代筆騒ぎ〜私と彼女と万年筆と〜
小説書いてたらいつの間にか最初の予定と違うものが出来てることって多いですよね。
気をつけてください、それ、スタンド攻撃受けてますよ。
パキリと割り箸が割れるような軽い音がして、
紙面に黒いインクがゆっくりと広がっていく。
咄嗟の出来事に思考が追い付かず、阿呆みたいな顔を晒して手元を見れば、
長年愛用してきた万年筆の筆先が欠けていた。
いくつだったかの誕生日に祖父から贈られ調子に乗って作家になって以来、
鳴かず飛ばずの時も、大繁盛の時もずっと一緒にやって来た愛筆とでも言うべき存在だが、
生憎特殊なペン先を使っているらしく、もう替えがきかないのだ。
つまり、随分唐突であっさりとした最期だった。
「畳の上で安らかに死ねば良いものを……」
どうにも実感が湧かなくて下らないことを口走っている間に、
インクは全て溢れ、机の上に真っ黒い湖が出来上がってしまっていた。
台無しになった数枚の原稿も気がかりと言えば気がかりなのだが、
それ以上に、あまりにも突然に喪われてしまった物の大きさに整理がつけられない。
何をすれば良いのかも分からず、何をしたい気分でもなく、
割れたペン先をバカのように眺め続け呆けていると、
玄関口の方から活発な女性の声が響く。
「先生ー!進捗はどうですかー!?ちゃんとご飯は食べてますかー?」
声の主は他人の家だと言うのにチャイムを押す事すらせず、
無理矢理私から押収した合鍵を持って不躾に家へと侵入し、
ズカズカと足音を隠すこともなく私の書斎へ徒歩を進めて来ている。
未だ、ぼんやりとして呆けていると、バタン!と蝶番が悲鳴をあげそうな勢いでドアが開かれる。
いや、微かな音がだバキ、と硬質な悲鳴が上がったのを私は聞き逃さなかった。
どうにも、足音を聞き取れたりと、音に敏感になっているらしい。
「先生、入りますよ!……って、うわぁ!なんですか、これ!」
部屋に入る時は返事を待つようにと、言ってる私の耳にすらタコが出来るほど繰り返しているのだが、
どうにも彼女には馬耳東風らしく、仕事場に乗り込んできた彼女は、
入ってくるなり机上の惨状に目を見張る。
「わあっ、わああああ!げ、原稿が!先生、何をぼうっとしてるんですか!早く原稿を避難させてください!」
彼女は私を押し退け、大慌てで机の上の原稿を避難させるが、もう遅い。
万年筆が壊れてもう軽く一時間は経っているのだ、とっくに原稿はただのゴミになってしまった。
彼女はすでに手遅れになったことを悟ったのか、真っ黒な原稿数枚を抱えて地面にへたり込む。
「あああ……。そ、そんな」
「締め切りまではまだ時間がある。書き直せば良い」
「なんで先生はそんなに平然としてるんですか!大事な原稿がぱあになっちゃったんですよ!?」
何故か私に憤慨しだす彼女は今にも地団駄を踏みそうな様子で私に詰め寄る。
その手に持った原稿から乾ききっていないインクが溢れ、床を汚した。
確かに平時なら頭を抱え、心底憂鬱な気分になっているだろうが、
しかし、今はそれ以上の衝撃に心が麻痺し、放心してしまっているのだ。
そんな状態では原稿ごとき紙切れに一々目くじらを立てろと言うのも無茶だろう。
いやさ、むしろこれは天啓とでも言うべきなのではないか。
作家を辞めることを筆を折ると言うのだから、実際に折れてしまった私は辞めるべきではないか。
言葉遊びとしてはそこそこ秀逸な諧謔だと思うし、仕事仲間の死はそれ相応の価値がある。
「馬鹿げている」
……どうやら、ここに来てようやく心が現実を受け入れ始めたらしい。
私は愚にも付かない妄想を切り捨て、目の前で未だに怒り続けている私の編集、
香坂くんを落ち着かせるため語りかける。
「……ペンが折れてしまった」
……落ち着くべきなのは私だった。
こうやって理性的に考えているのとは裏腹に、
私の動揺は爪先一つ分も抜けきっていないらしい。
