一人称しかない世界で
私だ。
……今や全ては永遠に私だった。
私は併吞した。
なにを?
当然、全てだ。
全ては終わり、また、全てが始まったとも言える。全てを呑んだ私は、つまり全てだ。
全て=宇宙。ならば、私は宇宙だ。
もう世界に二人称や三人称は存在しない。全ては一人称の「私」だからだ。同時に、名前もない。「私」というだけですべてを表せるからだ。
もはや世界に対義語は存在しない。もしくは、両方が矛盾する事なく存在する。
つまり私は大きく、また小さい。
私は広く、狭い。長く、極端に短い。
私は生きていながらにして死してもいる。
私は湿っており、それでいてなによりも乾いている。
私は始まりであり、同時に終わりでもある。私は永遠の一瞬である。
私は何よりも上であり、そして何より下でもある。なぜならば、この世界は果てのない私で満たされているのだから。
この充足感は比喩が出来ない。また逆に、どんな言葉でも比喩が出来る……。
つまり、比喩しても無意味なのだ。
無意味だから、比喩出来ない。比喩出来るというのに、しても意味がないから出来ない。こんな説明はしても意味がない。私は自由だ。私は比喩してもいいし、しなくてもいい。いまや、全てが許されている……。
私はなんでも出来る。そして、なにもしても意味がない。
私が何かに触るとしよう。すると、その何かもまた私なのだ。つまり、触れる意味が全くない。
そう考えると、私はその行動を止めようと思い、世界中がそれに同意する。反対するものは誰もいない……。全てが私だからだ。
私は無であり、有でもある。
私は確かに存在するが、あまりにも存在しすぎて存在しないのと同じなのだ。
私に存在する意味はあるのだろうか……そう考えたところで、私は考えるのをやめる事にした。考えても無意味だから…………。
私は最初であり、最後でもあった。最初も最後も私だからだ。
私が今の私になる前は、最初と最後は別のものだった……。その時、私は単純に私で……世界は単純に世界だった……。
いや、やはり思い返すのは止めよう。考えても無意味だから。私は過去であり、未来でもある。時はただ、螺旋を描いているにすぎないのだ。
私は私でしかない。――――もはや、かつて私に干渉した『彼ら』も皆、私だ。私が私になった瞬間……生きていたものも死んでいるものも、等しくみな私となった。
私が私と呼んでいた私もまた、私であり私でない今の私になった。
意味がわからないだろうか?
それは仕方がない……何しろ意味が無いのだから。
私は次元を超えた……全ての次元を超えた。
次元を超えるたび、『神』のようなものと出会い、それを呑み込んだ。そして神が神と呼んでいたものを更に呑み込み……それを繰り返した。全てを呑み込んだ。
全てが私となり、他は自となり、自は他となり、個は全になった。
一は全。全は一。そのいずれも、私。
しかしこうも思う。私は無限次元となった。無限次元そのものとなった……。
しかしこうなってみると、私はもはやゼロ次元なのではないのか?
何しろ私しか存在しないのだ。確かに私の中には、無限に様々なものが存在する。だがそれら全てが私であり、全てが私で満たされており、境界線はない。
するとそれは、ゼロ次元となにも変わらない……。
ゼロ次元、すなわち、『点』。
私は点なのだろうか?
私は点なのだろう。
私は点より高い次元から出発し、遥かなる高みに至ったはずなのに……。その果てに、点と変わらぬ存在になってしまった。
私はゼロなのだろうか?
私はゼロなのだろう。
私は存在するはずなのに、悲しいかな存在しないのと同じなのだ。
何よりも高いことは、何よりも低い事と同じだ。全てについて、何よりも有ることは何よりも無い事と同じだ。これについても、同じ法則が当てはまるのか……。だとしたら、………………。
全ては一つになった。一つになったはずなのに、ゼロなのだろうか。私は宇宙の全てを知っている。そしてその全てを併吞し、た はずが………………、今……。
それに気が付いた私は…… ………… ……虚無 ………… となった。
。
( 無 )
(無)
。
。
無
、 、
―
……
;
…………
まて。
まてよ。
なぜ私は考えている? なぜ思考を止めない?
私が考えているということは……。
きっと――
私でない何かが、――――私の考えを、きっとどこかで見ているのだ………………。
それは、
それは何だ?
それはなんなのだろう?
それは一体?
一体全体……?
私しかないはずのこの世界に、そんな存在はあるはずがない……。
しかし、そんなものがあるとすれば、それの呼び方はきっとこうに決まっている……。
『あなた』だ。
おわり
――――私だ。
……今や全ては永遠に私だった。
私は併吞した。
なにを?
