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黄昏の精霊たち  作者: 松谷若草色
精霊の出奔と出会い
1/17

ノアとエレオノール_出会い①

 鼻先がヒヤリとした。


 上空を見あげると、全天が薄明るい雪雲(ゆきぐも)に覆われている。そういえば、先ほどから降雪していたようだ。

 「――雪」

 思い返せば断続的に顔にツンと冷たい感触があったか。

 意識にのぼっていなかった。

 しばし呆然としながらエレオノールは天を仰いだ。明るい空だった。薄いベールのむこうに陽の光が透けるように見える。

 彼女の目前には、見わたす限りの荒野――。

 「森を――抜けた?」

 いまいち実感がわかない。

 ためしに口の中でつぶやいてみた。もちろんそのつぶやきに応える者はいない。ここまでずっと一人で歩いてきたのだ。

 目を細める。

 遠くまで見渡すと、ところどころまばらな木々が見える。

 こんなに何もない景色。初めて見た……

 エレオノールは森からやってきた。

 その生涯は森で始まり、森で終わるはずだった。まさかその自分が森の果てに出ることになるとは想像だにしなかった。


 単独の逃避行がはじまってから、何か月も足元を見て歩いてきた。何しろマナハトウを出たのはまだ夏前だったのだ。

 延々と続く大森林を抜けるため、ひたすら南下してきた。

 目的地があるわけじゃない。大森林さえ抜ければそれで良かったし、もっとも抜けられるなんて信じていなかった。

 

 楽な道のりではなかった。

 魔物に囲まれて追い回されるたびに戦った。

 ぬかるみが続けば、木々の枝を伝って進んだ。

 迂回不可能なほど広大な範囲にひろがる崖を降りたこともある。

 

 そして今、それと気づかぬうちに森の終点にいたのだ。よくよく思いだしてみれば、ずいぶん前から木々がまばらになっていた。

 ような気がする。


 足元も腐葉土(ふようど)やシダから、背丈の低い白茶けた枯草になっていた。

 そのせいで森を出てからもしばらく白い雪に気がつかなかったのだ。


 そのことを考えていた。

 疲れすぎている。よく無事でここまで来たものだ。

 はっきりとしない思考の中で一歩、また一歩と歩みを重ねるだけの日々。いまでは自身がどれくらい疲れているのかすら分からない。

 分かるのはたった二つ。

 ひとつはただとにかく疲労困憊しているということ。もうひとつはいつも体のあちこちが痛いということ。 

 とにかく、どうやら自分はやりおおせたようだ。

 「なんとか――抜けれた」

 大森林を。

 冬がくる前に。


 ここまでくれば、自分の命を脅かすものはないだろう。眼前に広がる広大な大地の起伏。薄いベールのような雲から射す、かすかな光。その隙間をぬうように、舞いおりる雪。

 美しい。

 まるでここまで歩いてきたことを祝福しているかのよう。一番つらいところ抜けたのだ、とエレオノールは直感した。

 

 ――っは


 一つ息を吐く。

 伝え聞くところによれば、このまま南下すると人里があるらしい。人間界と大森林の辺境の地だ。 あるいはそこに居場所を見つけることもできるだろう……そんな望みをよすがにここまで歩いてきた。本当にたどり着いてしまって、かえって途方に暮れている。

 

 ――これからどうしよう。どうにかなるものだろうか。


 風がないのが幸いだが、しんしんと雪が降っていることには変わりない。底冷えがはじまる前に何とかしなければ。いっそ森林地帯にもどってしまおうか…

 いけない。

 前を向いて歩かなければ……

 まだ太陽は真南(まみなみ)を少し過ぎたばかりだ。とにかくずっと向こうの最初の木々のところまで歩こう。そうして野宿にしよう……それで今日は休もう。きっと明るいうちにたどり着けるはずだ。 

 枯草(かれくさ)を刈って地面に敷き詰めれば、あるいは大地の底冷えをいくらか防げる。マントにくるまれば何とか――


 自分の体力がどこまで持つだろうか。


 エレオノールはそう思った。まだ、雪の野宿はしたことがない。この雪は積もるだろうか。

 ……積もったら命に関わるかもれない。

 けれど…ダメでもともとだ。




 黙々と歩いた。

 どうにかなる、ダメでもともと、どうにかなる、ダメでもともと…





 視界を(さえぎ)るものがない。

 遠方から足の速い魔物に発見され、そのまま囲まれたらどうしようか。常にうなじに緊張が張りつめる。

 心許ないからか、思いのほか警戒心がエレオノールの体力を奪った。

 決して腕に覚えがないわけじゃない。けれど草原の魔物に対峙した時どうすればいい……?

 仮に魔物をどうにかする体力が残っていたとしよう。

 果たしてそのあと歩く気力が残っているだろうか。


 そんなエレオノールの心配をよそに、あたり一帯ただほそい雪が静かに降る。積もるわけでもない。自分が枯草を踏みしめる音、鳥のさえずり以外は何も聞こえない。

 静かだった。

 目的の場所に近づくにつれて、そこに何かあるらしいというのが分かった。(いぶか)しく思いながら近づいていく。どうやら小屋だ。久々にみた人工物だった。

 激しい喜びとともに、エレオノールの中に入道雲のように警戒心がみるみる膨れ上がる。

 もっともな懸念。

 ――もしも害意のある人がいたら。


 ――どうしよう……素通りしようか……


 けれどこの距離で、すでに向こうがこちらに気づいている可能性がある。もしも害意があるならこちらから仕掛けたほうが……

 いやまて。

 わざわざこちらからリスクに飛び込んでいくことも……

 歩きながら葛藤しつつ、しばらく堂々巡りをした。その末に出した答えは「どのみち自分は体力的にもうダメだ、このまま雪の中で死んでしまうよりは」という、ややすてばちなものだった。

