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黄昏の精霊たち  作者: 松谷若草色
精霊の出奔と出会い
8/17

ノアとエレオノール_広がる世界②

 宿に入ってすぐの広間にはテーブルがいくつも並んでいた。

 窓の明かりが入らない反対側の暗がりに石造りのカウンターがあって、その向こうには炊事場がある。

 奥では女将がいそいそと何か立ち回っている。

 「やあソフィア、調子はどうだい」

 ノアが声をかける。女将はこちらを向いて、手をぬぐいながら朗らかに応えた。

 「あら、ノアさん。そろそろ来る頃だと思ってたっけね」

 その返事を聞きつつ、ノアがカウンターの方に歩み寄る。後ろからついていった。

 「忙しくなるな」

 「まぁた忙しくなる……いまから怖いぐらいだ」

 と言ってソフィアが笑った。女だてらにこの宿を切り盛りしているのだろう、明るく、元気がよく、覇気がある。

 「ずっとじゃ参るが、たまに忙しいのは結構なことじゃないか」

 ノアは笑って応える。

 「加減が大切なんだ、いつだって」とソフィア。

 「宿泊でいいですか?」というソフィアの問いかけに「ああ」とノアが応える。

 「それで……どうしたの今日は。きれいなお連れさん連れちゃって」

 エレオノールの方を向いた。

 「あら~、あんた。きれいな人だね」

 みんな同じことを言う。いい加減、まともに照れてきた。

 「ありがとう……ございます」

 「紹介しよう。妻のエレオノールだ」

 一拍の間があいた。

 

 「ツ・マ!?」

 

 女将は()頓狂(とんきょう)な声をあげた。目をむいて、言葉を失っている。エレオノールが反射的にノアの方を向くと、やはり苦笑している。

 「なんだ。俺に妻があるのがそんなにおかしいか」

 「いやいやいやいや」

 言ってから目を白黒させる。

 「だってノアさん、あんた……あたしのじいさまが生まれる前から独りであすこに棲んでるんだべ?」

 見ると、本当に手をわなわなと震わせていた。大した驚きようである。

 「そんなにおどろいてくれるな。あんまりみんなに驚かれるから、すこし気恥ずかしいぞ」

 ノアがそういうと、ソフィアは人懐っこい申し訳なさそうな表情を作って言った。

 「そう言わないでよお。村のもんにとったら、ノアさんあんた、我がのじい様連中から、守り神と紹介される魔人の旦那だよ――」

 ノアは閉口している。

 「ノアさんは村のもんと平たい関係を作ってくれているけれど、みんな心の内で感謝してんだ……こんな辺境、それも北方大森林のそばの村で。なんにも魔物の心配をせずにいれるのは、全部あなたがあすこに居を構えてくれているおかげだって」

 「大げさだよ…」

 ノアはぶっきらぼうに言っている――照れているんだ。面白いものをみた。

 「なんも!大げさなこどはねえ。他所(よそ)じゃあこうはいかないもの。他所さいけば、もう少し自警団に力いれるんだ。ところがうちではそう言った心配はほとんどいらね。ひとっ走りしてノアさんに相談に行けるからだよ。その人が嫁をもらったんだ。これはタリオの一大事件だよ」

 真剣な顔をしてソフィアが言った。

 「盛大に祝わなきゃなんね」

 おいおいおいおい……と小声でノアがつぶやく。

 「ソフィア、そんな大ごとにしなくたって……」

 「エレオノールさんと言ったかい」

 唐突にソフィアがこちらを向いた。ノアは何か言いかけてやめた。

 「あ、はい」

 「わたしは見てのとおり宿屋を営んでいるソフィアと申します。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」