案の定、香坂くんは目を点にして呆然としている。
「すまない、口が滑った。とにかく、原稿だな。任せてくれ、すぐに書き上げよう。
なに、二日三日夜なべをすればすぐに追いつき、追い越して見せるとも」
と、悪いことを忘れてしまおうと原稿を仕上げようと筆を持ち気付く。
そうだ。まさにその原稿を仕上げる相方が大往生したのだった。
呆然とする私を嘲笑うように限界を迎えた蝶番がバキン!と致命的な音を立てて壊れた。
心が折れる音というものが存在するのなら、きっとこの音だろうと思い、
噎せ返るインクの匂いに、私はその場に嘔吐した。
その後、突然吐き出した私を見て香坂くんは悲鳴をあげ、
あげながら私の世話と部屋の掃除を同時に行うという意外な能力の高さを見せつけてくれ、
今現在私は寝室で香坂くんの看病を受けながら休んでいる。
世間話をしようにも生憎世間の話に疎い私は、
つい先程の悲劇について彼女に説明をしていた。
一通り話を聴き終えた彼女は、何故か涙目、というか泣いていた。
「ううっ……。先生、お気の毒に……」
「なんで私が泣いていないのに、君が泣いているんだ……」
彼女がいわゆるB級映画でも号泣するほど涙もろいのは知っていたが、
流石に自分よりも激しい反応をされるとこちらの立つ瀬がなくなり困惑してしまう。
「だって、先生の半身、いや、むしろ嫁!みたいな存在だったんですよね?」
「嫁ではないな。それに半身といっても、所詮は物だ。いつかは壊れる」
途中の奇妙な発言を否定しつつ、言い訳じみた事を言う。
私自身が受け入れられるかとは別に、それはそういう定めなのだ。
諸行無常。盛者必衰。何事にも終わりは必ず訪れる。
しかし、彼女は首をブンブンと横に振りながら、それを否定する。
「そういう問題じゃありません!意地を張らないでください!」
そう言って彼女は私を叱りつける。
「先生はいつもそうなんですから!この間だって二日間何も食べてないのに、
平気だから、とか言ってその直後に倒れたりしてるのに!」
「それとこれとは関係ないだろう」
「いいえ、関係あります!そうやって、先生はいっつも子供みたいに意地を張って、
大体後で酷く悪化させるんです!ずっと見てきたから、断言できます!
これだって、そうです!物が壊れるのは当たり前でも、それを悲しむのだって当然です!」
まるで聞き分けのない子供に教えるように彼女は力説した。
「先生、本当にあの筆はその程度のものだったんですか?本当に悲しくはないんですか?」
彼女は優しく私に問いかける。
脳裏を今までの時間が過ぎる。
あちこちの出版社に応募しては落選し落ち込んでいた時、
初めて作品が世に出て大はしゃぎした時、
そして、大作が世間で認められた時。
いつも傍には必ずあの万年筆があった。
……あの筆は私にとって、大切な存在だったのだ。
私の様子が変わったのを理解したのか、香坂くんは微笑む。
私も、大切なことに気付かせてくれた彼女に微笑み返し、
改めて愛筆を喪ったストレスで、嘔吐した。
「信じられません、信じられません!に、二回も吐くなんて!信じられません!!」
信じられないと連呼しながら香坂くんが吐瀉物で汚れた布団やらを手早く始末している。
一度、いや二度吐いて楽になった私は、良いから休んでいてください!と鬼気迫る、
というか鬼そのものの形相で彼女に布団に押し込まれ、
彼女が私の恥ずかしいものを処理しているのを見せられている。
「香坂くん、あまりおおっぴらに広げないでくれ……流石に恥ずかしい」
「恥ずかしいって思うんなら吐かないでください!」
シーツを干しながら香坂くんがこちらを振り向いて怒鳴る。
洗濯が終わった彼女はこちらに戻ってきて、怒りを鎮めるように大きく息を吐くと、
いつもの活発そうな表情に(見かけは)戻った。
「それで、体調はどうですか?」
「ああ、吐いたからかな。だいぶ良くなったよ」