 とにかく小屋の戸を叩こうと決意した。

 普段の彼女なら絶対にとらない選択肢だが、体力と天候がそれを許さなかった。それがエレオノールの運命だった。


 近くに来ると、見るからに感じのいい小屋だった。いつ()き替えたのか分からない板葺(いたぶ)きの屋根は(こけ)むしている。しかし小屋自体は重そうな木で組まれて、ちょっとやそっとではびくともしないのが分かる。大森林地帯から切り出した木だろう。小さな窓がついているが、外からは中の様子はうかがえない。

 小屋の周辺は踏みしめられているせいか草は生えておらず、人が出入りしているのが分かる。冬の間に使うであろう薪が程度よく切りそろえられ、軒先に蓄えられていた。

 しばし逡巡した後、エレオノールは意を決して小屋の戸を叩いた。一晩泊めてもらい、この先の身の振り方の参考になるような情報を教えてもらえれば重畳(ちょうじょう)だ。

 コツコツと二つノックする。

 小屋の中で人の動く気配あり。硬く身がまえる。

 男が玄関先に立った。


 ――いい男。


 それが第一印象だった。

 人間の寿命はいまいちわからないが、年のころは二十代中盤くらいだろう。うしろで束ねた波打つ漆黒(しっこく)総髪(そうはつ)。そして、それよりもっと深く黒く輝く瞳。

 こんな立地なのに来訪者に慣れているのだろうか。必要最低限の警戒心だけ残して、脱力しているように見える。

 「どこから来たの、こんな雪の日に……」

 言葉がわかる、良かった。


 男は落ち着いた表情でこちらの視線を受けとめている。

 「こんにちは――旅のも…」

 声がかすれた。しゃべり続けて整うようなたぐいのかすれ方じゃない。

 慌てて咳払いをする。

 「旅の途中で――」

 やはりダメだ。男は肩ごしにエレオノールの背後を一瞬にらんだ。

 「もしかして――森からきた?」

 そう問われて反射的にうなずく。それをみて男は「そうか」と一言呟いて、エレオノールを家に招き入れた。

 なぜそうされたか、彼女には分からなかった。



 簡素な小屋の中は清潔で、暖かかった。

 太い梁には灰がまぶされた黒ずんだ干し肉と野草(やそう)が逆さにつるされて並び、火の入った暖炉の前に毛足の長い魔物のじゅうたんが敷かれている。

 暖炉の上に鍋が並んでいて、そこら中にかぐわしい匂いがたちこめていた。

 小屋の中のあらゆるものが使いこまれ、よく手入れされ、光沢をおびている。年季を感じる斧、外套、ブーツ、机、椅子、ベッド……

 

 「そこのベッド使っていいよ」

 ゆっくりとそう言われたが、何を言われているのか分からない。

 「楽な格好になってすぐ横になった方が良い。気兼ねしなくていい、とにかくそこにまず座って」

 言われて、やっと親切にされていると気がつく。

 「あの――」

 「いいよ、無理にしゃべらなくて」

 (せい)されるままに、エレオノールは口を閉じた。マントを脱ごうとすると、男はそれを預かってくれる。そのまま肩から荷物を外すとそれも手伝ってくれた。

 「座って待ってて」

 言われるままベッドに腰かけた。

 男がくるくると動くのを見ていた。

 外套かけにエレオノールのマントをかけると、部屋のすみにあった大きなたらいを出して、彼女が座ったベッドの足下に置いた。

 暖炉にあった大きなやかんから湯をたっぷり注ぎ込む。大きな水差しで、熱湯を少しずつうめる。もうもうと湯気を立てている中に、布をくぐらせてから固くしぼってエレオノールに渡してきた。

 「これで顔なり、身体なりふくと良い。ちょっとはさっぱりするよ」

 男に言われるまま、顔に温かいタオルを当てる。

 

 ――温かい。


 「それ脱いで、このたらいに足をつけて」

 

 言われるまま今度は靴を脱ぎ、冷えて固まった足を温かい湯につけた。

 男は伏し目がちにたらいの中をながめて、たまに冷めてしまった湯に熱湯を少しずつ注ぎ足した。

 根を張ったような疲労が、するすると足の指の間から抜けていくような気がした。身体があたたまって、やがて汗ばんできた。

 おもわず服の下にタオルを入れて身体をぬぐう。

 「最後にものを口にしたのはいつ?」

 「二日前……」

 かすれ声で応えるとわずかにうなずいて立ちあがり、鍋を椀によそって(さじ)を添えて戻ってきた。

 「少し腹に入れた方が良いよ……眠ってしまう前に」

 香草(こうそう)と肉のとろりとしたスープだ。具は少な目に盛ったのだろう。

 おそるおそるすすると味が濃く、滋養を感じる。温もりが臓腑に染みわたるようだった。鼻の奥がツンとして、あとからあとから涙が出てきた。

 

 男は何もいわず、靴を脱いで暖炉の前の絨毯でくつろいでいた。


 エレオノールはそのままベットに横たわって眠り、三日三晩高熱を出した。互いに名前も分からぬまま、男がエレオノールの看病をした。

 名前もまだ知らぬのに、男が小屋から出て行ってしまうと心細くなってしまう自分の心境になんと名前をつければいいか、エレオノールには分からなかった。

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