 「あ、はい」

 「あんまりエルのことまでまつり上げないでくれ。普通の女の子なんだ……長命種だけど……」

 相変わらず苦笑しながらノアが口をはさむと、ソフィアは相貌を崩して喜んだ。

 「あらー。あなたも長命なの。じゃあ二人は……」

 ノアとエレオノールを意味深な目つきで、交互に見てくる。いいわねえ、いいわねえ……と、うっとりとした目つきになった。

 ロマンチックなんだな……

 ソフィアは「祝いの席を設けなくちゃなんねえな」とつぶやいて指折り家名をあげている。

 ブラント――

 シェルベリ――

 オーベリ――

 テオレル――

 「いや、全部だな。とにかく村長には私から言っておくから。またその相談もさせてくださいね」

 あれよあれよという間に話は進んでいった。

 「分かった、気持ちは嬉しいよ」

 とノアはついに折れてそう言ってから、咳払いした。

 「ところで宿をとりたいんだがね……」

 「あ、そうだ。二人だね、何泊にしとく?」

 「そうだな……とりあえず六泊、食事付きで頼む」

 はいよ、と返事しながらカウンターから帳簿をとりだして何やら書きつけた。延長するときの手続きについてやり取りしながらソフィアとノアは勘定を済ませている。

 「フフフ、子供たちに言っておかなきゃね。ノアさんは新婚の時、うちに泊まったんだよってね」

 と意味深な目配せをノアにしている。

 「やめんか」

 ノアが言うと、ソフィアはからからと笑って「はーい」と返事した。


 


 明かり片手に一階の奥の部屋に案内される。

 窓がしまって光が入っていないが、こぎれいで気持ち良さそうな部屋だ。

 ソフィアが先に入っていってカーテンを開けた。

 「ノアさんは知ってるけど」そう前置きしてソフィアが説明する。

 「窓とカーテンの間には羊皮紙の張った建具が噛んでて――ほら」

 普通カーテンの向こうにはすぐに板張りの開口部があるものだが、何かはめ込まれている。

 「なんだこれは」

 エレオノールが近づいてしげしげと眺めると、ソフィアが説明を続ける。

 「そうだよね――桟に羊皮紙が貼ってあるの。窓を開けたいときは下半分を……こう、上に持ち上げてから開けてくださいね」

 言いながらソフィアが羊皮紙の桟を持ち上げると、上にスライドした。

 窓を観音開きにすると、外部の明かりが羊皮紙を透けて、柔らかい光となって部屋に満ちた。

「おお、明かりが入ってくるのか。そして冷気は入ってこない、と。すごいなこれは」

 「ノアさんの家は違ったかい。やったらどうだい」

 ソフィアがこともなげにそういう。

 「ん、まあそうだな。別に困ってなかったから検討もしなかったが。エルが気に入ったなら、うちもそうするか」

 え、できるのか。ノアに訊くと「訳ないよ」という。すごいな。

 ソフィアは柔らかい表情で二人のやり取りを見守っていたが、エレオノールがソフィアのほうに向きなおすと改めて二人に聞いた。

 「今日のお夕飯も?」

 「たのむ」

 とノアが言った。


・・・


 部屋で二人きりになって、荷物を棚におろす。

 ベットに腰かけると、感じよいバネの反発がある。

 ノアが口を開いた。

 「今回タリオでやっておきたいことは三つある」

 ――一つ目は、エレオノールをみんなに紹介しておくこと。もちろんタリオの住人に、という意味である。

 「ミカルの話だと今年は領主もこの市にくるそうだ。ついでだから領主のお目にもかけておこうと思う。つい最近ノーザンメイア伯爵をアラン・ポートエリンという若者が襲名した。子どもの頃は賢く、感じの良い子どもだった。どんな風になっているだろうな……」

 と、目を細める。

 「知っているのか」

 「まあな、タリオは最果ての村――裏を返せば最前線だ。領主も時々やってくる。そうだな――ここ何十年、森を開拓する話が出ては立ち消えになっている」

 「つまりタリオを開拓するより、ほかの地域に力を入れたほうが、領の実入りが良いということか」

 そう言うと、ノアはエレオノールを向いていった。

 「エルは意外にそういう知恵があるな。アルブの里ではそういう役割を担っていたのか」

 「まあ、な。もっとも、話を聞いているだけのことが多かった」

 言うと、ノアは微笑んでそうか、といって説明を加える。

 「エレオノールの言う通り、タリオの北限開拓に力を割くよりも効率よく稼ぐ方法がありそうだ、ということだ。(うち)のあたりが開拓されるのは、もっとよほど貧しい連中があらわれるか、技術が進歩するかのどちらかだろうな――」

