Ⅹ 師範
ロクサーヌが戻ってきたのは、五日後のことだった。どことなくむくれた様子で戻ってきた。
「お、お帰りなさい……」
アイシェが控えめに声をかけると、ロクサーヌは微笑んで「ただいま」と答えた。キッチンにいたエムレも戻ってきて「どうだった?」と声をかける。
「とりあえず、鏡については対処してくれるそうよ。あちらには専門家がいるもの。そうかからずに対処できるでしょう。屋敷の方も調べなおすらしいわ」
「……そうですか」
なんとなくほっとする。エムレがアイシェとロクサーヌに甘いミルクを出した。エムレも同じものを持ってテーブルに着く。
「あなたたちは? 大事なかった?」
「特には。庭の世話もしておいた」
「ああ、ありがとう」
エムレがそっけなく答える。アイシェも何もなかった、とうなずいたが、あ、と思い出して言った。
「そういえば、屋台に連れて行ってもらったんです。楽しかったです」
余計なことを言うなとばかりにエムレはアイシェをにらんだが、ロクサーヌはほほえましそうに「そう」とうなずいた。
「仲がいいわね」
「……悪くはない」
憮然として答えたエムレに、悪くはない、といえるくらいには打ち解けてこれたのだな、とアイシェは何やら感心した。
「……師匠はどうだったんだ? 珍しく機嫌が悪そうだが」
「ああ……そこ聞いちゃう?」
ロクサーヌが苦笑した。アイシェは怖くて聞けなかったのに、エムレ、さすがにすごい度胸だ、付き合いが長いだけある。
「やっぱり喧嘩になってしまったわ。わかってはいたのだけど」
あきれたようにロクサーヌはため息をついた。自分にあきれているのだろう。
「もう、師がどうこうというより、ただアンチテーゼを示しているだけのような気もするけど」
そう言ってロクサーヌはアイシェとエムレの頭を撫でた。
「聞いてくれてありがとう。ちょっと落ち着いたわ。私、あなたたちよりもうんと年上なのにねぇ」
頭を撫でられて、アイシェははにかんだ。エムレはあまり顔に出ないが、やはりうれしそうにしている。そう、うれしい。ロクサーヌに認められているようで。
この家に来客があったのは、それから十日後のことだった。アイシェは貸本屋で店番をしていた。ロクサーヌは薬を作っているし、エムレは庭の世話をしていた。
「いらっしゃいませー」
扉が開いた音がし、反射的に声を上げる。帝都のはずれにある貸本屋にしては、繁盛しているほうだと思う。少なくとも、一日十人くらいは人が来る。だから、アイシェも客だと疑わなかった。
「ああ、聞き覚えがある声だと思ったら、アイシェか。元気そうだな」
「……シナン先生」
アッシュブラウンの髪に青い瞳。端正な顔立ち。魔法学校の教諭であるシナンだった。顔を見るのは四か月ぶりである。
「なんで先生?」
「用があるからな。師はいるか?」
とりあえずアイシェの問いかけは置いておき、別の疑問にアイシェは首をかしげる。
「師って、ロクサーヌさんですよね」
「今はロクサーヌと名乗っているんだったな……ああ、その女性だな」
呼んできます、とその場を立ったアイシェは、やはりロクサーヌはいろいろと名前があるのだな、と思った。彼女が見かけよりも長く生きているのはわかっているし、住居を転々としていたこともわかっている。
アイシェは作業場に顔を出した。
「師匠、シナン先生が来てますけど」
「ええ?」
ロクサーヌは作業の手を止めた。怪訝そうに首をかしげる。
「あの子が? セレンのお使いかしら……」
校長に会うのは嫌そうだったが、シナンに会うことはそれほどいやではないらしい。すぐに出ていった。それにしても、シナンに対して「あの子」か。ロクサーヌは一体いくつなのだろう?
