5話 準備
最短ルートを通って早数日、彼の姿は目的の部屋の二つ手前の部屋にあった。
彼はいつかと同じように火をつけて調理の準備をしている。
彼の近くにはスタッブ・ディアという異常に尖った角を頭から二本生やした鹿が足にロープを括り付けられ、木の棒に逆さ向けに吊るされていた。
もっともその立派な角のついた頭部は血抜きのためにすでに切り落とされているのだが。
彼はふんふんふ~んと鼻歌を歌いながら切り落とした頭部から角をもぎ取っている。
その角は細く鋭利でさらに返しまでついている凶悪仕様でとても頑丈であり、その硬度は突き刺さりそうになった角をとっさにナイフで弾いたときに刃が少し欠けたほどである。
そのナイフはすでに研ぎなおしており、この角をもぎ取り次第解体に使用するつもりである。
「それにしても『無限』に入ってもう何日目になるんだろうね。そろそろ日の光が恋しくなってきたね」
彼は気がついていないが地上はもうそろそろ秋に指しかかろうと言う頃で、彼が『無限』に入ったのは夏の一番暑い頃だったのでもうすぐ二ヶ月が経過する。
「それにしてもこの『無限』って本当に僕にぴったりな迷宮だよね。魔物が弱くてただ歩くだけで攻略完了になりそうな迷宮なんてここ以外には無いよね。得意な『影部屋』と"探知"がここを攻略するのに最適だなんて」
この『無限』は100年ほど前に突如として王国に現れた迷宮で、当時、王国国内の未攻略迷宮は"原始の迷宮"と呼ばれる、人々が迷宮の存在に気づいたときから存在している迷宮の一つで、ほぼ攻略不可能と言われている迷宮のみであった。
王国にとっては『無限』と言う新造の迷宮は非常に魅力的なもので王国の全軍の三割を動員して攻略に乗り出した。
その迷宮は数えるのが億劫になるほどの部屋の数、どこまで歩けばいいかも分からないという果ての見えなさなどが攻略を阻み、そんな構造の迷宮であるため消費食料がどうしても膨らまざるを得ないのに、攻略できるという希望さえ見出せないような迷宮であった。
しかし当時の王国のトップらは異常に迷宮を攻略することに躍起になっており、迷宮攻略にかかる費用を過剰な増税を行うことにより賄った。
そうして国民の負担が増えそろそろクーデターが起ころうとして王都が殺気立っていた中、継承権第一位の第一王子が父親である王を含めた当時のトップらを全員ひっとらた。
そして王都で一番大きい広場に国民とトップ連中を集めると、自らが次代の王となることを宣言、迷宮攻略の中止、そして引き上げられた税を元よりも低い税へと引き下げ、国家事業として西にある肥沃な土地の開拓を行うなどを国民に対して約束したあと頭を深々と下げ、当時のトップ連中の首を落とした。
そうして国家授業によって見事に拓かれた地の食料の生産が年々増え、税を増税前の金額に戻しても問題が無い程度の安定を取り戻したころ、新たに迷宮が現れた。
その迷宮に対し王になった第一王子は"ギルド"に、民を苦しめてまで攻略に乗り出した理由を明らかにして欲しいと言う依頼を探索者に対して依頼を出し、その真実を一切隠すことなく公表することを約束した。
その新王の言葉に感銘を受けた探索者達が迷宮を攻略、その真実に対して迷宮核に問いかけたところ、当時のトップ連中は己の欲を満たしたいがために国家資金に手をつけて穴を開けてしまったので、そのことが発覚する前に他国の軍事情報を手に入れて戦争を吹っかけようとしていたのだった。
新王はあまりな事実に衝撃を受けて国家資金を検めてみると、国家資金の5%ほどが使い込まれていたことが発覚した。
ちなみに一年間の国家予算は国家資金の1%ほどである。
新王はあまりなことに言葉が出なかったが、約束していた通り国民に対してすべてを公表した。
国民も新王と同じように絶句し、食糧難や戦争によって国民が死ぬことが無いことに安堵して新王の行動に対して感謝をした。
そうして新王はその生涯をかけて国家資産の補填を行ったうえに、10%ほどの資産を稼いでそれも国家資産にすべて加えた。
閑話休題。
