ノアとエレオノール_出会い②
一体どれくらい眠っていただろうか。夢うつつに、見ず知らずの小屋の主である男に看病されていたのを覚えている。
いくら何でも見ず知らずの男にいきなり全て委ねてしまうほど、エレオノールは愚かじゃない。
警戒心はあった。ただあまりに苦しかったのだ。エレオノールは自己防衛の意思を保てなかった。
どのみちダメでもともと。野垂れ死ぬより、今ベットの中で介抱されていることに感謝するほかない。それにしても苦しかった。呼吸をするのももどかしく、まるで肉体をぬぎ去ってしまいたいような衝動に駆られさえした。
別にそれでも良い、と何度思ったことだろう。
…ぅぅううううう
看病されている中で、自分が苦痛のあまり重低音のうなり声を上げていたのも覚えている。もしかしたら、朦朧とした意識の中で身もだえて、多少暴れたかもしれない。
それが男には奇異に映るだろう、とぼんやり感じる程度の理性はあったが、それを制御する余裕はなかった。見る限り男はそうした気遣いを必要としている様子もなく、安堵した覚えがある。とくにエレオノールの態度に頓着している様子も見られなかった。
終始落ち着いていて、――親切だった。
――厠に付き添ってもらった。
「申し訳ないが…用を足したい」
かすれる声をふりしぼって、男の気配がする方へ声をかける。
厠がこの小屋付近にあるのか…もしかしたら、外へ出てどこへなりとしてくればいい、と言われるかもしれない。
別に外で用を足すこと自体は問題じゃない。ただエレオノールは自分の足で立てる気がしなかったのだ。用を足すのに手を借りることについて恥を感じる気持ちもある。が、借りた寝具で粗相をしないことの方がよほど重要だ。
声が届いたのか、ベッドの足元の方で男の立ちあがる気配。
「起きあがれるか?」
「……」
無言で首を横にふって応えた。ふりながら、この仕草が「出来ない」の意であると伝わるかどうか不安になる。文化圏の違いが気になる。
「そうか……」
と、男は掛布をはいでエレオノールの細い腰に手を差し入れ、軽々と身体を抱きかかえて起こしてくれた。
ふらつく身体を支えてもらいながら、男の用意した履き物に足を差し入れる。それでようやく立ちあがった。男がベットの横の壁にかけてあったブランケットをとってエレオノールの肩にかける。
「……すまない」
寝具から出ると、外気が冷たく感じた。寒い。おっくうであまり言葉を口にしたくなかった。
二つ驚いたことがある。
まずこの小屋は厠が屋内でつながっている。簡素な作りの小屋だと思いこんで、てっきり外にあるかと思っていた。勝手口だと思っていた戸は厠への入り口だった。
五段程度の階段をのぼって再び戸をあけたところが厠だった。
なぜ母屋に対して高低差がある構造なのはよく分からないが。とにかく寒空の下に出なくて済むと分かりほっとした。
厠は清潔だった。
そしてこれも驚いたのだが、座って用が足せるようになっていた。陶製の座椅子がおいてあり、椅子の蓋を開けると、屋外の光が底の方に差し込んでいるのが見えた。
「足元に柔らかく揉んだ葉がある」
と残して、男は厠の戸を閉めた。見ると固い紙で出来た箱の中に、木の葉がきれいに積み重ねられている。ずいぶんマメだ。後始末に使えばいいのだろう。
男が階段を降りて居間にいったのが気配で分かった。
一人きりになって用を足す。落ちた思考力で、自分の置かれた状況について考えてみる。改めて、かなり綱渡り、かなり危ない状況だと思うが――
力が入らずその場で前屈して、そのまま突っ伏してしまった。
起きあがれそうもない。
狭い空間に自分の荒い息がこだましているのを、聞くともなく聞いた。
――寒い。
しばらくすると男がふたたび来て、戸をノックした。
「大丈夫か?」
「…けて」声にならない。
再びノック音。
「…大丈夫か?」
「助けてくれ…」肚から声を出して、ようやくまとまった声になった。
エレオノールは自分があられもない姿だと了解している。
しかし――いかんともしがたかったのだ。
男が慌てて戸をあける。
すると弱った女がズボンと下着をさげたまま、だらしなく突っ伏しているのが目に入るのだろう。
そうだ。どうしようもない。
丁寧に柔らかく揉んだ葉が視界のすぐ横にある。
むなしかった。なにしろそれを使う気力すら湧かないのだ。
何より寒かった。
「悪かった、もっと気を遣うべきだった」
そういって男はゆっくりとエレオノールの上体を起こした。
「後始末はできたのか?」葉の方を見やって聞く。
力なく首を横にふった。
「悪く思わないでくれ」
ああこの男、わたしの下の処理をする気だ。
そんなことってあるか(しかしほかにやりようがあるか。ここでいまさら恥じらいを主張して、ベッドの中でしめった下着にばつの悪い思いをするのはいったい誰だ?)