店を閉めてきて、と言われて、アイシェは貸本屋を閉めた。今に行くと、エムレがお茶を出していた。アイシェを見て彼は言う。
「シナンさんから菓子をいただいたが、お前も食べるか?」
「え、うん」
常にないふるまいをされ、戸惑うアイシェである。それから、ロクサーヌとシナンを二人きりにしたくないのだろうか、と思った。
もっとも、二人はアイシェとエムレが居座っても気にしないようだ。シナンが口を開く。
「校長から伝言を預かっている。例の秘宝は無事に見つけて、適切に処理した」
鏡に封じられた魔物を倒してしまったのだろう。学内であれば、それが可能そうな人物を何人か知っている。
「そう……ありがとう、と私が言うのも変な話だけど」
「本来であれば、俺たちが手を下すまでもない。師範なら造作もなく片付けられたはずのことだ」
じっとシナンがロクサーヌを見る。ロクサーヌが押し負けたように目を伏せた。
「魔法は使わない、と言ったわ」
「けれど、薬を作り、植物で結界を張っている。ラシードだっているだろう」
ちょうどラシードがあくびをした。アイシェはラシードを撫でる。サラサラの毛並みがよい。
「……いずれ、魔法がなくとも人々の生活が豊かになる日が来る。私には少し早く訪れただけよ」
「けれど、俺達にはあなたの力が必要だ」
「いくら魔法を駆使したとしても、得られるものなどない」
「六十年前のことを言っているのか」
アイシェはふと顔を上げてロクサーヌとシナンを見た。六十年前というと、例の戦争だろうか。宗教戦争として始まったそれは、政治的思惑が混じり、最終的に大々的な世界魔法戦争へと発展した。歴史の授業では習ったが、アイシェにとっては昔話の部類である。この二人は、当事者なのだろうか。アイシェはエムレと目を見合わせた。
しかし、だとしたら、ロクサーヌが半世紀近く魔法を使っていないという理由にも察しがつこうというものだ。彼女は魔法を大々的に使用した戦争で傷ついたのではないだろうか。
「いくら力があっても、助けられないものの方が多かった。確かに、魔法を使えば助けられるのに、と思うことはあるわよ。けれど、その結果があの戦争だったのではないかしら。魔法であれば、と敵も味方も考えた。そして私もよ」
ひょい、と膝に飛び乗ってきたラシードをロクサーヌは無意識のようになでる。
「私は自分の力を過信していたの。セレンの合理的さだけではない、私は、私自身にも腹が立ったわ。私は私自身が許せない。だから、魔法は使わない」
「師範」
シナンは言い募ろうとしたが、ロクサーヌは首を左右に振った。シナンはため息をつく。
「……まあ、元気に暮らしているようで、よかったと思っておく」
「そう」
「それに、ちゃんとアイシェの面倒は見ているようだしな」
突然名が出て、アイシェはびくっとした。ロクサーヌは宣言通り、魔法的なことは何も教えてくれなかった。それに納得してアイシェはここにいるのだし、不満に思ったことはない。魔眼については何とかしなければならないとはわかっているが。
「だいぶ魔眼が落ち着いてきたのではないか」
「……そういえば」
魔法学園にいる頃は魔眼が不安定であることを自覚できるほどだったのだが、言われてみれば最近は感じない。これは制御できるようになっている、ということなのだろうか。
「魔眼は持ち主の感情に揺さぶられるからな。それだけ、お前がここで落ち着いている、ということだ」
シナンに言われて、なるほど、とアイシェはうなずいた。学校ではいつもピリピリと緊張していた気がする。今はそんな必要はない。エムレとけんかはするが、それは生活レベルでの話で、本気でないことは二人ともよくわかっている。
楽しかった。ロクサーヌと、エムレと。三人で暮らすのは。本音を言えば、ロクサーヌに魔法を教えてほしい。けれど、それでこの生活が崩れるのなら、とも思う。
今なら、ここに来てよかった、と思える。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
戻ってきたロクサーヌ。彼女は自分の師と弟子に事後処理を押し付けてきました。
そして、親代わりだった師とけんかして帰ってきました。