消えていく。母の笑顔も、弟の生意気な言動も。
心を認識できなくなっている俺は……私は、どこで果てればいい。
〜〜~
緑の石は天井まで伸び、円形の広間を完全に区切って二部屋にした。あたりに飛び散る欠けた大理石。
「ど、どうなってんだ……」
変な体勢で尻餅をついてしまったアルは、腰をさすりながら立ち上がる。頭に乗っていた石の破片がバラバラと落ちた。
「天井の宝石を組み替えると、こうなるように仕組まれてたみたいだな」
目を見張るアルに対し、落ち着き払ったトケイは服の塵を払いながら背後を指差す。その先には、緑石の裂け目から顔を出す重厚な扉。
アルは誘われるように近付いた。
「無理だ。お前は入るな」
しかし、トケイに阻まれる。有無を言わさぬ目つきだった。
「……ンだよ。帰れってのか。俺はもう大罪人扱いだぞ。どこで生きろってんだ!」
「なら、大臣に頼んだらどうだ」
呆れた溜息混じりの声は、アルの心奥を逆撫でする。
「……人殺しに頼るくらいなら、死んだ方がマシだ……ッ」
暴れる語尾を吐き捨てる。
トケイは無表情で、燻る一人の青年を見ていた。瞳のエメラルド色が深くなる。
「…大臣は誰も殺してなんかいない」
何気ない様子で放った小声は、半円の広間に響き渡った。アルは一瞬息を詰まらせ、驚いて顔を上げる。
「なんでお前にそんなことがわか」
「執務室の一角」
トケイにしては強い語気で、言葉を遮った。
お前の意見を聞く気はない、と突きつけるように、淡々と述べる。まるで独り言だ。
「奴隷商人の情報ばかりが積まれていた。片端から潰していたらしい。明らかに職務外だ。そんな人間が、肉親を殺せる筈がない」
奴隷……商人。無意識に自分の首を触って確かめる。今なお消えぬ首輪の跡。逃げ出すあの日までの記憶が脳裏をよぎった。
名前すら知らない、昨日会ったやつの言葉だ。十年以上信じてきたことを覆すには、軽かった筈、なのに。
「お前は思い込みの激しい短気なガキなんだよ。いい加減自覚しろ」
どうしてこんなにも、心を抉る。
あの日溢した冷水が、頭に降り注いだ。
本能が告げている。目の前のこいつは、真実しか述べないと。
____あいつは俺を、探し出そうとしてくれてたんだ。
トケイは、話し過ぎた、と苦虫を嚙み潰したような顔をしてアルに背を向ける。
「ま、まってくれ。俺は」
「これ以上お前の事情に付き合ってられるかよ」
彼はもう振り返らない。
扉の前に降り立ち、懐から何かを取り出した。天井の七つの宝石たちと全く同じ色の、しかし少々こぶりな七つの石だ。扉に彫られた窪みに合わせてはめていく。
『俺はどうしたらいい』
そう言おうと思って開いたまま、固まってしまったアルの口からは、なにも出てこない。きっともう、何を言っても返してくれないとわかっていた。
三つめ、四つめ、五つめ。
宝石が扉の一部になってゆく。その度、いろいろな方角からガコン、カチャ、と音がする。
しかし六つめの宝石がはまった後、何故か沈黙が続く。
トケイは七つめの宝石を持ったまま、静止していた。なにかと葛藤しているようだ。
その手の中にあるエメラルドを、自身が宿すふたつのエメラルドで見つめている。
やがて、それを握り締めた。
「……この国では、モノの順序がこんがらがる事件が起きてる。このままだと、勘違いしまくった民衆に、大臣が殺されるぞ」
小さく発せられたのは、不器用な言葉だった。
アルは到底、すべてを理解しきれず。だがそれ故に、大臣が殺されるかもしれないということだけは、すう、と心に溶け込んだ。
「時間を稼げ」
トケイは最後にそう言うと、七つめの宝石をはめ込む。ゴゴゴ、と扉が唸って開き、その中へ一歩踏み出すと、彼の姿は消えた。途端に、扉の前には緑の石が新たに突き出て、他の侵入を阻んだ。
「……あいつが、殺される」
