ChapterⅡ:南から来た彼女⑤
薄闇の中で俺は目を開けた。
漣の音に混じって、かすかに鳥のさえずりが聞こえる。
ベッドから起き上がると、窓の外には夜明け前の薄紫色をした水平線が見えた。
日の出前だというのに俺の胸はざわついている。
頭は寝起きというのにはっきりとしていて、その中心にはやはりローゼズとタリスカーのことがあった。
結局昨晩はタリスカーからローゼズを引き離すことができず、俺でさえも最終的には部屋を追い出されてしまった。
早く起きてしまったのは警戒のために普段着で寝たためか、それが原因じゃないのか。
やはりローゼズとタリスカーのことが気になった俺はベッドから降りた。
念のためにビーンズメーカーが挿さっているガンベルトを腰に巻き、寝ていた個室から廊下へ出た。
廊下はしんと静まり返っていた。
一番の奥の部屋にはローゼズとタリスカーがいて、そこの行くまでの右側に並ぶ扉の向こうにはそれぞれハーパー、アーリィ、ジムさんが寝ているはず。
未だ誰も起きていない様子だ。
「……?」
どこからともなく、ヌチャリっと、粘着質な音が聞こえてきた。
音はぬめり気を想像させる。
すると今度は粘着質な音に加えて、何かを剥ぐような生々しい音が聞こえ始める。
硬い何かで生き物を削ぐような不気味な音に、俺の心臓は自然と鼓動を早める。
どこかで聞いたことのあるような音だが、神経が過敏になっているのか、上手く思い出せない。
俺は自然と足音を殺しながら廊下を進み始める。
その音は廊下の左側の壁にある通路の向こうから聞こえてきているようだった。
粘着質な音が止まった。
辺は急にシンと静まり返る。
それでも俺の心臓は外に音が漏れ出しそうなほどの鼓動を発していた。
更に足を進め、そして通路ギリギリの壁へ背中を付け立ち止まった。
通路の向こうにはすぐにオープンキッチンがあり、その先にはリビングがある。
明らかに誰かの気配があった。
自然と手はビーンズメーカーのグリップへ向かう。
俺はそっと通路の内側を覗き込む。するとそこには赤髪の女が背を向けて立っていた。
「ッ!?」
タリスカーだった。
奴はローゼズが着せた白いシャツとジーンズ姿のままキッチンにいた。
奴の手には包丁が握られていて、うっすらと見える横顔からは紅い瞳が険しく細まっている。タリスカーは包丁を両手で持ち胸の高さまで掲げ、憂いに満ち表情を横顔に浮かべている。
その横顔を見て俺の背筋は自然と悪寒を得る。どこか既視感があり、少し考えるとそれはタリスカーに初めて襲われた洞窟での状況と全く同じだということに気が付く。
あの時の恐怖は、忘れようとしても忘れないほど俺の記憶に鮮明に刻まれ、時折あの時との恐怖を夢でみたりしてしまう始末。
―――でも、今の俺はあの時の俺とは違う。
ゴールデンプロミスとマッカラン、バーレイとアードベック。
奴らと戦い、死線を潜り抜け、タリスカーさえも何度か退けている。
あの時とは違って俺の腰にはビーンズメーカーがある。
視界の中でタリスカーの体がにわかに動いた。
包丁を握りる手に力がこもったように見えた。悪寒は最高潮を迎え……しかし、俺の体は気が付くとタリスカーのいるリビングへ強く踏み込んでいた。
「動くなっ!」
俺は通路から飛び出すのと同時にタリスカーへ向けビーンズメーカーの銃口を突きつける。
「わっ!?」
タリスカーは素早く振り返ると間抜けな声をあげた。
その声を聞いて、俺は妙な違和感を抱いた。
タリスカーの手から包丁が滑り落ち、床のフローリングに突き刺さる。
「何をしてるんだ!?」
「すみませんでした!」
「へっ?」
思わず俺の口からも間抜けな声が飛び出した。
それもその筈、何故かタリスカーは目の前で土下座をしていた。
状況をしっかり把握できない俺がいた。何がどうなっているのかさっぱりわからない。どうしてタリスカーが土下座をしているのかわからない。
「すみませんでした!勝手に台所を使ったばかりか、食材も持ち出してしまってすみませんでした!ああ、でもお魚は私が獲ってきたものですから保存用には手を出してません!天地神明に誓って、それは保証します!」
シンクのまな板の上にはまるまる太った肉付きの良い魚が横たわっていた。よく見てみれば土下座するタリスカーの目の前に突き刺さっている包丁の峯がキラキラと輝いていた。
―――魚のウロコ取ってた?