「そうですか、良かったですね」
引きつった笑みで彼女が笑うが、こめかみに浮かんだ血管は誤魔化せていない。
怒りに震えた手元からコップにヒビが入る音がした。
「まあいいです。それじゃあ、出かける準備をしてください」
「……なぜ?」
「なぜって……」
素朴な疑問をぶつけると彼女は呆れたように私を見る。
心なしか扱いがぞんざいになっている気がしなくもない。
「だって仕事道具がなくなったのなら新しいのを用意する必要がありますよね?って、ああ、吐かないでください!」
香坂くんに背中をさすられながら改めて考える。
そうか。あの万年筆亡き今、私が原稿を書くには新しい筆を買わなければならないのか。
「死んだ瞬間に若い男に目移りか……ふっ、これが悪女という奴だな。香坂くんも中々悪い女じゃないか」
「何バカなこと言ってんですか、引っ叩きますよ、先生」
「……」
物凄く冷めた目で蔑まれた。
だが、それはそれとして、代わりの筆というのは気乗りのする話ではなかった。
「香坂くんには申し訳ないが、私はあの筆じゃないと書ける気がしないんだ。
代わりなんていないんだよ……」
「ううん……。先生の気持ちも分からなくはないんですけど、出版社側からするとそうも言ってられないんですよねえ……。締め切りまで時間も無いですし」
ふと、さっきから気になっていたことを聞いてみる。
「ところで、香坂くん、一ついいかい?」
「はい、なんですか?」
「先程から随分締め切りを気にしているように見受けられるが、まだ割と余裕があったと思うんだが?」
すると、彼女は一瞬キョトンとした表情を浮かべた後、顔を青ざめさせた。
「……せ、先生。お伺いしたいのですが、締め切りまで後何日か分かってますか?」
「ああ、分かっているとも。後2週間だろう?なあに、残り50頁くらい2週間もあれば簡単だ」
「……今日は何日ですか?」
「今日?○月○日だろう?」
そう答えた瞬間、彼女は蒼白を通り越し土気色の顔色になり、
ゆらりと幽鬼のように立ち上がり私の肩を掴んだ。
「それは1週間前の日付です!今日は○月×日!締め切りまでは後1週間しか無いんですよ!」
彼女の告げた言葉を聞き、私も慌てて反論する。
「……そ、そんなバカな!確かに、この日めくりカレンダーには……」
そう言ってカレンダーを示し、ふと思い出す。
そういえば、ちょっと前に五日間飲まず食わずで徹夜をしてぶっ倒れたな、と。
「もしかして……」
急に黙った私から何かを察したのか、彼女が僅かに怒気を発し始める。
「また、無茶をしたんですか?」
「い、いや、違う!たった五日だ!それだけで1週間も眠り続けるわけが」
言い訳は彼女の怒声で掻き消された。
「なんであなたはいつもそんな無茶ばかりするんですかー!!!
何回も何回も何回も、ご飯はちゃんと食べて毎晩しっかり寝てくださいって言ってますよね!!
バカなんですか!?バカなんですね!!言っても分からないんですね!!」
「だ、だが編集の君からしたら私が執筆しているのは嬉しい話じゃないのか?」
猛り狂ったように噴火する彼女の怒りを鎮火するために、
苦し紛れに彼女の利点を挙げてみるが、
「それで締め切り勘違いされたら元も子もないんですよ!!!」
火に油とばかりに一層彼女の怒りは燃え上がった。
しかし、彼女は何かを思い出したようにピタリと動きを止め、
顔色を再び蒼褪めさせる。
「……さっき、後何頁って言いました?」
「後50頁、だが……」
ああ、そうだ。私、作家を辞めよう。
私の答えを聞いた彼女は顔色を土気色に変えて倒れ、
私はどうしようもない現実に、吐いた。
遅めの昼ご飯を食べながら彼女とこの後について相談する。
場所は天下のサイ○リヤ。値段、量ともに完璧で、貧乏時代からの戦友とも言うべき存在だ。
いつも頼みすぎては吐きそうになっている。
「とにかく!普通にやっても残り1週間で50頁なんて無理です!