 まあ、そうだろうな……とエレオノールは思った。 

 「まあなんだ。そういうことで、辺境ゆえに領主に縁がある土地柄なんだ、ここは。アランにもエルのことを紹介しておこう」

 ――二つ目は小遣い稼ぎだ、とノアは言った。

 「俺は土の魔術を使ってちょっとしたガラス細工をつくって、タリオの村の納税に貢献しているんだ」

 「そうなのか。もしや、家にあるガラス細工もノアのものか」

 「ん、そうだ」

 そうだったのか。

 「わたしはあのガラス細工はとてもきれいだと思うぞ。ノアのところにいると決めたきっかけにもなったしな」

 と笑いながら言うと「そうだったな」と、ノアは満足そうな顔をしている。

 「市でナトロンを入手するんだ。あらかじめ湖水地方からナトロンが入ってくるよう手配してある」

 「なとろん?」

 「ん?ああ、まあ、ガラスの原料だ。とにかくそれが手に入れば、ガラス細工が出来る。見たいか」

 「みたい!」それは面白そうだ。

 

 「三つめは?」

 訊くとノアはにんまりと笑って応えた。

 「エルにうまいものを食べさせたり、一緒に市を見て回ったり、服を買ってやったりすることさ」

 言われ、ついエルの口元はゆるんでしまう。顔が上気してきた。

 ノアに抱きつくと、やさしく抱きしめ返してきた。耳元でフーと深く息を吸う音がする。

 「あ、そうだ。湯屋があるから入りに……いや……ところで、エルは混浴文化には馴染みはあるのか……?」

 言いにくそうにしている。

 「混……混浴って男女の別なく湯を浴びるということか?」

 抱きついた顔を離すと、ノアがエレオノールの表情を覗き込むようにして見ている。

 「まったく馴染みがない……わけじゃないけど……わたしはあまりしたことはない」

 「そうか……どうする?湯屋はあるが、タリオの湯屋は混浴だ。六日間あるが、湯屋以外に身体を清める手がないわけじゃない。身体を拭くくらいならこの宿でも出来るしな」

 どうしよう……正直、ためらう部分はある。


 異性の前で裸になることについては、アルブ氏族の間でずいぶん価値観の違いがあった。

 エレオノールの氏族――シェーンベリでは異性の前で肌を見せすぎるのは一般的じゃない。

 ただ、アルブ全体でみればそれが全くのあたり前というわけではなかった。

 蒸し風呂は密室。

 タオル一枚で入っていって、その場に異性がいたとしてもそれは別段変なことでもない。

 無論、蒸し風呂でそういう発展をすることは(エレオノールの知るかぎりは)なかった。

 けれど、その後でそういうことになるというのはあった――らしい。

 わたしは経験したことがなかったけれど……と、エルは故郷の民俗におもいを馳せた。

 アルブの男女観では。

 たとえば婚姻関係があったとて、自然とよその男や女と結ばれることもあるし、それについて嫉妬する者もいれば、大らかな者もあった。

 男女関係だ。そういうことはおきる。

 らしい。

 そうは言ってもどんな子供も氏族の子として大切にされた。長命種のご多分にもれず、アルブの性欲は薄く長く続く。嫉妬も同様、激情に駆られて切った張ったの刃傷沙汰なんてことはなくても、男女の交わす会話にどことなくとげがあったりするのは、相手に想いがある証拠だ。

  