「ワイルド様ッ!」
っとその時、レイピアを手にしたハーパーがキッチンへ飛び込んで来た。アーリィとジムさんも最初は真剣な顔つきでハーパーに続いて来たのだが、
「つか、なにしてんの?」
アーリィは表情を緩め、気の抜けた声でそう言いながら首を傾げた。
「いや、俺にも何がなんだか……」
するとずっと土下座をしていたタリスカーはアーリィ達に気が付き、素早く迅速に体をそっちの方向へ身体を向けた。
「すみませんでした!勝手に台所を使ったばかりか、食材も持ち出してしまってすみませんでした!でもお魚は私が獲ってきたものですから保存用には手を出してません!天地神明に誓って、それは保証します!」
俺に言ったことをほぼ同じ言葉でタリスカーは謝罪を口にし、深々と土下座をした。
ハーパーは相変わらずレイピアをいつでも抜けるよう構え、ジムさんとアーリィは困惑した表情で首を傾げている。
「ハーパー、剣から手を離す」
最後にキッチンへやってきたローゼズはそういう。
「しかし!」
ハーパーは身構えたままだった。
「離すッ!」
ローゼズが強くそう言いハーパーは驚いて剣から手を離す。
ローゼズはハーパーを押し退けて土下座するタリスカーへかがみ込んだ。
「あの貴方は……?」
突然、ローゼズが屈み込んで来たものだから、タリスカーはキョトンとした表情を浮かべ顔を上げる。しかしローゼズの顔は真剣そのものだった。
「わたしはフォア・ローゼズ。君の名前は?」
「わ、私?えっと……」
タリスカーは少し考えた後、
「ハミルトン……ハミルトン=バカルディって言います」
「……知ってる!」
ローゼズの眉根が緩み、鋭さを帯びていた瞳が丸まってゆく。
「そ、そうなんですか。すみません、私はローゼズさんのことは何も……」
タリスカーは申し訳なさそうに顔を俯かせる。
しかしローゼズは朗らかな笑みを浮かべた。
「気にしない。あと、わたしのことはローゼズで良い」
「えっ、でも……」
タリスカーは、今度は少し困った表情を浮かべた。そんなタリスカーの肩をローゼズはしっかりと掴んだ。困惑するタリスカーへグッと顔を近づけ、
「良い!」
「わ、わかりました!」
「その言葉もダメ!」
「え、えっ?それはどういう……?」
「わたしとハミルトンは友達。そんな言葉使い変」
「でも……」
「良いッ!」
「あ、は、はいッ!」
半ば強引にタリスカーは説得される。やはり様子がおかしい。自身のことをハミルトンと言ったし、なによりも言動がまるで違う。どこにでもいそうな普通の少女、いや、ローゼズの日記で呼んだハミルトン=バカルディであるように俺は感じる。
もしかすると、本当にハミルトン=バカルディという人格が蘇ったんじゃ?
そう思えて仕方がない。
「ハミルトン、ここで何してた?」
「えっと、その……たぶん皆さんに私が迷惑をかけたのかなって思いま……った、から助けてもらったお礼に朝ごはんでも作ろうかと……」
「わかった!」
ローゼズは勢いよく立ち上がり、壁に掛けられていた赤いエプロンを付けた。青いエプロンをハミルトンへ突出し、
「一緒にやる」
「えっ?でも……」
「やる!」
「あ、うん!」
ローゼズに気圧されたのかハミルトンはエプロンを付け、立ち上がる。
「何を考えているのですかローゼズ!」
ついに静観しきれなくなったのか、ハーパーが怒鳴り出す。
「うるさい!」
「ッ!!」
するとローゼズも負けずと怒鳴った。ちょっとハーパーの瞳が涙が浮かんでいるようにみえるのは気のせいか?
「ロ、ローゼズ貴方と言う人は……!」
「まぁまぁハーたん落ち着くです」
っと、すかさずジムさんのフォロー。
「ですがジムさん!」
「ロゼたん、全くハーたんの言うこと聞いてないですよ?」
ローゼズは既にハーパーへ背を向けて台所へ向かっていた。
ハミルトンがそわそわと後ろを振り向こうとするたびに、ローゼズは彼女の体の向きを変える。
いよいよハミルトンも覚悟を決めなきゃいけないと思ったのか、素直に朝食の調理を再開し始めた。
「こうなったらもう待つしかないねぇ」
アーリィもどこかあっけらかんとした声でそう言う。
とりあえず俺たちはその場をローゼズとハミルトンに任せることにするのだった。