ですから、先生にはここで、必ず完璧に手に馴染む愛筆を見つけてもらう必要があります!」
ちゅるちゅると明太クリームスパゲッティを食べながら彼女が言った。
「そんな簡単にあれの代わりが見つかるとは思えないんだが……」
ミラノ風ドリアを冷ましながら私がそう言うと、
「それでも見つけてもらうしかありません。見つけられなければ、死です。デッドオア、アライブ」
「デッドオア、アライブ」
彼女が深刻な表情でそう返したのを私も繰り返した。
「ここのデパートには文房具屋が3つ入っています。おそらく、それだけあれば先生の望む品が見つかるはずです」
「なるほど……」
いつの間にそんなことまで調べたのか感心しながら、
私はカルボナーラを平らげる。
仕事でも極めて優秀で要領の良い彼女にはいつも助けられてばかりだ。
「……いつか、お返しをしなければな」
「どうしたんですか、急に」
訝しげにこちらを見る彼女に、ポップコーンシュリンプを摘まみながら答える。
「いや、香坂くんには本当にお世話になりっぱなしだから、ここらで借りを返済しておかないと首が回らなくなってしまうだろう?」
そう言うと、彼女は呆れたように嘆息し、コーヒーを一口飲んで微笑んだ。
「そんな事ですか。良いんですよ、私は先生の編集ですし、何より好きで先生のお世話をしているんですから」
「そうか……、ありがとう。私は編集に恵まれたな」
私が照れ隠しにデザートのティラミスを食べ終えると、
笑みを浮かべたままの香坂くんが席を立つ。
「さあ、新しい万年筆を探しましょう!」
「いや、待ってくれ。今下手に動くと、吐く」
「だから頼みすぎだって言ったじゃないですか!」
結局店を出たのは、それから30分後だった。
「……これも違うな」
持っていた万年筆をそっと置いて感想を言うと、
隣で香坂くんと店主がため息をつく音がした。
私は申し訳なくて彼女の方を向き謝る。
「すまない、香坂くん……。こればかりはどうしても」
「いいえ、良いんです。それほど大切な品だったんですから」
しかし、そうは言うものの彼女の顔には焦燥と疲労が透けて見える。
そう言う私も、あの筆のようにしっくりくる物が見つからず、次第に諦め始めてしまっている始末だ。
今は私のために頑張ってくれている香坂くんのために、
私が先に諦める訳にはいかないと奮起しているが、それもいつまで持つか。
その店の最後の一本がダメだったことで、私たちは店主に謝罪をして店を出る。
「……全滅でしたね」
重苦しい雰囲気の中、彼女が呟く。
「重ね重ね申し訳ない……。そんな場合ではないのは分かっているのだが、あの筆の代わりと思うと、妥協はしたくないんだ」
「いえ、適当な間に合わせでどうにかなる状況でもないので。けど、このままだと……」
間に合わせとはいえ、書けない訳では無いのだが、それでも残り1週間と言う期限で、
50頁が書けるとは思えなかった。
「仕方がありません。こうなったら露店の方に向かいましょう。万年筆があるかは分かりませんが、
ここで落ち込んでいるよりはマシです」
そう言って、気丈に歩き始めた彼女の後を追い露店通りへ向かうと、
そこはデパートとはまた違った雰囲気の賑わいを見せていた。
そこかしこから美味しそうな匂いが漂い、怪しげなアクセサリーが所狭しと店頭に並べられている。
「さて、どの辺から探しましょうか……って、先生!なんで買い食いしてるんですか!」
「はっ!?すまない、いつの間にか買ってしまっていた」
見れば向こうで恰幅の良いおじさんが良い笑顔で手を振っている。
どうやら無意識のうちに買ってしまっていたようだ。
それを見て、香坂くんは頭痛がすると言わんばかりに頭を抱えた。
「……一本食べるか?」
「〜〜!いただきます!!」
差し出した牛串を奪うように取ると、彼女はそれを二口を食べ、
私の手を引っ張った。
「行きますよ!時間がないんですから!」
「ま、待ってくれ。まだ食べきって、ああ、服に肉汁が!」
「そんなの後で洗ってあげますから!」
まるで鬼のような形相をした香坂くんに怯えた人々が道を開けてくれるおかげで、
人混みの中とは思えないほどすんなりと露店の間を進んでいくと、
私はふと一つの露店に目が留まった。
「こ、香坂くん!ストップ、ストップだ!今の店に行きたい!」