 「……そうだな、ノア湯屋は一緒に入ってくれるか。ここでの生活に慣れたいし」

 わたしはノアと暮らしている。ノアの暮らしに溶け込めた方が良いだろう。

 「ここの方式に従うことにしよう」

 と、少し勇気を出して言った。

 「ん、そうと決まれば多少明るいうちにいかないとな。夜こそ湯気でなんにも見えん」

 二人で着替えを持って出ようとした時

 「貴重品は持ってないだろうな」

 「貴重品……そんなものはもってない」

 そういうとノアは肩をすくめた。

 「そうか、まあそうだな。物品管理が無防備だ。村の連中は気のいいやつらばかりだが、貴重なものをさらして出来心を誘うのも、心無い仕業だからな」

 なるほどな。

 カウンターにいたソフィアに向けて「湯に行きたいのだが」と声をかけると「はいはい」と軽快な返事をして、手桶と手ぬぐいを二人分渡してくれたので、お互いそれをもって出発する。 

 ソフィアに見送られて往来に出ると、村のものは相変わらずノアに挨拶をするし、ノアも気さくに応えている。




 エレオノールの噂を聞きつけて見に来ては声をかける者もいた。

 「わあーすごい綺麗」

 そう色めき立つのは、年ごろの若い女の子の二人組だ。栗色の髪と赤い髪の二人で、揃って後ろで髪を束ねている。

 エレオノールは二人のしている格好が気になった。

 真っ黒の生地に、縦に色鮮やかな刺繍が入ったワンピース。

 ふわりとしたロングのスカートが、腰の高い位置でしぼられて、ものすごく魅力……なんというかカワイイ!

 暖かそうなブーツを履いて、それぞれが毛皮で仕立てた外套(マント)を羽織っている。

 なんて素敵なんだろう。

 アルブの文化とは……やっぱりなんか違うぞ。

 アルブは特殊な魔物の皮を使ったり、魔術を使ったりして機能を高めた布や糸を多用するため、こんな風に――モコモコにならない。どちらかといえばボリュームの少ないシャープな印象のする服装が多用される。

 それに比べて……ああ……この二人のなんと愛くるしいシルエット――

 「こんにちは!」と元気に挨拶してきた。

 やっぱりカワイイ!!

 「こんにちは」

 エレオノールも思わず嬉しくなる。

 「あなたたち二人もとても可愛いな」

 正直にそう言うと、二人は顔を見合わせて嬉しそうに目配せしてからはにかんだ。「え、うそ?」「可愛いだって。ウフフ」「魔人様の奥様になった方ですよね」と二人で寄り添いながら訊いて来る。

 この年頃の女の子特有の、仲の良い二人組の仕草がほほえましい。

 「はい。エレオノール・ロームです。以後よろしくお願いいたします」

 「白銀色の髪と碧い瞳がとても美しい女性だ、って。ちょうどさっき訊いてたんだけど、本当にきれいですね」

 栗色の子が言うと、赤い子が続けて

 「ほんとほんと!ねー、会えてよかった」といってから控えめな様子になって

 「あのう、長命種の方だとお伺いしてます……失礼じゃなければ……おいくつですか」

 おそるおそる訊いてくる。されど垣根がない。

 「失礼だなんて、そんなことはない」

 自分のことを知ってもらう必要があるだろう。

 「わたしは当年とって百三十二になる」

 「えー!!」

 二人とも一様に驚いて口々に「すごーい」「いーなー」「肌がつるつる」「いーなー」まくしたてるので、笑うしかなかった。

 「お前たちも綺麗になったよ、見違えるようだ」

 とノアが口をはさむと、二人は顔を見合わせて笑っていた。

 「ノアさんは変わりませんね」

 と赤髪の方が言った。

 



 二人と別れて早速ノアに宣言する。

 「ノア、わたしもあんな格好がしたい!!」

 言うと、ノアが意外そうに「気に入ったのか」と問いかけてきた。

 「すごく」

 エレオノールは、あの真っ黒くて、かつ色彩豊かな刺繍のスカートをふわりとなびかせてみたかった。

 「そうか」とノアはうれしそうに言った。

 「きっと似合うよ」


・・・


 湯屋の前だ。建物の間口が意外なほど広い。

 「へー、湯屋とは意外に大きいんだな」

 言うとノアがこちらを向いて

 「結構大切な社交の場なんだ、湯屋は」

 社交の場――か。アルブでもまあ、そうだったかもな。建物の戸を開けて中に入るノアの後ろをついて行くと、入ってすぐの天井は低くて暗がりだが、奥の広い空間に湯気が充満していた。