残されたアルは、ひとり呟く。冷たい大理石に、頭の熱が吸収されていく。
俺はただのガキ。人を決めつけていいほど、お偉くはなかった。殺人犯よりタチの悪い、ほんとうの大罪人だった。
馬鹿で。どうしようもない馬鹿で。
それでも。だからこそ。
一度冷え切った頭は、青年をどこへ駆り立てたのか。
_____今の俺に、できること。
アルは太陽の瞳を開いて、走り出した。
〜〜~
「…………ッう…」
ジャアファルは、壁に背中をつけ、座った状態で気絶していた。全く反応できなかったが、誰かが助けてくれたのだろうか。
砕けた大理石が当たった頭を押さえて、目を開く。
いつものように夢をみた。みたくもない夢だ。
「怪我はないですか」
ふと聞こえた声に、視線を上げる。
何事もなかったかのように立っているランプは、目を覚ましたジャアファルに問いかける。しかし、彼は何も喋らない。黙ったまま、項垂れている。
「…アルくんは、なにか勘違いをしているようですね。あなたはとても苦労しているのに。愚王のお守りに山のような仕事、国民全員からの嫌われ役。挙げ句の果てには探し続けた弟に嫌われ…」
「それ以上、語るな」
ランプは素直に口を噤み、感情の伴わない表情でジャアファルを見つめる。瞳に揺らぎを閉じ込めると、しゃがんで彼と視線を合わせた。
「様々な衝撃により心中お察ししますが……この国の異変は一刻を争います。あなたが呆然とする時間は、残念ながらありません」
真黒の視線と橙色の視線が一瞬交わる。
ランプは今までの笑顔とは別種の、困ったような笑い方を見せた。蹲っている青年に、手を差し伸べる。
「生きていれば、どうにかなるものです。いつか消える生命であればこそ、まっとうしないのは愚行というものです。折角また会えたのに、誤解ごときで別れるんですか」
ジャアファルは全く予想していなかったその言葉につられ、顔を上げた。
『もう誰も、この手を取ってはくれない』
……違った。
どこの誰かもわからない者が、手を取るどころか、手を差し伸べることさえしてくれている。
心に込み上げたものを押しとどめ、深く息を吐いて、吸って、その手を取ると……立ち上がった。
「……一体、シナに何が起きているんだ」
最近各地で起こる奇怪な事件や勘違いの訴訟。様々な要因を考え調査してきたが、突き止めることはできていない。
ランプはにこりと笑って人差し指を立てた。
「ズバリ、時間軸の不具合です」
「………は?」
予想外すぎる非現実的な答えに思わず面食らう。首謀者か、病気についての情報かなにかを教えてくれるものと思っていた。
冗談だろう、と問いかける前に、ランプは続ける。
「明日が昨日に、昨日は十ヶ月後に…はたまた今日そのものが消えたり…といったところでしょうか」
「ま、まて。時間の……軸?そんなものがあるのか」
「あります」
即答する。その表情には、なんとも言えぬ真実味があった。
どうやら本気らしい。それを感じ取り、より一層頭を抱える。到底受け入れられない考えだ。
「パンは巻き戻って小麦に早変わり、明日会おうと約束した相手は永遠に来ず、小さな芽は一晩で巨木へ、老人は赤ん坊へ。臓器の時間が狂えば、吐血して死ぬ。巷で話題の病の正体は、それです。ちなみに殺人鬼というのは、現場にいつも居合わせているわたしのことで、実際には存在しません」
ランプは自分を指差す。
具体的なことを言い連ねられると、得心がいってしまう。確かに、常識的ではないが、すべてを説明できる。
「……こんなことが起きるんですから、訳がわからなくなるのも無理ありません。そして人々の不安は、以前から存在していた政府への不満に拍車をかける。今や各地で混乱が広がり、クーデターに発展し始めています」
「だが、時間、なんて…そんなもの、どうしようも…」
「そのために、あの方が来ました。どうにかしてくれます」