肉体的に成熟してからそこを人に触られたのは初めてだったが、こんな状況で「悪く思う」も何もない。ふたたび首を横に振る。かえってこちらが申し訳なかった。
男はエレオノールの間に丁寧に手を差し込み、優しくぬぐった。正面にしゃがみこんで、下着を上にあげる。座ったまま腰をわずかに浮かすと、すばやく下着を履かされる。同様にズボンをあげられ、上衣の裾を全部しまわれた。
再び付き添われてベットにもどる。暖炉の前に古めかしいロッキングチェアがおいてあり、座面に黒い装丁の分厚い本が伏せてあった。
こんな立地に棲んでいる若い男に文字が読めるものだろうか……?
違和感。
よくよく見ればかなり大きな本棚に、書物が整然と並べられているのも目にはいる。昨日は死角になっていて気がつかなかった。
若いのに……?
自分と同様に種族柄若く見えるだけかもしれない。
もう少し元気になったら聞いてみようと思った。
憔悴しきって満足に力が入らなかった。食事も助けてもらう。
ベットに背をもたせかけるときは体を支えてもらい、匙で物を食べさせてもらった。暖かいスープと炒って塩をふった木の実を少しだけ食べた。
冷たい水がやけに甘く感じた。
なにか入れたか聞くと、男は「いや……何も」と応えた。
「この土地と合っているんじゃないか?」
そうかもしれない。わからない。
それから数日間、エレオノールは用を足している間じゅう上体を支えてもらわねばならなかった。さすがに恥ずかしかった。
しかし男が有無を言わさず上体を抱いてくるので観念した。
どのみち、だ。
そうしてもらわなければうまくできなかったのだ。なにしろ足元に置いてある葉を手にとることすら叶わないのだから。
肩を抱いてもらい、男に力なくしがみつきながら用を足すよりほかなかった。葉をとってもらい、エレオノールがうまくできないと分かると、次から男が最初と同じに優しく拭ってくれた。
数日続いた。
しかし今、ずいぶん楽になった。身体に力が戻りはじめている。
エレオノールがここ数日のことを思い出していると、炊事をしていた男が手をとめて枕元にきた。 そのまなざしに安心感を覚えるようになっている。
額に手を当てる。
「熱が下がってきたな」
どうやらそのようだった。
下着どころか身にまとっているもの全てが、汗でぐっしょりと重たく、極めて不快だ。
「着替えるか。荷物を持ってくるよ」
――よく気がつく男だ。
外套かけの足元に置いてあった彼女の荷物を持ってきてくれる。
エレオノールはまず礼を言った。
「……すまない、命を助けられた、感謝している……もしあなたに介抱してもらっていなかったら、助からなかった」
「いや、いいんだ。そんなに……かしこまらないでくれよ」
「何から何までありがとう」
男は無言のまま持ってきた彼女の荷物をベッドの枕元に置いた。
まだ何かするようだ。見ていると、部屋のすみから蔓であんだかごを持ってきて、ベッドわきのに置いた。
「着替えた衣類を入れておくのに使ってくれ。これから熱が下がってくるから、とりかえる頻度も上がるだろう。着替えは十分あるか?もしも必要なら、とりかえた衣類を洗濯する。どうする?」
異性に衣類、特に自分の下着を洗ってもらうことに抵抗がないわけない。逡巡したが、恥じる気持ちはもういいだろう。
どのみち、だ。
「お願い…する」
「ん」と軽い返事をして台所の方に向かった男に、ベッドの中から声をかけた。
「あの――」
男が振り向く。
「まだ名のっていなかったと思って。――エレオノール。わたしはエレオノール・シェーンベリだ。よければ名前を教えてくれないか」
そういうと、男の表情がぱっと輝いた。