「出てくる魔物が弱いのにこの迷宮の攻略がされて無かった理由の本質は攻略するまでの間の食料を持って運べないっていうことだからね」
この『無限』を攻略できないのは攻略するまでの間、食料を用意出来ないことにある。
"探知"に造形の深い彼でさえこの先にある違和感がある部屋を見つけるまでに1ヶ月以上かかっている。
もし仮に彼と同程度の"探知"が出来る者がいたとしても1ヶ月以上の食料を持って歩けるものはこれまで存在しなかった。
仮に補給線を伸ばしたとしても最前線のものが奥に行けば奥に行くほど人が必要になり、その全てを賄うだけの食料を集めるには莫大な金が必要となりとてもではないが探索者やそこいらの貴族では用意出来ない。
一つの迷宮にそれほどの金をかけるのであれば、他の迷宮を攻略するための準備金を潤沢にする方が建設的である。
まあ、当時この方法を莫大な金を掛けて実践した王国であるが、結局攻略出来るまで続けることが出来ず攻略は断念された。
「まあその厄介な性質のおかげで百年間誰にも攻略されず、僕に攻略のチャンスが巡ってきたのかと思うとちょっと運命を感じるね。...まあそもそもそんなチャンスなら巡ってこなかったら良かったのに。そう考えると運命どころか皮肉かもね」
彼は先程までの楽しげな表情から一変させて真剣な顔になった。
あたりは静寂に飲まれ、聞こえるのは薪が鳴らすパチパチという音だけだ。
「まあ今更何を言っても変わらないし、それならせいぜいその皮肉を幸いに変えるとしようかな」
そう言って張り詰めた表情を緩め、吊るされた鹿の解体に取り掛かった。
解体を終え調理を行った後、明日には違和感のある部屋に突入するということで英気を養うためにたらふく食べ、『影部屋«シャドウルーム»』を発動、そのままそそくさと眠りについた。
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いつもより早く目が覚めた彼はいつもより入念に柔軟運動を行い、体のギアを一つずつ丁寧に上げていき、魔力も放出し体から10cm程で留める。
そうして体をベストの状態にしてから食事を摂ると、次は装備や道具の確認を行う。
いつも以上に細かなところにまで目を通し、少しでも異常を確認すると対処を即座に行い万全な状態を整える。
そして『無限』に入ってからは使う相手がおらずずっと『影部屋』の隅のほうに転がされていた大工さんが腰に巻きつけているような腰袋を手に取る。
その腰袋は右、後ろ、左の三方向にそれぞれついており中を伺ってみてもただただ黒い面が見えるだけで様子が窺い知れない。
それを腰に巻きつけ手を突っ込み、それの位置を使いやすいように調節すると中のものを次々と取り出していく。
その取り出したものの量は明らかに腰袋の収納量を超えているのだが、彼にとってはおかしなものではないようで気にすることなく中身の点検をしている。
ガラス管に収められた淡く光るカラフルな液体の数々に、刃渡りが20cm程のナイフが何十本もあり、よく分からない球状の物体が十数個、巻かれていない長いロープが一本、目視するのも難しいほどの細長い透明な糸が巻きつけられた糸巻きが三個、などなどと用途の分からないものが彼の基準によって整理されて目の前に並べられている。
そうして一つ一つじっくりとさまざまな角度から見たり揺らしてみたりして、異常の有無を確認して、問題の無いものだけ腰袋に仕舞っていく。
腰袋から取り出されたすべてのもののうち8割と少し程度のものは再び腰袋に収納され、残りのものはそのまま置いた場所に放置しておく。
そうしてすべての準備を終えた彼は、最後に『影部屋』のあるその部分だけ妙に片付けられた一角に向かい、壁に立てかけられたモノを手に取る。
そのモノはよく手になじみ、この場においてもっとも信頼している相棒でもあるソレに慈しむような目を向け、突然ソレを鋭く虚空に向かって突き出すとその感覚に満足したのか一つ頷く。
革鎧と手甲を服の上から身につけ腰に腰袋をつけ、手にモノを持った今出来る最高の装備を身に纏った彼は『影部屋』と外を魔法で繋ぎ一気に飛び出した。