またもや面食らう。やけにあっさりと、ざっくりと。ランプはドヤ顔だが、あの方というのは、金髪の彼のことだろうか。
「あ、あの少年は、神なのか…?」
「カミ?そんなものと一緒にしないでくださいよ」
ランプは笑いのツボにハマったらしく、クスクスと笑い出す。ジャアファルにしてみれば全くもって理解不能。
「ゴホン、いえ失敬。とにかく、混乱の足止めをしてください。アルくんもきっと、そのために動いているはずです」
アル、という言葉を聞き、ジャアファルの目つきが変わった。それを確認し、ランプの左眼の中で三日月が光る。
「……大臣ジャアファル。あなたの生命のランプが輝くことを、『影』ながら祈ります」
最後に静かにお辞儀をすると、ランプはどこかの闇へと消えた。
〜〜~
黄褐色の土煙が辺りを支配する。
脱走するラクダ。逃げ惑うターバン。泣き叫ぶ子供。貴族を皆殺しにしろ、と団結する人々。金属の匂い。
そんな中、鋭い風が吹き抜けた。
一人の青年が、人混みの間隙を縫って走っている。目指すは、老朽化した高い塔。
屋台の屋根に乗り、建物の間に伸びる縄を掴み身体を振って飛ぶ。塔の麓に着地すると、ほんの僅かな壁の凹凸に手足を引っ掛け登っていく。昔はガラスが埋め込まれた窓であった場所に辿り着き、足をかけてグルンと空中で回ると、片手で窓枠のヘリを捉える。
肺いっぱいに息を吸い込み、身を乗り出して吠えた。
「おう野郎どもーーー!!」
空高く響き渡る声。
鳥もラクダもトカゲも、吃驚して止まる。
今掴んでいるレンガが崩れれば、真っ逆さまに転落死するだろう。しかしそんなことは頭にないらしい。
「まんまと引っかかりやがったなバァーカ!こんだけ騙して騒ぎにすりゃあ、盗みもやりやすいってモンだぜ!」
人々は皆、唖然としている。
予想外のことが起こった時、情報処理が追いつかないこの一瞬を、アルは狙っていた。
「おいそこのデブ!なんだその趣味悪い服はよォ!ボロ布にくるまったデケェ豚肉の塊にしか見えねェぞ!」
「なんだって!?」
「誰かしら、あの子……」
「さあ……」
スラムのガキが訳の分からないことを言えば、人々の七割は冷静さを取り戻し。
「オッサン!あんときゃ世話んなったなァ!アンタの作品高く売れたぜ!」
「貴様どの面下げとるんだ!」
「おまえぇ!商品返せ!」
「ひっ捕らえろ!!」
盗みばかりしていた嫌われ者が生意気な言葉を吐けば、怒り狂ってる奴らは簡単に釣れる。
混乱が『錯綜』すれば、第三者が傷つくことになる。
なら、すべての混乱を、自分一人に集めろ。
「ハッ!捕まえられるモンなら捕まえてみやがれ!!」
そして、長年逃げ続けて身につけた逃走能力が。奴隷商人が血眼になって求めた身体能力が。
怒り狂う民衆を足止めする材料になるってことも、分かってる。
______さァ、楽しい楽しい八つ当たり祭の始まりだ。
〜〜~
一刻も早く混乱を鎮静しなければ。
広間から、兵団の訓練所に繋がる通路へ急ぐ。その間も、戦略や計画を練る。
本来なら、国王に許可を得なければ兵団を動かしてはならないが、この際そんなことは気にしない。普段着の上に着ていた、大臣用の重い伝統衣装を脱ぎ捨て、死刑覚悟で走る。
ずっと机に向かっていたせいか、すぐに息を切らす。昔はあんなに走り回ったくせに、と情けなく息を吐いた。
「大臣殿はおるか!」
その時、耳障りな声が聞こえた。思わずゲ、と顔を歪ませる。貴族の、しかも上層部の人間たちだ。
「なんだ先刻の揺れは!」
「国民が暴れまわっていると聞いたぞ!」
「なにをしている我らの国を守れ!」
ぞろぞろと煌びやかな衣装を纏ってやってくる。私は白けた視線を注いだ。お前らの国、なんかじゃない。
「あのですね、ただ今緊急事態でして…」
「貴様は大臣失格だ!」
謙った私に対して容赦なく浴びせられたその言葉を最後に、『私、大臣ジャアファル』は、跡形もなく消え去った。
