ノアとエレオノール_広がる世界⑥
エレオノールはどうやらタリオの滞在を楽しんでいる。
ノアの目にはそううつったし、内心胸をなでおろしていた。
彼女は買い物を楽しみ、新たな食文化を楽しみ、人との交流を楽しんでいる。ノアはその様子を目の当たりにして喜ばしい気持ちになったが、それより安堵が大きかった。エレオノールが見せる笑顔や感動の表情を見るたびに、どこかほっとしたのだ。
ノアは故郷をとびだしたという彼女の境遇に同情していた。慰める意味においても、自分の妻となったエレオノールを喜ばせたかった。
自分にそれが出来ているかどうか、このひと月というもの彼女の一挙手一投足を見ていたが、なんのことはない、こっちが心配するまでもなく彼女は天真爛漫に市場を楽しみ、人と会話をして、くるくると表情を変えている。命からがら故郷から逃げてきたとは思えないような無邪気さだ。
無暗に同情するのは、おかどちがいかもしれない。
華奢で繊細な見た目に反してタフで、根がしっかりとしている。まあ人間七十を過ぎたら、ある程度安定してくるものだし、エレオノールもまたそうだ、ということなのかもしれない。
それでいて生娘を相手にしているような気分にさせられることもある。
だから分からないのだ。全部含めて彼女の魅力ということだろう。
「ふう」
ため息をついた。夕飯前、宿にひとり。
エレオノールは湯屋に行っている。市の人出で混むから、湯屋に行くなら明るいうちがいいとすすめた。まさかいきなり一人で行くと言い出すとは思わなかった。エルはあれで妙に自立しているんだよな――まあ、大丈夫だろう。精霊召喚が出来るのであれば、エルのことをどうにか出来るような猛者はこの国におそらくいまい。彼女の中にはそういう現実的な打算と心の余裕があるのかもしれない。
妻の身を案じる自分。よく慣れた、しかし懐かしい心境におちいっている。
ノアは考える。
おれは、本当にまた結婚したんだ……二度としないだろうと思っていた。
ノアは直感に導かれて求婚した。
エレオノールは一緒にいて気持ちが良い。素直で前向きなだけでなく、ひょうきんで面白い。
直感、導き、そうするよりほかなかったという実感……大いなる流れの中にとっぷり呑みこまれる感覚。
実感として時おりそういった急流に呑まれる。抗ってみるよりは、乗りこなす方が良い。うまく立ち回れればなお上々。注意点は三つ。
第一に肩の力を抜くこと。
第二に分からないことは気にしない。
第三に、直感こそが数少ない<分かること>であり、あてにすべきこと。
――ノアは考える――
エルは故郷に気持ちを残してこなかったのだろうか。見ている限りは未練がないように見える。彼女は今、まだ新しいことに夢中で楽しんでいる様子だ。
でも。
仮に気持ちを残してこなかったとして、今後アルブと何もなしで済むのだろうか。否。ノアには予感がある。いつかエレオノールは故郷と決着をつけなければいけないという、獏たる予感。東方大陸でなにもかも失った自分と違って、エレオノールは重要な立場を残したまま出奔したという。人と人の縁は、そう簡単に切れるものじゃない。相手に思いがあってもなくても、意外なところでつながり続けるものだ。
自分とて――
……息子がいることをエレオノールに告げる機会がなかなかないのだ。
とにかくエレオノールは追われる身であることに変わりない。それはつまり――ある日ふらりとエレオノールの始末を命じられたアルブの追手が、地平のむこうから現れたとしてもおかしくない、ということだ。その時が来ればノアだってやることをやるつもりである。
アルブの戦闘とはどんなものだろうか。一度エレオノールと打ち合わせておいてもいいかも知れない……
思考はたゆたう。
南方大陸で流れ者をしている時に出来た息子のことを思った。なにもエルに対して隠しだてしているつもりもないのだが……現状の生活にあいつが関わってくることはないので、エルに告げる機会がなかった。しかし、機会があれば迷わずいうべきだろうと思っている。
息子――エドヴァルド――は、とっくに自立している。自立なんてもんじゃない。炎獄なんて立派な二つ名までついているようだし(たしか)もう三百歳を超えている。自立した男同士というのは、そんなに関わり合いになることもない。親父と息子なんてどこもこんなものだろう。さりとてつながりはつながり、二百年はあっていなくても息子は息子。
