放課後のフルート吹き
優美な音色に誘われるように私の足はそこへと向かう。
放課後の校舎には人気もなく、夕陽だけが廊下でたたずんでいた。
ドアの隙間から音が零れ落ちる。そっと中を覗くと、彼の姿があった。
夕陽を浴びてきらきらしている彼。それだけでもう立派な芸術のよう。
彼の手にあるものがきらりと瞬き、音色が途絶えた。
そっとドアを開ける。彼はぱっと振り返った。
「あ、茜。まだ帰ってなかったんだ」
彼は白い歯を少し見せて微笑む。
「コンクール……もうすぐだね」
「ああ、うん」
彼は手を休めることなく応じる。
「調子はどう? 桐斗くん」
「うん、まあまあかな」
はにかみながら言う彼。
彼の柔らかそうな髪がふわりと揺れる。
「まあまあ」とか言っているけど、彼が本調子なのはわかってる。だって音がいきいきとしていたから。
フルートを布で丁寧に拭きながら、彼は口を開いた。
「茜には感謝してるんだ。いつも僕のこと支えてくれてさ」
「……うん」
彼は依然下を向いてフルートを拭いている。
「茜がいなかったら、僕はここまで頑張れなかったよ」
「あはは、大袈裟だよ」
「ほんとだって」
「まあでも、桐斗くんに合わせられるのは私くらいしかいないかもね」
「……よく言うよ」
私が笑うと、彼はふっと顔を上げた。 夕陽が眩しいのか、少し目を細めて。
「ついてきてるだけかと思えば、いつのまにか茜にリードされてたりね」
「だって桐斗くん、ときどき暴走するもん」
「そんなつもりないんだけどさ」
苦笑してまた俯く彼。
伏せられた睫毛が実は長いなんてことは、もうとっくに知っているよ。
「どうだった?」
「……え? 何が?」
「さっきの演奏」
「ああ……」
もちろん聴いていたけど、正直に言うと演奏よりもその姿が印象的過ぎて。
「よかったよ」
「……その間は何?」
彼はふてくされたようにくちびるを突き出す。
「よかったってば。なんていうか……物悲しい曲調が夕陽に引き立てられるみたいで、すごく幻想的だった。……ボキャブラリー少ないんだから、これで勘弁してよね」
かわいくない、私。
そんな私を気にする様子もなく、彼は窓の外を見る。
髪はオレンジ色。夕陽が眩く、彼自身を引き立てていく。
「確かに……この時間ってなんだか、センチメンタルになるよね」
そう、私の心の中と同じ。
私の心中を知るはずもない彼は、振り返ると私の顔色をうかがうように見た。
「技術面は問題なし?」
「私が言えたことじゃないよ」
少しふてくされながらそう言うと、彼は声をたてて笑った。
「そうだね。まだ茜はときどきミスするから。十六分音符、トチらないように!」
先生気取りでびしっと指を突き付けながら言う彼に、苦笑して返す。
ふと外を見れば、夕陽は西の空に沈みつつあった。
「夜が来るね」
――来なくていいのに。
彼とこうして過ごす時間が、ずっとずっと続けばいいのに。
「今日は帰ろうか。また今度合わせようよ」
フルートはケースにしまわれ、パチリと鍵が掛けられる。
私と彼を繋ぐ時間が、終わる合図。
「送ってく」
そう言って微笑む彼。
誰にだってやさしいのも知ってる。
だけど今だけは。
そのやさしさが私にだけ向けられる。
私は彼のパートナー。
その期間は、あと一週間しかない。
「ちゃんと家でも練習してよね」
「してますっ」
完全ふてくされモードに入る私をからかう彼。
「冗談だって。茜の腕を見込んで伴奏者を頼んだのは僕なんだから。きみの演奏に文句をつけるわけがないよ」
照れくさくなって、でも表向きは非難がましく彼を睨みつける。
「ほんとだって」
彼の笑顔は、罪だと思う。
ツンとすました顔をしていたいのに、ついつい頬がゆるんでしまう。
夕闇を引き連れて、微笑みあいながらふたりで歩く。
こんなふうに彼の隣を歩けるのもあとわずか。
縮まるようで、縮まらない彼との距離がもどかしくなる。
だけど。
そのときまでは――。
「ねえ」
私が感傷に浸っていると、ふと声を掛けられた。
「今週の日曜、ヒマ?」
「うん。なんで?」
「休日出勤。練習しようよ」
――彼の時間を独占したい。
「いいよ」
「じゃあまた音楽室で」
手を振って去る彼の背中に思いを馳せて。
「好きだよ」とそっとつぶやいた。
短編だけど、続きます。(長くなりそうだったら短期連載にします)