「俺はノア。ノア・ロームだ。……ゆっくりしてってくれ。ずっといてもいい。ここに滞在する人はいない。エレオノール、来てくれて嬉しいよ」
そう言って彼ははにかんで「ほんとに」と小さく呟いた。
「エルでいい」
初めて彼の笑顔を見て、背筋に張りつめていた緊張が切れた気がした。
歓迎されているのが――思いのほか嬉しかった。
本当にずっといてもいいかもしれないと脳裏よぎる。
もしも許されるのなら。
「じゃあ命を狙われて、追われて森を出たということか」
深刻そうな声音でノアは言った。
「まあ、な。そうだ」
それから数日後の夜、初めて暖炉の前で座って話をした。どうして自分が森を出ることになったのか核心を伏せて簡単に話した。
エレオノールは二人掛けのソファにひとりで腰かけている。
ノアは火の前で、魚が焼けるのを注意深く見守っている。
エレオノールはノアによそってもらったスープを足の間において、じんわりと自分の太ももと手が温まるのを感じていた。
核心を話す覚悟はまだなかった。
ノアはそれきり黙り込んでしまった。
話すことがなくなり、手元のスープをつつく。
見かけない黒いきのこが入っている。食べるとなかなか濃厚な味わいで、しかも良い香りがする。
彼の料理はいちいち凝っていて旨い。
焼いている魚は近所で釣ってきたという。
ノアが言うには、小屋の裏手にクリークがあって「魚も釣れるし水もうまい、エルもほめていた水だ」そうだ。日中、急に出かけたと思ったら、夕方になって魚を釣って帰ってきたのだ。
ノアがいなくなった時、初めて外に出てみた。
彼がいなくなってから、なんとなく所在なげな気分になり、つい外に出てみたのだ。風が強かった。遮るものがないせいだろう、気団が直接ぶつかってくるような風の強さを感じる。
森の生活では感じなかったな。
エレオノールは思う。
ちょうど山に夕日が沈んでいくところだった。たなびいた雲がこちらに向かって大胆に広がって、夕日の反射で深紅に染め上げられている。遠くの山は深い藍色に沈み、目の前に広がる荒野の陰影も神秘的だ。
見事な景色だと思った。
ノアはどこだろう。見事な夕日だ。
そんな風に待ちぼうけて玄関の前で立っていたエレオノールに、帰ってきたノアが急に声をかけた。
「エル、焼魚は好きか」
「うわ、びっくりした」
びくりと反応したエレオノールに向けてノアは魚籠を持ちあげて見せた。破顔した表情が印象的だ。ははは、と嬉しそうである。
「好きだよ」と質問に応える「それよりノア、夕日がすごいな」
「ああ、今日は見事だね」
「いつもこんなにきれいなのか?」
「いや、たまにこんなにまっ赤になることはあるけど…珍しいな。今日は特にきれいだ」
そう言って、ノアは手に腰をあてて目をほそめ、沈む夕日の方を見た。
「外に出られるほど元気になったんだな」
「ああ、ノアのおかげだ」
そういうと、彼の口角が少し上がる。
「じゃあ、明日は風呂に入るか」
「風呂か」
「ああ、身体をお湯で清めるのさ」
「お湯で?なんだそれ」
聞くと、ノアはふふふと笑って「まあ明日のお楽しみだ」と言った。
「風呂は、気持ちいいよ…」
そうして二人で夕焼けをながめて、小屋に入ったのだ。
エレオノールが自分の話をしてからずっと、ノアは沈黙したまま暖炉の火で焼ける魚の面倒を見ている。
スープはおいしかったので平らげてしまった。
薪がバチッと音を立てて火の粉を上げた。エレオノールは沈黙する彼の背中を見ていた。何かまずいことを言っただろうか。
もしかしたら、追手による身の危険を案じているのだろうか。
