ChapterⅣ:再臨の黒④
俺はジムさんに連れられてローヤルの館を出た。
外は既に夜を迎えていたが、サント・リーの街を往来する人波は陽が出ている時と殆ど変わらない。むしろ街は活気に満ち、益々躍動しているように感じられる。
そんな中を俺とジムさんは進んで行き、大通りから脇道へ入ってゆく。
酒を飲んで楽しそうに往来している人達の中を進んで行けば、やがて道の向こうに看板を掲げた木製の扉が見えた。
石造りの三階立ての建物の一階にあるその扉をジムさんは開ける。
扉の先はカウンター席しかないショットバーだった。
椅子の数は全部で七つ。
店内は暖かいロウソクの光で彩られている。
他の客は誰もいない。
「いらっしゃいませ」
まるでバーンハイムさんのようなマスターはグラス磨きの手を止め、俺たちへ挨拶をする。
彼の後ろには見たこともないようなウィスキーやリキュールが整然と並んでいた。
ゴールドメダル号にも様々な酒があったが、ここはそれを凌駕している。
ジムさんは奥から二番目の席へ座った。
俺はその左隣の席へ着く。
「何にしますですか?」
「ウィスキー、ショットで」
するとジムさんは笑顔を浮かべた。
「奇遇ですね。私もです。ワイルド、相当強いですね?」
「ジムさんこそ」
「ここの常連ですから。マスター、いつもの二つお願いです」
「かしこまりました」
マスターは後ろの棚からラベルの貼られていないボトルを手に取り、二つのショットグラスを琥珀色の液体で満たしてゆく。
それは俺たちの手前へ最低限の音のみで置かれた。
間髪いれずに水の入ったタンブラーがショットグラスの隣に供される。
一切の無駄のない所作は見惚れてしまうほど鮮やかだった。
俺は早速ショットグラスを手にとった。
鼻へ近づけると、いつものウィスキーとの香りとは少し様子が違うことに気づく。
ウィスキーの香りと言えば燻製のようなスモーキーフレーバーだと思っていたが、今俺が手にしているグラスからはバニラ、蜜、黄色い花のような芳醇で甘い香りが立ち上っている。
「珍しいですか?」
「ええ。これは?」
「穀物ウィスキーを、内側を焦がした新樽で寝かせたサント・リー特製のウィスキーです。美味しいですよ?」
「ほぅ、それは……じゃあ」
俺がグラスを掲げると、ジムさんも習ってくれた。
「ワイルド、20歳の誕生日おめでとうです」
俺とジムさんは軽くグラスを前に出し、ウィスキーを口へ運んだ。
高アルコールに由来する熱さが口の中に広がる。
口の中でアルコールが少し蒸発して、甘く芳醇な香りが広がる。
その心地よい香りは口から鼻へ抜け、香りの広がりを感じさせた。
「どうですか?」
ジムさんは少し上目遣いで聞いてくる。
「美味いです。こんなに香りが良い酒は初めてです」
「そうですか!気に入ってくれたのなら良かったです。ちなみにこれの製作には私の関わってるのですよ?」
「さすがジムさんですね。これならきっと売れますよ」
「ですねぇ……」
ジムさんはどこか遠い目をしながら、気のない返事を返して、ウィスキーで唇を湿らせた。
「俺、この二年間ハーパーと暮らしてたんです。そこでずっとプラチナを倒すための準備をしてたんですよ」
「そうだったんですか」
「ジムさんはどうしてサント・リー(ここ)に?」
まずは切り崩しの質問を投げかけてみる。
ジムさんはすぐに答えてはくれなかった。
やがてゆっくりと唇を開く。
「実家をプラチナにやられたです。で、ここに流れ着いたです。今はさっき見たと思うですが、ローヤルのところで世話になっているです」
「そうですか……」
なんとなく俺はジムさんの心の傷を遠慮なしに抉ってしまってたのではないかと思った。
―――ハイボール牧場がプラチナにやられたということは、まさか……
「でも実家の家族はみんな無事です。今は西海岸の外れにある村で静かに暮らしてる筈です」
