補筆─女は馬鹿じゃなかった
ごめん。ありゃ嘘だ。
なんの話かというと、女は馬鹿であるという話。
つまり、少女は論理的思考ができないという、このエッセイの2である。
いや、まぁ、もちろん、言ってることは概ね正しいと思うのだが、論理的という言葉自体が一種のマジックワードになっているかもしれない。
この点を、詳述しなければ、嘘になるだろうという話。
少女は論理的ではないという話をもう一度おさらいする。
少女は未去勢な主体である。
少なくとも、正常と呼ばれる人間に比べて、その統合精神機能が弱い。
ファルスが弱い。
したがって、論理的思考ができないという話だった。
したがって?
したがって、ってなんだ。
本当かよ。
ここに焦点を置く。
そもそも、去勢済み主体にとっては、象徴界というシールドによって自我を保全している。
言葉の世界に参入することによって、モノと自分との区別がつき、セカイと私とが明確に切り分けられる。
この切り分けるということが、そもそもシールドなのだ。
私は「あなた」ではないし「セカイ」でもないし「モノ」でもない。
私は「私」であるという幻想こそが、言葉の最大の力であり、ファルスの持つ最大の力である。
みんな嘘つきですからね。
森先生の書く真賀田四季は「心なんてありません」といったが、それこそが正しい。
それを大多数の人間は「心はある」という嘘をついている。
ん。今、デカルトの『我思うゆえに我あり』を考えました?
私の思考があるから私という心もあるはずだ、と?
いえ、違うんですよ。
『我思うゆえに我ありと思う思考あり』が正しいんです。
我思うゆえに我ありは論理的な飛び越しがあるんです。
だから何?
何って……んー別に深い意味はないのですが、ファルスという機制が働くということは、この自我の帝国を保全しようとするでしょう。しかし、それは主体に斜め線を引いた偽りの帝国です。
なんだか正確性が零れ落ちるような気がするが、わかりやすく書くと、
人間は、つまり去勢済み主体は自分のことを考えるときに、
つまり『私』を考えるときに、言葉によって考えているわけです。
この思考統制こそがファルスの機能であり、本当の現実界に身を浸している『私』ではない。
そこには象徴界というシールドを持ってしまった我々には到達ができない。
なぜって?
まあほら、言葉以外の思考をしろっていっても無理でしょ。
そういうことです。
心についても、思い浮かんだことを言葉によってデジタル化した瞬間に嘘になっている。
この嘘を本当であると言い張るのが、正常な精神。
すなわち、パラノイアということになる。
妖精の思考は、そういう意味では、現実界に片足をつっこんでいるので、偽りの自我帝国によるものではない。それは言葉にした瞬間にはじけとぶシャボン玉のような思考であるが、おそらくはそれこそが本当の論理的な思考。嘘のない考え。
つまり、無矛盾な考え。
論理的であるということを、無矛盾であるという意味で捉えるなら、妖精の思考こそ矛盾がないものであり、正常な精神こそが矛盾している。
真賀田四季はそれもまた「綺麗に矛盾している」と褒めてくださいましたけど。
ああ、四季様しゅごい……。
というわけで、論理的に考えることができないの意味は、正常者の視点で論理的に考えることができないというふうに捉えてください。
正常者の視点では、現実界に片足をつっこんだ妖精の思考はトレースができない部分がある。
それは深淵の思考。
言葉なき言葉。
これこそが妖精の持つ論理性です。
だから、女は馬鹿だというよりは、プロトコルが違うといったほうが正しい。
扱ってる言葉の規格が異なるのだ。
……明らかに、書くのむっずっ。
一応、それに挑戦したのが拙作『マジで神様転生しちゃった件について』です。
本作品は去勢済み主体が、未去勢なボディにインストールされたらどうなるのだろうかという、思考実験を兼ねてます。
書くのが難しすぎてね……。