そんなことを勘ぐっているとノアが唐突に「エル、酒……飲むか?」とたずねてきた。
酒は嫌いじゃない。
「あるのか」
「ああ、好きか?」
「嫌いじゃない」
応えると、じゃあちょっと待ってろと言ってノアは戸棚の方に歩いていく。
――病み上がりの気付けだ。
などと呟いていた。
ガチャガチャと何かしら引っ張りだしている。すぐに酒の入った瓶と透明な器と水差しをトレーに乗せて戻ってきた。
炒った木の実と干した肉も添えてある。
「故郷では、どんな時に飲むんだ」
聞きながらノアが、ペクペクペクと軽妙な音を立てて酒をグラスに注いでくれる。
エレオノールが見たことのない酒だった。
手渡されたグラスには、琥珀色のなんとも言えない液体が入っている。暖炉の火に照らしだされて赤銅色に染まって、えもいわれぬ美しさだ。
「祭事、とくに腹を割って話すときか」と、エレオノールは質問に答えた。
故郷では、酒は大切な儀式のときに用いられた。エレオノールが言うように季節の祭事や、取り決めごとについて話すときに呑む酒もあるし、収穫祭みたいに賑やかに呑む酒もある。
そのことよりもエレオノールは、ここに高級なガラス細工が三つもあることに驚いていた。
琥珀色のかぐわしい液体で満たされたグラスを手にとってしげしげと眺めていると
「酒が珍しいのか?」と、ノアに聞かれる。
「ガラスの器もな、故郷では貴人しか持っていなかった」
文化圏の差か。こちらではそんなに珍しくないのかもしれない。暖炉の火に映えて美しく輝いている。
「俺も酒を飲むときは腹を割って話すときだよ」
そう言って、ノアは酒をちびりと呑んで、グラスの中の香りをきいている。仕草を真似してみると、甘く芳醇だ。
「こんな酒は初めてだ、なんとも言えない……いい匂いだな」
言ってから、ちびりと舐める。
かぐわしく――そしてエレオノールには少々強かった。
「うわ、強いな」
そう言うとノアが「水で割るか?」と、手元のトレーから水差しをとって、こちらに差し向けた。グラスに水を満たしてくれる。
再び口に含むと、清冽な冷たさの中に華やかな香り広がり、鼻に抜けていく。
「――おいしい」
思わず頬が緩んだ「これはいいな」
ノアの表情が一瞬止まった。
「良かった」そう言ってくるりと背を向けて、また暖炉で香ばしく焼けている魚と格闘を始めた。
酒はとても美味だった。
「このソースはどうやって使うんだ?」
干し肉が盛られた皿に、緑色のペーストがこんもりとぬりつけられている。
「肉に添えて。口にあうといいけど……」
言われた通りにしてみると、柑橘類の爽快な香りと辛みがおりなされ、絶妙の塩気がたまらない。
頬張りながらノアの方を見て「んー」とうなると、彼が振り向く。「おいしい」と目で訴えると、ノアは満足げに笑った。
家は暖かく、ソファは柔らかく、食器は美しく、彼は優しい。
「その魚はいつ焼けるんだ」
干し肉を飲み下して聞いてみる。
「小骨までしっかり火を通して、まるごと食べられるようにしてるんだ。時間がかかる。もう一杯、エルが飲み終わるころには焼けるよ、多分」
と背中越しに応えた。
彼は彼で、さっきから床に置いてあるトレーからグラスを時おり手にとってあおっている。木の実をつまみながら魚の刺さった串を見つめている。
「じゃあ、おかわり」
と彼の方にグラスをさし出した。彼は振り返ってそれを受け取り、水割りを作ってふたたびエレオノールの手に戻した。
エレオノールは酔っている。
酔っているからこそ、自分が心のままにふるまっていると分かる。ベットに横たわっている時には、輪郭をとらえられなかった感情。
――わたしはノアに甘えているようだ。
どうやら。