その言葉を聞いて俺は内心ホッと胸をなで下ろすのだった。
「筈ってことは会ってないんですか?」
「ここに来てからは手紙さえ出してないです。私のやってることがやってることだけに手紙なんて送れないです。もう家族が危険に晒されるのは嫌ですから……」
「ジムさん……」
「だから私はサント・リーに加わったです」
再びウィスキーを口に運んだジムさんは言葉を続ける。
「実家の家族は無事でしたです。でもプラチナは私から大切なものや人を奪ったです。ハイボール牧場や……アーリィを……」
「……」
アーリィという名前を聞いて俺の胸はチクリと痛む。
それを誤魔化すために俺もまたウィスキーを口にした。
アルコールの熱に紛れ、胸の痛みが少し和らぐ。
ジムさんも俺のことを察してくれたのか、それ以上は何も言わない。
「にしてもワイルドは随分と変わったですね?」
「そうですか?」
「なんとなく、その、前よりも精悍な雰囲気になったような気がするのです」
「少し大人になっただけですよ」
「そうですか?」
「そうです」
俺とジムさんは揃って酒を口へ運ぶ。
ジムさんはきっと、敢えて精悍というどっちでも解釈のできる言葉を使ってくれたんだろう。
力強く、鋭い顔つきという意味は取り方によっては好意的にも、そうじゃない表現としても取れる。
自分が変わった、という自覚はある。
アーリィがプラチナに殺された二年前、きっと前の俺はその瞬間に死んだ。
今、ここにいる俺は二年前の俺じゃなくて、ただ一つの目的を果たすためだけに生きているに過ぎない。
未来への希望なんてないし、今あるのはこの胸の中の想いを遂げることのみ。
―――アーリィの仇を討つためにプラチナを殺す。
そしてプラチナを殺した後に、俺自身もこの世から消え去る。
その願いさえ叶えばもう何もいらない。
この世界がどうなろうと構わない。
「ワイルド、怖い顔してどうしたですか?」
気が付くと、ジムさんが少し寂しそうな表情を俺へ向けていた。
「すみません、なんでもありません。お代わり頼みますか?」
ジムさんと俺のショットグラスは空になっていた。
「お願いしますです」
「マスター、同じものを二つ」
マスターは音もなくグラスを下げ、素早く二杯目を俺たちの前へ置いた。
ジムさんは早速グラスを傾け、酒を流し込む。
酔い始めているのか、ジムさんの横顔は赤かった。
「ねぇ、ワイルド……」
ジムさんがゆっくりと俺の方へ視線を傾けてくる。
ニヤリとした笑みを浮かべているジムさんに俺は懐かしさを覚える。
―――これってもしかしてエビルジムさんか?
「さっき大人になったって言ってたでぇすよねぇ?じゃあ、もう済ませたでぇすかねぇ?」
「? なんのことですか?」
「とぼけるんじゃないです。ハーパーと二年も一緒に暮らしてたでぇすよねぇ?」
なんとなくジムさんが言いたいことが分かった。
確かに一番俺が荒んでいたとき、ハーパーに酷いことをしかけたことはあった。
今でもあの時のことを思い出すと、アイツ(ハーパー)に申し訳ないことをしてしまったと思い胸がチクリと痛む。
「何もありませんよ。ハーパーとは」
「本当にでぇすかぁ?」
「ええ。天地神明に誓って」
「ほぅ……そうでぇすかぁ……なら……」
突然、ジムさんが俺へ近づいた。
気が付けばジムさんは俺の右腕に抱きついている。
相変わらず身長に見合わないたわわな胸が俺の二の腕に遠慮なく押し付けられていた。
「20歳の誕生日です。未だなら私は如何ですか?」
ジムさんは頬を赤く染め、上目遣いで妖艶な笑みを俺へ向けてくる。
一瞬、俺の心臓がドキリと鳴った。
二年が経ち、ジムさんは少し妖艶な雰囲気になったと思う。
ミステリアスで、まるで俺が手のひらの上で心地よく転がされている感じがする。
