少女と神
妖精は神を殺すだろう。
それとも神が妖精を殺すのか?
元ROM専様の『法律と宗教の違い―――博愛主義者が嗤う自称合理主義者―――』
という作品を読んでの感想です。
筆者はもともと、このなろうエッセイというのは、ある種のシェアワールドだと思っております。
現実世界についての『人間』というデコーダ装置を用いた、シェアワールド。
だから、たぶんこういうやり方も可能でしょう。
実際に、自作品として、他者の作品への感想を書いている方もいらっしゃいましたし。
=====================================
さて、そういうわけで、上記の作品を読んでの感想ですが、
まずもって、上記の作品は『法律と宗教の違いはない』と主張していらっしゃいました。
このメインテーマについて、わたしなりの解釈を加えていきたいと思います。
作者様が「法律と宗教の違いはない」と主張するその理由は『法律と宗教の違いがあると考えた方は、法律を信仰している』という一文から推測するに、信仰心という意味で違いはないと言いたいのだと思います。信仰する対象が法律では法典であって、宗教は聖典であり、その両者にはなんら違いはないじゃないかというのが言いたいことだろうと考えました。
そして、次の段落に入り、法律は秩序維持が目的であり、宗教は秩序維持が目的であり、つまり目的でも同じだから、両者に違いはないのだという旨のことが書かれてあったのだと思います。
もちろん、言葉というものの持つイメージは、その言葉自体によって区切られているものですから、この主張に対して、法律は法律で宗教は宗教だから違うだろうというのは、反論になりえないでしょう。
同じく、主体の分解能の問題にするのも違うのだと思います。
分解能というのは、概念を切り分ける能力です。
このことについて詳述いたしますと、下記のような事柄です。
例えば、わたしはあまり花について詳しくなくて、せいぜいが桜とかひまわりとかのメジャーどころしか知りません。
仮にそんなわたしが『アヤメとカキツバタは同じ花であり両者に違いはない』と主張したときに、読者から『アヤメとカキツバタの違いがわからないのは、作者さんの知識不足のせいである。両者を区別できないのは作者さんの能力の問題、つまり分解能の問題である』
とかいう論法をとれなくもないと思うのです。
今回の事例で言えば、『法律』と『宗教』の概念的差異をひとつずつあげつらっていけば、確実に違いはでます。だって、言葉が違うのですから、当たり前ですよね。
ただ、これはあまり意味のないところです。
わたしが例えば、『アヤメもカキツバタも両者ともキレイな花であり、そのキレイという概念においては違いがないというのが言いたいことであって、両者を詳密に区別したいわけではない』と考えていたら、分解能の違いなんてなんら意味はないのです。
つまり、ここで言外に問われているというか、言いたいことが隠されているのだろうと思います。
作者様の意図、つまり上記の論法でいうところの『キレイ』にあたるような概念はなんなのか。
それは『嗤うな』ということなのだと思います。
つまり、自らを無宗教だと主張する者も『法律』には従っているじゃないか。法律を信仰しているじゃないか。そのくせ、宗教を信じているといったら『嗤う』のか。ふざけんな。むしろこっちがその無知蒙昧さを嗤ってやるわ。
――というのが言いたいことなのかなと思いました。
ここらへん、作者様が直接的にはあまり書いてないので、かなり推測が入ってます。
それか、読むほうの能力不足です。
そんなわけで、読み進めますと、
わたしは①信仰と②目的という二つの要素で、作者様が両者の違いはないと書いてある以上は、この要素のみを切り取って、考えるべきなのだと思いました。
①信仰について
まず、信仰という言葉ですが、この言葉を作者様は行動規範の根拠になるものだと捉えているようでした。
例えば、モーセの十戒の『殺すな』と刑法199条の『殺すな』というのは、殺してはいけないという規範という点では同一のものであるということを作者様は述べています。
わたしもこの言葉は正しいと思います。
そもそもモーセの十戒が書かれている聖典は、『旧約聖書』ですし、この『約』というのは、神様との契約のことを言うのです。
つまり、契約宗教なんですよね。
したがって、神様から与えられた戒律を守る限り人は守られるというのが旧約宗教の信仰なのだと思います。