日暮れ時、次第に部屋が暗くなってきた。獣脂ろうそくに火を灯すためにノアは立ちあがった。すえた匂い、しかし妙にクセになる。
エドに手紙でエルのことを教えるか。
――いや、いいか。
父親が新しい女をつくったなんてな。わざわざ知らされても、エドも困るだろう。それに――思い当たることがある――アルブとラトランド大公国の間に因縁があるのなら、そのうちエレオノールのことをエドヴァルドに紹介する時がくるかもしれない。
あーあ。いったいどの面をさげて息子より若い女を娶ったと言えばいいのか……
「ふう……」
乾いたため息が一つ、獣脂蝋燭のやわらかい光の中に落ちて消えて言った。
ノアが思考をめぐらせていると、カチャリと部屋の戸が開いてエレオノールが帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
湯上りで頬を上気させている。
「一人の湯屋はどうだった」
「ふふふ、エールを一杯飲んだ」
上気しているのは湯のせいだけじゃないらしい。ご機嫌だな。
「おなかすいた」
甘えた調子。だんだんエレオノールの無防備な態度をみられるようになってきた。
「よし、夕食にしようか」
ノアが膝を打ってベッドから立ちあがると、エレオノールもおう、と返事をした。
・・・
翌朝、ノアと一緒に広場までいってミカルとおちあい、一緒に彼の納屋まで行った。ノアが以前に仕入れておいたナトロンをミカルから受け取るという。ガラス細工の原料だ。
ミカルの納屋は雑多なものであふれかえっていた。板張りの壁にかかった上着、麦藁帽子、縄、レーキ、鋤、鍬。立てかけられた鎌、布の束、地べたに積まれたわらの山……
エレオノールは農耕に慣れ親しんでいないため、ミカルの納屋の中にあるものの用途についていまいちぴんと来ない。
物珍しかったのでそのままきょろきょろと見まわしていた。
ミカルはワラの束に手を突っ込んで小包をとりだしながら言った。
「旦那にはいつもいつも苦労を掛けているなあって思ってんだ」
「お前、それ毎年言っているけど、そろそろやめろよ」
困り顔でノアは応える。
「いやあ、だあめだ。当たり前のことだと思っちゃよぐねえから」
話の流れが良くわかないエレオノールに、ミカルが説明してくれる。
ノアの作るグラスは透明度が高く、爪ではじくとキーンと高く澄んだ音がする。それはエレオノールも知っていることだった。
これが知る人ぞ知るタリオの工芸品として蒐集家に人気なのだそうだ。ときどきタリオからの献上品として領主に納めており、大変気に入られている。だから村ごとノーザンメイア伯爵家の覚えもめでたい。おかげで辺境の地にあっても街道の整備や、災害時のケアなど中央と変わらず気にかけてもらえるのだ。
「ありがたいことなんだ」
ミカルは実感のこもった調子で、丁寧に説明してくれた。それを聞いてノアがぼそりとつぶやく。
「まあ、隠居のてなぐさみだからあんまりあてにするんじゃないよ。本当は後継者育成をしないとかえって村のためにならないくらいなんだぞ……」
そう言って肩をすくめる。
「いやあ、わがってんだ。依存するのはいぐねえって。まあよ。旦那の器が無くちゃ、納めるもんが納まらねえってんじゃいぐねえけど……そうはならねえようにしてっから……一応」
と、ミカルも肩をすくめている。
「まあな」とノアは応えて、小包を受け取る。
「土魔術の部分がな……」
「ああ」
ミカルとノアは互いに呟きあった。二人のやりとりを聞きながらエレオノールは二つのことに気がついた。
一つ目は、この地で魔術を使えるものが少ないらしい、ということだ。アルブでも時おり魔術に適性のないものがいた。そのような者が冷遇されるようなことはなかったが、本人たちの胸のうちに秘めた思いはいかばかりだろうと、エレオノールは時々考えたものだ。決して侮蔑されないにしても、本人は歯がゆい思いを抱える日もあったろう、と。けれどこの土地では使えないのが当たり前らしい。ノアの生活もそうだが、この村に来てからというもの、生活様式の中に魔術が組み込まれている様子が見受けられない。アルブは魔術を使える者はいつでも使うので、日常生活でそれを目にすることは多かったのだ。もっともアルブでも各自扱える属性が異なるため、共通化された魔術は少なかったのだが。