「何ですか!買い食いは全部終わった後にしてください!」
「違う!今の露店、万年筆があったんだ!」
そう言うと彼女は急に止まり、引っ張られていた私は彼女の豊満な胸に顔を埋めた。
自分の嘆きの荒野と彼女の実りの草原を比べ、ほんの少し苛立ちが募る。
「それを先に言ってください!どの露店ですか!?」
「あの店だ!って、ああ!」
そうやって私が指差した先で、ちょうどその露店の主人が驚くべき速さで荷物をまとめ、
その場を去り始めた。
「追いかけますよ、先生!」
「ああ!」
千載一遇の好機を逃すわけにはいかない。
以心伝心で通じ合った私達は、早足で去っていく主人を追いかけた。
しかし、先程までは流れに乗って歩いていたから早く進めたが、
今度はその逆、流れに逆らうように動いているせいで、思ったように動けない。
「待って!ご主人、待ってくれ!」
「すみません!待ってください!」
二人で露店の主人に声をかけるが、喧騒にかき消され彼には届いていない。
香坂くんも流石にこの人混みを掻き分けて進むのは難しいのか、
私と同じく殆ど進めていない。
主人の方はと言うと、慣れたものなのか人混みの間をまるで魚か何かのようにスイスイと泳ぐようにすり抜けている。
何れにせよ、距離が話され続けている以上、このままでは主人を見失ってしまう。
何か、何か打開できるものはないか、そうやって周りを見渡していると、
細く小さな路地裏が目に入る。
「香坂くん、このままじゃ埒が明かない!一か八か、あの路地から先回りをしよう!」
「ええっ!?先生、あれがどこに続いているか知ってるんですか!?」
「知らん!だから一か八かなんだ!でも、このままだとずっと追いつけないぞ!」
そう言うと彼女は意を決したように眦をつり上げ、
「分かりました!ここはあの道に賭けましょう!」
そう言って、人混みを無理矢理掻き分けて、路地裏へと突き進んだ。
しかし、
「どうした、香坂くん、急がないと主人が……」
なぜか路地裏に半身を滑り込ませたまま動かない香坂くん。
すると、彼女は泣きそうな顔だけをこちらに向け、
「す、すみません、先生……胸がつっかえちゃって、動けません」
そんな情けないことを言ってきた。
「なんでこんな大事な時に限って、君はそう言うことを!!」
「し、しょうがないじゃないですか!私だってこんな恥ずかしい目に遭いたくて、遭ってる訳じゃありません!」
「うるさい、このホルスタインめ!無駄にでかい物ぶら下げて威張り散らしてると思ったらこれか!」
ここぞとばかりに日頃の鬱憤をぶつけると、
とうとう彼女は泣き出して喚き散らす。
「酷いです、先生!だいたい、今は先生の貧乳で八つ当たりしてる場合じゃないでしょう!?
急がないと万年筆が逃げちゃいますよ!早く私を引っ張り出してください!もう周りの視線が恥ずかしいです!」
「最後に本音が出たなちくしょう!言うに事欠いて貧乳だと!?君、絶対後でその胸、牛みたいに揉みしだいてやるからな、覚えてろ!」
私はなんとか彼女を引っ張り出すと(その際乳が揺れてイラっとしたが)、路地裏に滑り込む。
一切の抵抗を感じなかったことに敗北感を感じながら、露店通りに残った彼女に叫んだ。
「君もそっちから追いかけてくれ!万が一、こっちの道がハズレだった場合は頼む!」
「分かりました先生!後、絶対に胸は揉ませません!」
「黙れ、バカ!絶対に揉む!」
あいつあとで搾乳してやる。そう心に決めて私は路地裏を抜けて向こう通りにでる。
店主が進んでいた方向に全力で走りながら、私は一種の高揚感を感じていた。
そういえば、こんな風に体を動かすのはいつぶりだろうか。
体に無茶をさせるのはいつもの事だが、運動というのは随分久しぶりな気がする。
無駄に足の早い帰宅部として名を馳せた高校時代を思い出し涙ぐむ。
友達から、そんなに早く帰りたいのと若干引かれていたような気もするが、気のせいだろう。
そうやって、昔のことに想いを馳せながら走っていると、前方に見覚えのある後ろ姿を見つける。
「いた!」
見間違うはずもない。さっきの露店の主人だ。
私は疲れた足に鞭を打ち、さらに走る速度を速める。
ゆっくりと、けれど確実に彼との距離が詰まっていき、
その背中に手が届くその瞬間、私は転けた。