「……じゃあテメェらはできんのかよ大臣っつう仕事をよォ!!」
思いもよらなかった大声に怖気付き、後退りする貴族たち。
「なっ、なにを、我らを愚弄するのか…」
「偉そうに好き勝手言いやがってもう我慢ならねェ。こんのクソ貴族が!」
「無礼は、し、死刑に値するぞっ!?」
大臣なんてやめてやる。そもそも俺は、弟を探し出すために大臣になったんだ。もう用済みなんだよ。いっそ暴れ回る国民に皆殺しにされちまえ。
「…………って、言えたらよかったのになァ…」
俺は一人で勝手に呟き、勝手に打ちのめされる。
目の前のこいつらがどれだけクズでも、その家族がいる。そんな考えが浮かぶ自分に、呆れて物も言えない。ガラクタ同然の正義感だ、これは。
「……非常用の隠れ部屋を用意しておいた。国民が攻め込んできてもそこなら安全だ」
俺は生きるのが苦手なんだろう。こういう性格が原因だってこともわかっている。これからもきっと、何かあるたびに苦しんでいく。
「だからァ……生きたい奴だけ入っとけこの野郎!!」
それがなんだっていうんだ。
俺は思い切り笑って叫んだ。口角を上げる表情筋は長らく使っていなかったせいで痛かったが、悪い気分じゃなかった。
貴族たちは右往左往したり、妻と子供を迎えに行ったり、俺に罵詈雑言を吐き続けたりしていたが、追ってくることはなかった。その隙に兵団訓練所に駆け込む。
貴族たちとは性格的に真反対に位置する兵団の奴らは、国王の命でなくとも従うと、口を揃えて言ってくれた。むしろ王や貴族に対しての愚痴ばかり口をついて出てくる。
「第一兵団は西!第二は南!情報はすべて俺に集めろ!指揮をとる!」
「「はっ!!」」
アル、無茶したらタダじゃおかないからな。
しかし、その後すぐに、一人の青年が民衆の注意を引きつけて暴れまわっているという情報が入り、俺は立ちくらみをおこした。
〜〜~
一日中しゃぶり続けた骨を未だ噛み続ける犬が、ふと顔を上げた。
遠くからこだましてくる音。だんだんと、だんだんと、灰色の砂塵が蔓延るスラム街に、怒声罵声が流れ込んでくる。
先頭を走るは一人の青年。
後から追うはざっと十人の男たち。
「うおっと」
青年が走り込んだ先に待っていたのは、武器を携えた男五人。
「上等ォ!」
篦棒に武器を振り回す五人の頭を漏れなく踏みつけながら移動する。足首へと伸ばされた手に気づき、一段高く跳躍。敏捷に回避した後、一人の男の鳩尾を蹴り、背後にいた三人もろとも壁の一部にする。
その威力に怯んだ六人に、低姿勢で攻め込む。地面に手をつき、体を捻って一人を蹴り上げる。その時アルが地面についた手を斬ろうとしていた男の首を膝裏で捉え、地面に叩きつける。その勢いで上体を起こし、二人を殴り倒す。アルの首を狙ってきた男の手首を掴み、捻って背後のもう一人へ投げた。
すぐさま、両脇から挟み撃ちにしようとしてきた二人の動きを察知し、跳躍して二人の頭を掴むと、互いに頭突きさせる。そのまま背後の男の顎を蹴り飛ばし、其奴の背中を蹴って屋上へ跳ぶ。
縦横無尽に走り抜け、柵が欠けた場所から一段下へ降りる。
家々の淵に置いてあった花瓶を拝借し、振り返って立て続けに投げつける。追ってきた残り二人の顔面にそれぞれ命中。
しかし新たに何十人も追ってきた。
「やってやらァ……!」
行き止まり地点や曲がり角、崩れたレンガを利用して、そのうち半数を撒いて逃げる。追ってきた残り半数の奴らとともに絨毯屋へ飛び込むと、次々に簀巻きにしていく。絨毯屋の主人は激昂していたが気にしない。
包丁を振り回す女たちを気絶させ、暴れるラクダに蹴り飛ばされそうになった子供を寸前で助け、さらに追っ手から逃げる。
行き止まりに突き当たった時、背後に三人の男が現れた。明らかに目の色や体格が違う。かなりの手練れだ。
「……誰だ、お前ら」