当然、全てだ。
全ては終わり、また、全てが始まったとも言える。全てを呑んだ私は、つまり全てだ。
全て=宇宙。ならば、私は宇宙だ。
もう世界に二人称や三人称は存在しない。全ては一人称の「私」だからだ。同時に、名前もない。「私」というだけですべてを表せるからだ。
もはや世界に対義語は存在しない。もしくは、両方が矛盾する事なく存在する。
つまり私は大きく、また小さい。
私は広く、狭い。長く、極端に短い。
私は生きていながらにして死してもいる。
私は湿っており、それでいてなによりも乾いている。
私は始まりであり、同時に終わりでもある。私は永遠の一瞬である。
私は何よりも上であり、そして何より下でもある。なぜならば、この世界は果てのない私で満たされているのだから。
この充足感は比喩が出来ない。また逆に、どんな言葉でも比喩が出来る……。
つまり、比喩しても無意味なのだ。
無意味だから、比喩出来ない。比喩出来るというのに、しても意味がないから出来ない。こんな説明はしても意味がない。私は自由だ。私は比喩してもいいし、しなくてもいい。いまや、全てが許されている……。
私はなんでも出来る。そして、なにもしても意味がない。
私が何かに触るとしよう。すると、その何かもまた私なのだ。つまり、触れる意味が全くない。
そう考えると、私はその行動を止めようと思い、世界中がそれに同意する。反対するものは誰もいない……。全てが私だからだ。
私は無であり、有でもある。
私は確かに存在するが、あまりにも存在しすぎて存在しないのと同じなのだ。
私に存在する意味はあるのだろうか……そう考えたところで、私は考えるのをやめる事にした。考えても無意味だから…………。
私は最初であり、最後でもあった。最初も最後も私だからだ。
私が今の私になる前は、最初と最後は別のものだった……。その時、私は単純に私で……世界は単純に世界だった……。
いや、やはり思い返すのは止めよう。考えても無意味だから。私は過去であり、未来でもある。時はただ、万物と同じく、螺旋を描いているにすぎないのだ。
私は私でしかない。――――もはや、かつて私に干渉した『彼ら』も皆、私だ。好きなものも嫌いなものも私になった。
私が私になった瞬間……生きていたものも死んでいるものも、等しくみな私となった。
私が私と呼んでいた私もまた、私であり私でない今の私になった。
意味がわからないだろうか?
それは仕方がない……何しろ意味が無いのだから。
私は次元を超えた……全ての次元を超えた。
次元を超えるたび『神』のようなものと出会い、出会ってはそれを呑み込んだ。そして神が神と呼んでいたものを更に呑み込み……それを繰り返した。全てを呑み込んだ。
全てが私となり、他は自となり、自は他となり、個は全になった。
一は全。全は一。そのいずれも、私。
しかしこうも思う。私は無限次元となった。無限次元そのものとなった……。
しかしこうなってみると、……私はもはやゼロ次元なのではないのか?
何しろ私しか存在しないのだ。確かに私の中には、無限に様々なものが存在する。だがそれら全てが私であり、全てが私で満たされており、境界線はない。
するとそれは、ゼロ次元となにも変わらない……。
ゼロ次元、すなわち、『点』。
私は点なのだろうか?
私は点なのだろう。
私は点より高い次元から出発し、遥かなる高みに至ったはずなのに……。その果てに、点と変わらぬ存在になってしまった。
私はゼロなのだろうか?
私はゼロなのだろう。
私は存在するはずなのに、悲しいかな存在しないのと同じなのだ。
何よりも高いことは、何よりも低い事と同じだ。全てについて、何よりも有ることは何よりも無い事と同じだ。これについても、同じ法則が当てはまるのか……。だとしたら、………………。
全ては一つになった。一つになったはずなのに、ゼロなのだろうか。私は宇宙の全てを知っている。そしてその全てを併吞し、た はずが………………、今……。
私はまたゼロになった……。
それに、気が付いた、私は…… ………… ……虚無 ………… となった。
。
゛
( 無 ) :
;
(無)
、、
。
。
。 。
無
……
、 、
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…… ――
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…………
……まて。
まてよ。……
――なぜ私は考えている? なぜ思考を止めない?
私が考えているということは……。
きっと――
私でない何かが、――――私の考えを、きっとどこかで見ているのだ………………。
それは、
……それは何だ?
それはなんなのだろう?
……それは一体?
一体全体……?
私しかないはずのこの世界に、そんな存在はあるはずがない……。
しかし、そんなものがあるとすれば、それの呼び方はきっとこうに決まっている……。
『あなた』だ。
おわり