もう一つは、魔術を使わない村の生活を、ノア自身が乱さないように意識しているようだ、ということだ。
そこは何かノアなりの美学のようなものがあるのかもしれない。
「奥さんはタリオの市で何か買ってもらえだか」
色々考えていると、ミカルがエレオノールに水を向けてきた。
「あ、はい。ええ。色々と」
あんまり自慢げにするのもどうかと思い、とっさの判断で控えめに答える。
「それは良がっだね」
と、ミカルは満面の笑みだ。あんまり打算的な受け答えをしなくても良いのかもしれない。
それからノアに向かって「にくいね、旦那。いまが一番良い時だからな」と、肘で小突く仕草をする。
「バカ言うな、長命種の新婚生活がお前のいう<いま>と同じにされてたまるか」
ノアが言い返すと、ミカルは「あは、そりゃそうか」と陽気に返事をした。
納屋の前でミカルと別れて、二人で村はずれの森も前まで歩いて来た。静かなくさむらだ。市のにぎわいがここまで聞こえてくる。しかし喧騒は遠く、小鳥のさえずりの方が大きく聞こえる。
「ここにあるのか」
グラスをつくる原料がとれるという。なんの変哲もないところに見える。
なんとなく地形がえぐれているのは、ノアが長年ここで鉱物を採ってきた名残なのだろう。
「ああ」と返事をしてノアは深呼吸をする。
「エル、精霊召喚する」
「え……いま!?」
あわてて聞き返す。
「ああ。精霊魔術を使うと楽なんだ」
「楽なんだ、って……」
いきなりだ。まるでアルブが日常生活で魔術を使うのと同じ調子じゃないか。
「そんなに軽々と使うのか」
「ん?そうだが」
……ノアがいうならそうなのだろう。精霊の召喚なんて奥の手中の奥の手だ。気力は使うし、気も遣う。エレオノールはそんなことなかったが、下手をすれば地形が変わるし大ごとになるのに……
エレオノールが目を白黒させてる間にも、ノアは魔力を練り上げているのが分かった。一見リラックスして普段通りだが、あっという間に膨大な魔力が目の前で練り上げられていくのが分かる。
圧縮された魔力がノアの前で臨界に達して、空間がゆがみ、ゆっくりと裂けて、別の空間があふれ出てきた。
表現のしようもない、目に見えぬ光があふれ出ている。
ノアの魔力で霊界がひらかれていた。
本当に喚ぶのか……ノアがおもむろに詠唱を始めるのを、エレオノールは横目で見ていた。
太古、天地二つに分たれて
なりゆき定まり 命うまれしとき
地の体に宿りて 蠢き 練られて かたまりし者
命うけとめ いだく者よ
生くるもの死すもの あまねくもの 通りみちとなりて 在るものよ
始まりにして 終着のものよ
畏れ多くも この地 この時 呼びかけに応えたもう
いでたもう
<土環 グラーニス>
エレオノールはノアの詠唱を耳にして、彼の中に宿る世界観を垣間見た。――そうか、ノアはそうとらえるんだな。彼女はそう思った。
詠唱は詠唱者の世界観の鏡だ。
それぞれ言葉がちがったり、表現がちがったりする。ノアの詠唱は、当然アルブのものと異なる。
けれど全て真実を表している。
精霊は真実にしか反応しないのだ。
当然エレオノールの口上とも違う。
ノアのごく個人的な世界観、もっとも秘された部分だ。それに触れることが出来てエレオノールは嬉しかった。
「うわ!」
唐突だった。
エレオノールの目の前に、自分の胸くらいの背丈の少年がいた。
少年は驚きの声をあげるエレオノールを意に介さず
「よう、ノア」
軽い調子でノアに声をかけている。ノアは片手を軽く上げて挨拶を返した。
その少年――精霊が改めてエレオノールに向き直って、エレオノールと同様の反応をした。
「うわっ!」
彼――無性なので語弊があるが――もまた、まったく同じに驚いたのだ。
「え?精霊……ん?アルブか」
グラーニスとよばれた少年の姿をした精霊は、明らかに動揺していた。
「ノアとアルブが何で一緒……いや、とにかく雷の気配がすごいな……」