「我らは王家直属兵団の元兵士。貴様のような罪人は捕らえる」
「出来んのか?役立たずだから『元』兵士なんだろ」
「黙れ。王に、無実の罪で解雇されたのだ。貴様とは違い、我らには我らの矜持と正義がある!」
アルは、ハッ、と息を鋭く吐く。それは口の形のせいで嘲笑いへと化けて出て行く。
「そうかよ。ご大層なモンだな」
三人をギッと睨むと、大地を蹴った。距離を詰め、一人の胸ぐらを掴む。
「吹っ飛べェ!!」
そのまま上空へと投げ飛ばす。男は素っ頓狂な声をあげ、放物線を描く。着地点に騎士像があり、その槍に服が引っ掛かった。
アルは男の重さで斜めになった槍の反対側に飛び降り、テコの原理で男をもう一度空の旅へ誘う。男は目を回し、空き家の中へ飛び込んだ。
拍子に騎士像の手から外れた槍は、残っていた二人の元兵士のうち一人の手へ吸い込まれる。
長物の扱いに長けた元兵士に、武器が渡った。案の定、洗練された動きでアルヘ襲いかかる。重厚な一撃を寸前でかわしたが、地面に手をついてしまった。男は勝利を確信し、槍を振り下ろす。
「なっ!?」
しかし、アルは槍を、足裏で挟んで止めた。右手一本で全身を支えた体勢で。
そのまま足をひねり、槍を男の手元から弾き飛ばす。それはクルクルと旋回し、地面に深く突き刺さった。もう抜けまい。
アルは砂を一握り掴んで、武器を失った男の顔に投げつける。
「正々堂々クソ食らえ」
「ガッハッッ」
その隙に男の腹を殴った。メキ、という音とともに道の反対側まで飛ぶ身体。
「勝ちゃいいんだよ、勝ちゃ」
「_____そうだな」
「⁈」
フン、と笑ったアルの後ろに、いつのまにか回り込んでいた残り一人の元兵士。手には細長い針。
アルは瞬時に距離を取ろうとする。が、かつてないほどの人数を、傷つけぬよう配慮して相手してきた身体は、ほんの一瞬反応を鈍らせた。元兵士が放った五本の針のうち、一本が腕に刺さる。
視界が歪む。手足が動かない。毒薬だ、しくじった。
「野蛮な獣め。貴様など息をする資格もない。さっさと逝け」
元兵士は腰につけた長い剣を抜き、倒れ込んだアルに向ける。
「……ッッ」
ここで死ぬわけにはいかない。俺は、あいつにまだ。
ぼやけた視界を裂く銀色。ああ、畜生。
_______刹那、紫に染まる。
「ゴホッ!?」
水、いや、葡萄酒だ。樽ごと落ちてきた。
元兵士もまた、予想外のことに驚きを隠せず、怯む。その隙に、斜め上から投げられた棒が元兵士の頭に命中。見事に気絶して倒れた。
「よう。やっとるのォ」
音もなくアルの前に降り立ったのは。
「…ヤ、ヤクンのジジイ……⁇」
ご満悦な様子のヤクンはニカっと笑い、小瓶を取り出すと、仰天するアルの口に突っ込む。すると、アルの体から痺れが消えた。視界も明快さを取り戻してくる。
「兵団の隊員は毒薬を持っとるもんだ。気いつけな」
「お、おう……ってなんであんたが解毒薬持ってんだ」
「まァ細かいことは置いといて」
「オイコラ置いとくのかよ……あっ!俺の短剣の宝石取ったろ!!返せよ!!」
「お礼もなしにその話かィ……」
アルに胸ぐらを掴まれ前後に揺れるヤクンは、肩を竦めてやれやれと首を振る。
「……それなら盗られた。確か、金髪のガキだったのォ」
「え?」
待てよ。今思えば、扉の七つの窪みにはめこんでいた、アレは。
「……なんか見覚えあるなと思ったら、アイツ…」
「なんだ知り合いか」
「まァ…でもアイツに関しては考えると頭痛くなってくるから、それは置いといて」
「数秒前おまえさんが言ったこともう一回言ってみ」
クック、と笑うヤクンはしかし、ふと真剣な表情になる。
「……なんで短剣を使わんかった」
ヤクンの問いかけに対し、アルはキョトンとする。確かに、短剣を使えばすぐに倒せたはずだ。
「…あの短剣は、なんでか人を傷つけちゃいけない気がしたんだ」