宗教も法律も行動規範足りうるという意味では共通項がある。
ただ、わたしはここで宗教と法律の違いを述べたいと考えます。
宗教も法律も確かに表層としては『殺すな』と述べています。
その意味では共通です。
しかし、宗教のほうがファルスの統制が強い印象を受けます。これは宗教のほうがまだ未去勢者に対して慮っているような要素が見受けられるからです。
他方で、法律のほうは、メタリックな印象があります。
どちらが良いとか悪いとかはないのですが、宗教のほうが生々しいですね。
だから、『○○してはならない』とか『○○したほうがよい』という規範について、宗教的統制を受けたとき、それは、なんかイヤな感じのものになるでしょう。
TRPGのパラノイアで、コンピュータから『市民は幸せなのが義務』といわれたときに、心の底からわきあがってくる嫌悪感が宗教のほうが大きい。
宗教は間違いなく去勢済主体を量産するシステムなのですが、法律はそこらへんサバサバしているというか。
たぶん、主体に注目しているのが宗教で、法律は行為に注目しているからでしょうね。
ここでは刑法に焦点を当てますが、刑法で、まず問題になるのは構成要件に該当する『行為』なのです。行為。主体じゃなくて行為。そのあとに、主体が罰せられるのは、責任論の反射的な効果であって、刑法がとりあげているのはあくまで『行為』なんですよね。
ここの違いがかなり大きいように思います。
もちろん、法律もこのあたりの概念にはかなり揺らぎがあるようです。
②目的について。
作者様は宗教と法律の目的は同一のものであり、『秩序維持』であると捉えていらっしゃるようでした。
宗教の目的は『神の言葉を通じて社会の秩序を守る』こと。
法律の目的は『法典の言葉を通じて社会の秩序を守る』こと。
したがって、両者の目的は社会の秩序を守るという点で一致している、と。
まさに、そのとおりだと思います。
法律があれしろこれしろ、あれするなこれするなというふうに命じるのは、社会が無秩序な状態に陥るのを防ぐためでしょう。
ただ、宗教の場合は、なれなれしさの度合いが大きいかなとも思います。
法律であれば、ある一定の事柄以上は踏みこんできません。それに対して、宗教は去勢するまでは徹底的に追尾してくる。統制能力が強いという印象を受けます。
まあ単にカルト宗教のイメージが強いからかな、などと思う次第です。
最終段落。
『教義を真面目に遵守する教徒を、馬鹿ゝゝしいと切り捨てるそこのあなた』について。
この言葉の意味については、法律に従っていながら宗教に従うものを馬鹿にするのは、撞着であるという意味に解釈しました。
そして、この点について、わたしは作者様と違う見解を持っております。
日本人が――と、あえて書きます。
大多数の日本人が法律に身を任せながら宗教を避けるのは、法律に従うということが宗教的信仰を持つことや戒律によって社会の秩序を維持するという目的がなんら変わらないということに"気づいていない"からではなく、ましてや馬鹿馬鹿しいと思っているからではなく、単純に、宗教のほうが統制力が高く、気持ちが悪いと思っているからではないでしょうか。
内なる声「でも、『情けは人のためならず』とかの言葉は信じてるでしょ?」
わたし「そういう素朴な信仰はたぶん多くの日本人の心の中に存在しますね。そしてわたしも信じています」
信じていますが、おそらく日本人の心象風景としては同じくらいの現実感をもって、【あるカルト宗教では少女が供物として信者たちにレイプされる】みたいな想像力が容易に働いているのだと思います。
法律も宗教も、『わたし』を越えた不確かなものに自己の存在をゆだねていますが、つまり、ファルスによる統制を受けていると考えられますが、
印象で言えば、宗教を信仰する人は自らファルスにレイプされにいく少女であって、法律を信仰する人はファルスのセックスフレンドで半和姦かなという感じです。
どっちも犯されてるじゃんと言われても、いや、違うでしょと言いたいのです。
つまり、何が言いたいかというと、法律のほうが好みってだけなんですけどね。
それがわたしの考える宗教と法律の違いです。
単なる印象批評やんけ。
==============================
ここから、少女妖精論に戻る。
少女は妖精であり、ファルス的な機制が弱い。
したがって、宗教がファルス育成装置である以上は、宗教は嫌い。
少女に信仰する神はいない。
これが答えである。
しむしゅしゅ宗教