と、無遠慮にエレオノールをじろじろ見ている。この精霊こそ、ものすごい気配を放っている。純粋な土の気配に呑みこまれてしまいそうだというのに……さすがに気配の純度が違う。
自分もこんな気配を放っているんだろうか。
いや、そんなはずはない。
肉体が邪魔をして精霊の気配は殺されているはずだ。しかしエレオノールの雷の気配が、精霊には分かるらしい。
エレオノールが反応に困っているとノアが
「妻だ。結婚した」
と、そっけなくグラーニスに紹介をした。
「え、ノア結婚したの。しかも受肉した精霊。いったいどんな子が生まれるんだ……」
「こんにちは、エレオノール・ロームです。以後よろしくお願い……精霊相手にいうのもなんなんだが……」
調子が狂う。
「あ……ああ。そうだね」グラーニスもたじろぎながらエレオノールに応える。
「エレオノール……ものすごい気配だ。精霊の名は?」
「カンナ」
真名を名のると、グラーニスはあんぐりと口をあけた。
「ノア……お前、雷公だぞ……雷公……」
言いながら、グラーニスは改めてエレオノールに正体した。
「聞いても無駄だと思うけど一体なぜ受肉した?」
「分からん」
グラーニスも精霊なら、エレオノールに精霊の記憶がないのは分かるはずだ。
「だよね」
グラーニスが肩をすくめると、ノアが口を開いた。
「まあ、精霊というよりおれの妻として接してやってくれないか。今は。とりあえず」
つとめてなんでもない調子を装っているのか、低体温にそう言った。
「ああ」と、エレオノールとグラーニスの返事がそろった。
「とりあえずそうするよ、驚いたけど……」
ぽつりとグラーニスが言った。
ノアがグラーニスと一緒にガラス細工をつくるところを、エレオノールは少し離れたくさむらに腰かけて見ていた。
これではタリオの名物になるわけだ。名物なんてものじゃない。
精霊魔術の結晶じゃないか。
ノアが魔術で石灰石を焼成して粉にしたり、鉱物から鉛を抽出したりするのを、グラーニスは魔力でサポートしていた。
土魔術で型をつくり、熱を生み出している。
当然ノアの膨大な魔力が刻一刻と消費されているのを感じたが、ノアはほぼ意に介していないと言っていい……
たぶん魔力総量のケタが違う……エレオノールは舌をまいていた。精霊召喚しておいて、まるで夕飯でも作るように魔術を駆使している。
二人――もとい、一人と一柱――は、不思議な感じだった。
まるで旧来の友人が再開して、一緒に何かをやっているような雰囲気だった。
アルブにおいて精霊召喚は奥の手、そう滅多に実行するものじゃない。
彼女が精霊――雷神ユピテール――を召喚するときは、全身緊張し、気をはって、万が一に備え、召喚しては気を遣い、丁重な言葉を使い、膨大な魔力の暴走を抑制し、目的を慎重に遂行し、最後は丁寧に霊界をとじる。
それに比べてノアと、このグラーニスという精霊はずいぶん親し気だ。まるで月に一回会って近況を報告し合うような調子で、軽口をたたきながらグラスを作っていた。
「ノア、それもうちょっと鉛多めでいいぞ」
「まだか…」
「そうそう、それぐらいはいるよ」
ノアが鉱石から抽出した鉛を、グラーニスのアドバイスに従いながら熱された赤いドロドロに足している。
「いけるか?」
「急冷しなきゃいけるさ。何でも急はよくない……と、ほら」
魔力で宙に浮かんだドロドロが見る間に美しい器に変わる。ノアがしきりに指を動かしているところを見ると、ノアの魔力操作のようだ。
集中しているのか、しばらく無言で作業している。
「ああ、本当だ、いけるな」
「だろ。急は良くないと言えばさ、――よっと――結婚はまた急だったな」
グラーニスがドロドロに熱を加えている。二人は雑談しながら次の器にとりかかっている。
「ああ」
「なんでだ」
「そりゃあ、俺のなかの内なる精霊の声をきいた結果さ」
「ああ、なるほど」
また一つ、宙にクリスタルガラスの美しい器が生まれている。
「いいもんだぞ、結婚」
「そうなのか……」
雑談しながらも、お互いに夢中でつくっている。
やはり――変だ。
ノアはグラーニスに対して、ミカルと同じくらいの距離感で会話しているようだった。アルブじゃありえない。もっと恭しくするものだからだ。
いいな――
しかし、エレオノールは図らずもそう思ったのだった。