つまりはなんとなくだと言い切ったアル。命がかかっていたのにこの本能任せ。天晴。
ヤクンはその答えを聞くと、深い橙色の瞳を細め、満足そうに笑った。
「そうか。よし、おまえさんを手伝ってやるかの」
「え、本当か?あんたすぐ騙すからな……」
二人は競うようにして走り出した。
〜〜~
宮殿、東塔。
現国王は独り、ベッドに横たわっていた。
数ヶ月前から体調は優れなかったそうだが、ここ数日で一気に悪化したらしい。
部屋の埃と干からびた花は、久しく誰も見舞いに来ていないことを伝える。
「……だれだ……」
危篤の国王は、人ならざるモノの気配を感じ取った。
闇から現れたのは、濡羽色の影。
「わたしはランプ。ニンゲンが呼ぶ名でいいますと……死神です」
そう名乗った影の周りには、灯りを消したランプがひとつだけ浮遊していた。
「死神、死神だと……?私の命を奪いにきたのだな……」
「いいえ。寿命とは、あらゆるモノの中で、生まれたとき既に決まっているのです。わたしはカラになった生命のランプを回収しているだけ。あなたの寿命はここまでです」
「……そんなもの、認めぬ、けして認めぬぞ……私はまだ、まだ……」
ランプは静寂の中、コツコツと歩み寄ってベッドの脇にある椅子を引き、座った。
「一体なにを求めているのです」
「……彼奴の、彼奴の顔が見たいのだ……」
ああ、元皇后様のことか、とランプは悟った。死した人間に囚われる人間は、側からみれば無様なものだ。
「毒殺された…誰だ、誰だ私から宝を奪ったのは……けして許さぬ、殺してやる…」
「それはそうと、国王陛下。皇后様の最期の言葉を知っていますか」
「…なに……?」
怨念のこもった国王の声色を気にもかけず、対照的な明るい声色でランプは言った。
「『あなたに会いたい。最愛のあなたに』」
皇后の最期の現場にも、ランプは立ち会っていた。目を閉じれば浮かび上がる残像。
「……国民にとって、あなたは傲慢な愚王でした。それでも皇后様にとって、最期まであなたは美しかった。これは事実ですよ」
国王の息遣いが、少しだけ落ち着いたものに変わる。その瞳は、潤んでいた。
「………そうか…」
しゃがれた声はほんのひとひら、怒りと狂気以外の何かを宿す。
手に入らぬモノを追い求めた者は一人、その命の灯を消した。
「…………………」
ランプは立ち上がって、国王の額に触れる。すると、身体から生命のランプが分離し、形を持った。
ランプの周りに浮遊していたひとつのランプ_____元皇后の生命のランプは、そのそばに近寄っていった。
「…あなたたち夫婦は、似たもの同士ですね」
闇の中、ランプはくすりと笑った。
〜〜~
砂嵐の中、トケイは佇んでいた。
アルを残して入っていった扉の向こうには、風化した古の街並みが広がっていた。石と砂と風が遍く、荘厳さと寂寥感が身を寄せるような空間。ニンゲンはいない。
時間を管理するセカイ…トケイしか入ることを許されないセカイの一つだ。
トケイは荒れ狂う暴風に舌打ちをする。
「止まれ」
ピタリと風が消えた。砂粒ひとつひとつの形状が目視できる。
背負っていた荷物を降ろし、シュルシュルと布を解いていく。現れたのは、時計の針のような形状の道具。トケイの身長よりも大きく、歯車や金具が複雑に組み込まれている。
ガチャリ、と重厚な音を奏で、持ち主の右手に収まった。相当な重さであるそれを、トケイは風を切って回す。垂直に立てて持ち替えると、またカチリと音がした。
「_____ホーロロギオン」
破散していたガラスたちは次々と修復され、砂時計の形を取り戻して二列一直線に立ち並んでゆく。その間を抜けて歩くと、目の前には一際大きな砂時計。宮殿の三倍は高さがある。
ガガガ、と不協和音を出し、斜めに傾いたまま止まり、逆に回転し、また半端な位置で止まる、という不規則な動きを繰り返していた。割れた箇所からは、大小の砂の滝が零れ落ちている。