きっと今のジムさんに身も心も委ねてしまえば、全てを綺麗に絡め取ってくれて、何も考えず、ただ快楽を貪り続ける、本能に赴くままの自由な時間を過ごせるんだろうと思う。
でも俺の心は直ぐにストップがかかった。
「ジムさん、凄く魅力的になりましたね。それに綺麗になったと思います」
「私も大人になりましたですからね」
「でもすみません。せっかくのお誘いは気持ちだけ頂いておきますよ」
「……どうしてですか?」
「俺には……アーリィがいますから」
アーリィは目に見えない形になってしまった。で
もアーリィは今でも俺の胸の中で生き続けている。
そして俺が愛しているのはこの世界でアーリィただ一人だけ。
「ベタ惚れなのですね?」
ジムさんは俺の腕に抱きつきたまま静かに問う。
「ベタ惚れです。俺が愛してるのはアーリィだけなんで」
「ここで私がワイルドに一生尽くすと言ってもですか?」
「はい」
「私は本気ですよ?二年前ハイボール牧場で出会ってから今日まで私はずっとワイルドのことが好きだったです。いつもふざけてるように見てたかもしれなかったですけど、アレはただの照れ隠しです。だから今はこうして思い切ったです。正直すごく恥ずかしいです。でも伝えるのなら今だと思ったです」
「ジムさん……」
「もう一度聞くです。もしワイルドが私のことを受け入れてくれたなら、私のことを好きにしていいです。私はそれにこの人生をかけて答え続けるです。君が心穏やかに、毎日を楽しく暮らせるよう、この身も心も捧げるですよ……?」
ジムさんの気持ちは嬉しかったし、今の言葉は冗談ではなく、嘘偽りのない本気のものだとだと感じた。
正直、こんな俺にそこまで言ってくれたのは嬉しかった。
だけどやはり、どんなに気持ちをぶつけられても俺の心は動かなかった。
「……すみません。俺にはアーリィしかいませんから……」
「……そう、ですか……」
俺がきっぱりと答えると、ジムさんは暫くして俺の腕から離れた。
彼女の横顔にほんの少しだけ涙が浮かんでいるように見えたが、それは直ぐに消えてなくなる。
ジムさんはショットグラスのウィスキーを一気に飲み干し、ひと呼吸置いて俺の方を向く。
怒っているのかと思ったが、ジムさんは朗らかな笑顔を浮かべていた。
「ついに私、正面切って振られちゃったですねぇ?」
「すみません」
「じゃあワイルド、ここからは君の誕生祝いじゃなくて私の失恋祝いに付き合うです!」「振られたのに祝杯ですか?」
少し酔の回っている俺は、うっかり昔の調子で言ってしまう。
でも、ジムさんは笑顔を返してきてくれた。
「そうです、お祝いです。なんてったって人生初の失恋なのですから、これが記念じゃなくてなんなのですか?」
軽やかにそう言うジムさんを見て、彼女自身の根本は何も変わっていないのだと内心安心する俺がいた。
口達者な隣にいる彼女とのやりとりは二年前の、辛いこともたくさんあったけど、でもいつもみんなでワイワイとできた旅路を思い出す。
「マスター、さっきのウィスキーをボトルで」
「かしこまりました」
マスターは新しいボトルを取りに静かに裏へ向かってゆく。
「ここからは俺の奢りです。飲みましょう」
俺がそう提案すると、
「当然です!こんないい女を振ったんですからボトル一本では足りないくらいなのです!」
「そうですね。じゃあジムさんが満足いくまで飲んでください。付き合いますよ」
「覚悟するのです。ワイルドの財布を空にしてやるのです」
「どうぞお手柔らかに」
裏に下がったマスターが新しいサント・リー特製のウィスキーが入ったボトルを持って戻ってくる。
俺とジムさんは互いに酒を注ぎあって、飲み続ける。
夜は更けても興奮は冷めやらず、懐かしい会話は極上の肴となって酒を進ませる。
俺とジムさんは飲み続け、穏やかで懐かしい夜は緩やかに過ぎてゆくのだった。