見事に転けた。盛大に転けた。きっと、世界転倒グランプリがあれば、2位にダブルスコアをつけて優勝できるくらい綺麗に転けた。
疲労困憊状態の私は受け身を取ることもできず、両手を投げ出して顔から地面に倒れ込んだ。
突然の事態に脳の理解が追いつかず、痛みだけが思考を支配している中で、
私はぼんやりと間に合わなかったということを理解した。
「あの、大丈夫ですか?」
そうやって悔しさと痛みに歯を食いしばって耐えていると、
上から人の声がした。
どうやら派手に転けた私を心配した人が様子を見に来たのだろう。
私はせめてこの人には無事を告げようと顔を上げると、
目の前に散々追いかけた露店の主人がいた。
「確保ー!!」
彼の手を両手でがっしりと掴んで高らかに叫びをあげる。
「え、ええっ!!?」
状況の飲み込めていない彼は戸惑い辺りをキョロキョロと見回している。
どうやら私が人違いをしていると思っているようだが、
私の狙いは間違いなく彼だから人違いではない。
「は、ははっ」
最後の最後、奇跡が起きたことに思わず笑いが溢れる。
神は私を見捨ててはいなかった。
そういえば、倒れる直前に今は亡き愛筆の姿が見えた気がする。気のせいか。
とにかく、私はようやく捕まえた主人に万年筆を売って欲しいことを伝えると、
彼は戸惑いながらも了承し、荷物を開いて万年筆を見せてくれた。
その中には、なんと愛筆と全く同じ万年筆が、しかも変えのペン先まで揃っていた。
「本当に……ありがとう…それしかいう言葉がみつからない…」
彼からその万年筆を売ってもらった私が彼に感謝の言葉を述べていると、
後ろから香坂くんが息を切らせて追い付いてきた。
「あ……先生、良かった。追いつけたんですね……って、どうしたんですか、その怪我!?」
私の姿を見るなり悲鳴をあげた彼女の反応を見て思い出す。
そういえば、転けた時の傷を見てなかったな。
そして、自分の腕と足を見ると、そこには皮がベロンと剥け真っ赤に染まった私の手足が生えていた。
傷を自覚した事により、アドレナリンの効果が切れ、途端に猛烈な痛みが襲いかかる。
それと同時にさっきまで全力疾走してきたので呼吸も苦しくなっていたのを思い出した。
目眩がするほどの失血と激痛と呼吸困難に、私の体は正直に反応する。
つまり、私は、吐いた。
その後の話をするならば、病院で手当てをしてもらった後、私は家に帰り、
香坂くんの胸を一時間念入りに揉みしだいた後、彼我の圧倒的な差に絶望して吐き、
執筆を再開しなんとか締め切りの一時間前には脱稿する事に成功した。
その時書き上げた小説は、最後の主人公が全力疾走する場面が真に迫っていたとかで、
世間では随分と人気が出ていたようだが、私は高校時代を思い出し複雑な気分だった。
そして、今も私は新しい小説を執筆している。
その横では締め切り直前の見張りとして香坂くんが紅茶を飲んでいる。
「あの時は本当に大変でしたよ。もう落稿したと思いましたもん」
「私も正直生きた心地がしなかった。吐き気さえしたよ」
「いや、実際に吐いてましたよ、先生」
冷静にツッコミを入れる香坂くんの言葉を無視し、私は筆を進める。
もちろん、あの日、主人から買った万年筆だ。
あれから随分と長く使い、これが最後のペン先だから、そのうち次の愛筆を見つける必要があるだろう。
先代は騒動の翌日、丁重に庭に埋めた。でも、次の日の大雨でどこかに割り箸の墓石ごと流されてしまった。
「でも、一生に一度くらいはあんな騒動があっても良いかもしれませんねー」
なんて紅茶を飲みながら彼女がこぼした瞬間、
パキリとどこかで聞いたことのある音が手元から聞こえてきた。
私も香坂くんも黙る中、私は静かに吐いた。
あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
「おれは 軽めの恋愛ものを書いていた
思ったら いつのまにかコメディを書いていた」
な… 何を言っているのか わからねーと思うが
おれも 何をされたのか わからなかった…
頭がどうにかなりそうだった… 催眠術だとか超スピードだとか
そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を 味わったぜ…