「…………」
トケイは軽く息を整え、駆け出す。
瞬時に捻じ曲がる金属たちを薙ぎ払い、砂時計の金の装飾を足場にして上っていく。
歪む時界、しかしトケイの半径二メートル以内に入ったモノは静止する。
砂、ガラス、砂、金属、エメラルド、砂、砂。
倒れてきた柱の振動に合わせ、手に持つ時計針を利用し自らを上空に放ると、砂時計の中心……錆びついた赤いオリフィスに、針を突き立てた。
瞬間、黄金の光が十字に走る。
衝撃波で、トケイの両眼が明らかになった。前髪で隠れていた左眼には、特殊な紋様が刻まれている。
狂わず、乱れず、絶対的な時を刻む『トケイ』の紋様。
十字に伸びていた光は境界を滲ませ薄らいでいき、不協和音もぴたりと収まる。
砂時計は整い、本来の規則的な動きを取り戻す。かけていた箇所はガラスで塞がり、中の砂は停滞を忘れてさらさらと一定に流れ始める。
トケイは限界まで研ぎ澄ませていた集中力を鎮め、フッと気を鎮めた。
砂時計の極狭い縁に器用に座ると、身体の力を抜き、もたれかかる。ガラスの間に針を立てかけ、衣服の砂を払った。
「…今回は辿り着くまでが面倒だったな…」
懐から綺麗な布を取り出し、針を几帳面に覆って手早く担ぐ。
トケイと呼ばれる彼の正体は【フィラカス】
時間軸を一律に管理し、故障時には時計針で修理する_______時の番人である。
〜〜~
「無茶にも程があるだろ!!」
一通りの指示をし終わったジャアファルが駆けつけた時、すでにアルは怪我だらけであった。兵団の到着が遅れれば、命を落としていたかもしれない。
アルは説教を受けている最中、黙りこくって俯いたまま。ちなみにヤクンはまんまと逃げて諸々の面倒ごとを回避したらしい。
「…ホンッッット……お前のせいで…」
ジャアファルは溜めに溜めた心労を怒りの声色でぶつける。しかし、それは語尾で弛緩した。
「……お前のせいで、助かった人が大勢いるよ」
アルはその言葉を聞くと、バッと勢いよく顔を上げた。目に映るジャアファルは、誇らしげに笑っている。
「………よかったァ〜〜……」
大の字になって後ろに倒れ込む。限界を超えて動かした手足は痙攣し、肺は働き過ぎで休みを要求している。傷口から滲む血の匂いは、本能を呼び覚ます役割を果たし終えた。
満身創痍。国中を駆け回った代償の疲労感は並みではない。それでも、清々しい気分だった。
「…兵士から連絡によると、ある時から混乱が一気に減ったらしい。そのおかげで、クーデターも食い止められた」
「……そっか…」
各々、あのふたりのことを想う。
果たして彼らは何者であったのか。
彼らの言葉は真実であったのか。
そんなことは、もはやどうでも良かった。
たったひとつ確かなのは、この国を、二人を救ってくれたのは、彼らだということ。
仰向けに寝そべっていたアルは、唐突に上半身を起こす。
「兄さん」
「なんだ」
ジャアファルはごく当たり前のように返事をした。その後で、二度瞬きする。耳を疑った。十年以上求めた言葉。ゆっくりと隣を向く。
「……ごめん………ッッ」
激情に押しつぶされそうな弟が映った。
泣いて、泣いて、それでも兄と目を逸さなかった。
ああ、こんな泣き顔だったな、と思い出す。もう、酷く昔のことだ。
「あんな」
「いいよ」
言葉を遮って、先に目を逸らしたのはジャアファルの方だった。
あんなことを言ってごめん。
ずっと勘違いしていてごめん。
たくさん背負わせて、心配かけてごめん。
お前が言いそうなことなんて、言葉にしなくてもわかるから。
随分と長い間隣に居られなかったけど、それでもわかるから。
だって、俺はお前の兄だ。
「俺も、ごめんな…アル……」
ジャアファルはアルの方に手を伸ばし、首輪の跡に触れた。
「やめろよ、謝られることなんて何も…」