 「おお」中に入ってもなお大きな建物だ…感嘆の声が漏れた。

 木造の建物全体に湯気が充満していて、目隠しの衝立のむこうからしきりに話し声や水を打つ音が聞こえる。


 カーン――


 奥から木と木の打ち合う音が聞こえた。子どもたちの歓声が聞こえる。何やら活気があるな。

 屋根から採光された明かりが、もうもうとした湯気で乱反射している。

 「大人二人だ」ノアの声がする。

 「あいよ、ああ旦那。よく来だねぇ」

 「達者にしてたか」

 「達者も達者。だが腰だけがどうもねえ、いけねえんだ。そっちはお連れさんかい、ミカルから聞いてるよぉ」

 と愛想よく笑いかけてきた。

 「ああ、妻のエレオノールだ、以後よろしく頼む」

 「エレオノール・ロームです。よろしく」

 この村の者たちと接しているうちになんとなく距離が近くなってきた。

 なんだか肩の力が抜けてきた。

 「ん、よろしくねぃ。いやたまげた、本当に別嬪さんだ」

 と、番台がエレオノールを見ていった。


 「お姉さん、どこから来たの。美人だね!」


 ふいに奥にいた若い男から声がかかった。


 「僕、今から出るところだったんだけど、お姉さんが出るまで待っててもいいかな」


 上背のある精悍な若者。軽やかな笑みを浮かべてこちらをみている。無精ひげが野生的だ。

 「ノアさん。こんにちは」と、忘れずノアにも気前よく挨拶をする。

 「スコットか、元気にしてたか。相変らずだな」

 と、ノアは笑っている。

 「このお姉さんは、もしかしてノアさんのお連れさん?」

 番台が割って入る。

 「スコット――やめとけ。聞こえでなかったのか。ノアさんの伴侶となった方だ」

 ノアは苦笑いしている。

 「あら」

 若者――スコットは、一瞬動きをとめてエレオノールをみてから「失礼」といいノアに向かう。

 「さすがですね、ノアさん。この方がノアさんの伴侶となられたことで、村の宝物が一つ増えました」

 言われてノアは吹きだす。

 「お前――相変わらず調子いいな」

 当のスコットはハハハと笑って「僕は二階にいますから、よければ後で一杯」

 そう言って、階段をあがっていった。

 「この上は何になっているんだ」

 「ん?ああ、休憩スペースだ。酒やちょっとしたつまみもあるし、ボードゲームを貸し出していたりする。ゆっくり過ごして、火照った身体を冷ますのさ」

 「ほほお。なんか」

 とても――

 「楽しいな」

 「ん。良かった」


・・・


 「あっちが女性の棚だ」

 見ると、木製の大きな棚にかごが整然と並んでいる。

 「ぬいだ服をあいているかごに入れて、持ってきた手桶と手ぬぐいをもってきな」

 といっておもむろに靴を脱ぎ、備え付けの棚にしまって、ノアは男性側と思しき方にスタスタと歩いていってしまった。


 ――脱衣スペースは番頭からよく見えるようになっている。盗り物を抑止しているのだろう。

 女性側のスペースでは老婆が腰かけて服を着ている最中だった。

 エレオノールもノアの真似をしてブーツを脱いで、脱衣スペースに上がった。

 「こんにちは」

 「はいよ。あらあんた、どこさから来だの。珍しい髪の色だねぇ」

 「そうなんですか?」

 応えながら、手荷物を置いて服を脱ぎはじめる。

 「きれいな白銀色だ。見たことないよ。あんた妖精かい」

 苦笑いしてしまう。ノアの冗談だとばかり思っていたが、流行ってるのかも。

 「あの、北のほうから来ました――」

 「北かい。北っていっても、ここから北へは何もないよ。ノア様の屋敷があるだけだ」

 「はい。あの、そこから」

 応えると「あらそうなのかい――」という。


 服を脱いで一糸まとわぬ姿に手ぬぐいと桶をかかえる。さすがに番台が気になってそちらの方をちらりと盗み見た。

 裸の婦人が何人もいるからいいものの、一人だったら何も脱げやしなかったろう……