アルはその腕を掴み、離そうとして、その細さに気づく。
宮殿にいたって、贅沢してたわけじゃない。むしろこんなになるまで働かされてたんじゃないか。
腕を掴んだ手が震える。なにも言えなくなって、思わず視線を逸らす。
その時、異変に気付いた。
二人は同時に、空を見上げる。
「……水が、降ってる………?」
水晶の煌めきの粒が、ひとつ、またひとつと落ちてくる。青い空から生み落とされた宝石。やがて量は増え、『雨』という名を持った。
砂漠の中の奇跡。この国の中で一体何人の老人が一度でも見たことがあるだろうか。
水に恋い焦がれる人々は皆、空に見惚れていた。
「……アル。お前は、シナ王国をどう思う」
見上げたまま、ジャアファルは問いかけた。この国のいろいろなことを学び、実際に見てきた分、悩んでもきた彼に対し、アルは、特に考えることもなく答えた。
「どんな緑豊かな場所よりも、強くて綺麗な国だ」
「…………え?」
ジャアファルは空から視線を外して、未だ上を見続けるアルの方を向いた。
「食べ物は美味いし、宝石も絨毯もカネになるし、人だって……まあ俺が言えないけど、みんな本当は優しいし、生きることへの情熱や度胸が、他の国の奴らとは段違いだ。他の国なんて行ったことないから分かんねえけど!」
笑って適当言うところは相変わらずだな、とジャアファルは半分呆れた。
アルは一呼吸おいて、空から視線を外し、ジャアファルとサンオレンジを重ねて告げる。
「何より、兄さんが大臣なんだ。最高の国だろ」
太陽のように笑った弟を、兄は一生忘れることはない。
「…………そうだな」
雨に紛れてジャアファルの瞳から流れたものの正体については、言及しないでおこう。
〜〜~
「_______アイツは結局、名を教えてはくれなかった。でも、もう一人の方は、名をランプといった」
宮殿に響く声は、物語を聞かせていた。その周りには、目をキラキラと輝かせる子供たち。
「団長様はお話が上手ね。まるで本当にあったことのよう」
「本当にあったことなんだよ」
兵団団長…アルは、懐かしそうに天を仰いだ。目まぐるしかったあの日は、昨日のことのように思い出せる。
「アル!こんなところにいたのか!!」
「やべ、見つかった」
廊下から聞こえた声にギク、と肩を震わせる。入ってきたのは大臣…ジャアファル。
「まだ仕事あっただろ。少しは真面目に」
「へいへい」
「返事は?」
「ハイスミマセンでした大臣殿」
二人のやりとりを見て、クスクスと笑う子供たち。
ジャアファルは溜息をつくと、弟を引っ張って執務室へ向かう。
「先日、ここ一帯には新たな資源があるという情報を手に入れた。すぐにシナを金持ちの大国にしてやるさ」
ジャアファルは悪い顔をして算段を立てる。その顔を見て素直に気持ち悪いぞと言い放ったアルは、脇腹に鋭いツキを食らった。
「警備の方は任せるからな」
「おうよ。どこの国にも侵略されない軍隊を作り上げてやるぜ」
兄弟は顔を見あわせ、穏やかに笑いあう。
_______その様子を、宮殿の天窓から覗く者がいた。
砂と太陽に混らないプラチナブロンド。
光の屈折と反射を宿したエメラルド。
その背に負った大きな荷物。
物語を運ぶように、風が吹き抜けた。
彼は小さく微笑んで、カチッという音と共に、姿を消した。
『_______宝石の街。
ルビーの門、エメラルドの門、瑪瑙の門、珊瑚の門、碧玉の門、銀の門、金の門…この七つの門を通り、中央の宮殿へ抜ければ、中庭にはエメラルドの亭があります。
その中心の小箱の中には赤硫黄。あらゆるものを、カネに変える力を持っています。
ただし、お気をつけて。宝石を盗むと殺されます。
規則正しい音が聴こえるなら、真っ直ぐ前を向けと。
金風の番人は、いつもあなたを見守ってるのだから______』
第1章「アルフライラ・ワ・ライラ」
別名「アラビアンナイト」
〜完〜