 番台はこの湯屋全体を、見るともなく見ているようだった。

 衝立を抜けた。

 なんというか――これは違う意味で寒い。スースーする。

 異文化に触れるというのは、こういう無防備で心許ない気持ちになることもあるんだな――


 エレオノールが立った木製の床は前方に傾斜していた。

 底に溝があるから、湯があそこに向かって流れて、溝から排水していくのだろう。ほかの客が思い思いの場所に腰かけて、手ぬぐいで熱心に背中や足を磨いていた。

 

 「おお、本当に混浴だ」思わずつぶやいてしまった。

 老婆、壮年、青年、子連れ、男性、女性、子供……

 あんまりこっちを見てこないな。

 一人で黙々と身体を洗っている者――

 連れ合いとぺちゃくちゃしゃべっている者――

 母と子――

 子供も結構多い。何やら元気にじゃれ合っている。

 床は年季を感じさせる踏みごこちだ。

 ノアと合流すると「滑らないようにな、気をつけろ」という。

 「なんか、すごいな」

 「んー、なにがすごいんだ」

 「今からどうすればいいか、まるで分からん」

 「まあ、難しいことはない。あそこから手桶に湯をもらってきて身体を流すんだ」

 見ると、大きな石造りの水槽から湯気が立っていて、すぐ隣に小さな椅子が整然と積み上げられている。


 湯気が天井からの光を受けて妙に美しい。


 ノアが顎に手を当てて、エレオノールの身体をしげしげと見つめる。

 「なんだ、どうした」

 「本当にいい女だな」

 そういう――

 「……今、そういうことを言うな。ここはそういう意識をしない空間じゃないのか!?」

 抗議すると、ノアはふふふと笑って「そうだが、これくらいの軽口は言われるぞ」と言う。

 「ええ。なんて返せばいいんだ」

 「気に留めず礼でも言っとけ」

 ノアは、なおも楽しそうにそう言った。

 早速湯をもらいに行くと、ノアが手桶に湯を汲んで直接体にかけていた。

 エレオノールも真似をしてみる。温かくて心地よい。そもそも、この空間は温かい湯気が満ちていて心地良い。


 実にいろいろな人に声をかけられた。

 

 「やあ、別嬪だね」

 「ああ、ありがと」

 壮年の男性。ノアに言われた通り返事すると、満足そうにうなづいてそのまま力強い足取りで奥に歩いていく。

 「お姉ちゃん、きれいだね」

 「ああ、ありがとな」

 小さな男の子。見ると母親が軽く会釈をしてきた。

 「どこから来たの」

 とてもかわいい。


 「ノアさんの奥さんなんですか?」

 今度は……花盛りのうら若い乙女じゃないか――

 ノアを見ると、平然と受け答えしている。

 「ものすごい美人ですね」

 若い男からも声がかかる。

 「ああ、ありがとう」

 この受け答えで良いのだろうか。いくら何でも通り一遍当すぎないだろうか。

 なんとなく人が集まってきた。物珍しいのだろう。

 「エル……モテているな」ノアが笑って言った。

 なんだか、あたまが混乱してきた…。

 「さあて、身体が流せたら湯船に行ってみるか」

 二人に構わずみな、めいめいにおしゃべりしている。

 「湯船?どこだ」

 椅子を戻して、手ぬぐいをすすぎながらノアにたずねる。

 「奥の、あそこにすき間があるだろう。あの下をくぐって中に入っていくんだ。中に浴槽がある。身体を洗ったものしか入れないんだ。そこで湯に浸かる。温まってからあがるんだ」

 「ほう」

 あの低い入口をくぐって入るのか。なんか面白いな。

 「中はどうなっているんだ」

 「浴槽があるが、明かりがない。蒸し風呂みたいに湯気でなんにも見えないから声をかけながら入る」

 「ほほう」

 ――面白いな。


 森の外は。

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