(二)老夫婦
(二)老夫婦
気が付いたとき、俺は畳敷きの部屋に寝かされていた。
毛布が掛けられている。六畳ほどの和室で、
丸い座卓の上にはポットとミカンが置いてある。
電気ストーブがジジジと微かな音を立てている。
突然、部屋のふすまがスッと開いた。
七十歳ぐらいの小太りの婆さんが立っていた。
「あら、起きたわよ! ちょっとアンタ起きたわよ!」
婆さんは俺を見るなり驚いた顔をして
部屋の外へとバタバタと駆け出していった。
誰だろう? 店長の奥さんだろうか?
しばらくすると婆さんは店長を連れて入ってきた。
「大丈夫ですか、お客さん」
店長は心配そうに聞いてきた。
「あ、ええ、はい」
上半身を起こしながら曖昧に答える俺。
「あの、ココはドコですか?」
「アタシたちの家よ、お店のすぐ裏にあるの」
「そうですか」
「すいませんねぇ、突然停電したものですから……
この辺では良くあるんですよ」
店長はペコペコと頭を下げながらそう言った。
原因は分からないが、なぜかこの一帯は停電が
頻発するんだそうだ。
「真っ暗になって悲鳴が聞こえたから懐中電灯を
持って店内に戻ったら、お客さん倒れてたでしょ。
アタシしゃもう心臓が飛び出しそうになったわよ」
奥さんとおぼしき老婆は、甲高い声で言った。
「お怪我はありませんか? 頭とか打ってないですよね?」
「大丈夫です。転んだりしたわけじゃないので」
あれは何だったんだろう。
黒い顔、そして赤々と光る眼を持った少女……
思い出すだけで寒気がする。
「ところで停電中、店内に他に誰かいませんでした?」
俺が聞くと、店長と奥さんは顔を見合わせた。
いいえ、誰もいませんでしたよ……と奥さんは言い、
店長もそれに同意するように頷いた。
「俺以外に子供のお客さんが居たと思うんですが、
白いワンピースを着た女の子が」
すると途端に二人の顔色が変わった。
「た、たぶん気のせいですよ。
うちには子供はいませんから」
「そうですか……でもおかしいな、たしかに見たんですよ。
身長一メートルぐらいで、真っ黒な顔をしていて
髪は肩ぐらいまで伸びていて、眼が赤くて、口は……」
「そんなものは居ません! 居ないんだ!」
突然、店長は強い口調で言った。
奥さんはうつむいたまま黙っている。
あまりの剣幕に、俺が愕然としていると、
店長は、はっと我に返り、そして気まずそうな顔をした。
「あ、ああ、すいません。
私そろそろ店の方に戻らないと……」
店長は逃げるようにそそくさと部屋を出ていった。
只事ではない何かが、この老夫婦にあったのだろう。
それは多分とても恐ろしく、口にするのも
憚られるような事なのだろう。
ま、詮索するつもりは毛頭ない。
だいたい俺はただの大学生だからな。
警察や探偵じゃあるまいし、首を突っ込んでどうするよ?
それに今は長野の実家に帰省する途中。
こんなところで道草を食ってる場合じゃない。
「ごめんなさいね。うちの人、ちょっと疲れてるのかしら」
奥さんは申し訳なさそうに言った。
「いえ、こちらこそ変なことを言ってしまって、スイマセン」
「もう少し休んで行きます? 夕飯まだでしたら
お詫びに何かご馳走しますよ」
「ああ、いえいえ、そんな……」
俺は両方の手のひらを前に突き出した。
「俺、そろそろ行かないと……
A市にある実家に帰省する途中なんです。
遅くなると家族が心配するので」
俺は腕時計をちらりと見ながら言った。
すでに夜八時半過ぎ。
A市まであと二時間ぐらいはかかるだろう。
のんびりしていると帰宅が遅くなってしまう。
「んんん……んんん……」
突然、天井裏のほうから低い唸り声が聞こえた。
俺はビクリと体を震わせ、あわてて奥さんのほうを見た。
だが奥さんのほうは別段変わった様子もなく、
驚き怯える俺を不思議そうな顔で見ていた。
どうやら奥さんには何も聞こえてないようだ。
「んんん……んんん……」
もう限界だった。
俺は情けない悲鳴を上げながら慌てて部屋から逃げ出した。
コンビニ前の駐車場に行くと、ヘルメットもグローブ付けずに
バイクに飛び乗って急発進した。
前輪が浮き上がりそうになる。
ぐいっと前かがみなって前軸に荷重を掛け、
暴れ馬を無理矢理押さえ込んだ。
バックミラーに映るコンビニの明かりが、
みるみる小さくなっていく。
凄まじい寒風が顔や手に容赦なく突き刺さる。
しかしそれでもスピードを緩めずに、全力で走った。
十五分ほど走った。
落ち着け、落ち着け……と自分に言い聞かせながら
徐々に減速して、路肩にバイクを止めた。
コンビニからはかなり離れたし、もう大丈夫だろう。
俺は道端にへなへなと腰を下ろした。
あらためて周囲を見渡す。
沿道は相変わらず雑木林ばかりで真っ暗だ。
その暗がりから、まだ少女の赤眼が見ているような気がして
風で木々がざわめいただけでもビクッとしてしまった。
我ながら情けない。でも、あんな怖いものを見た後だし、
ビクビクするのはしょうがないよね。
深呼吸した。冷たく乾いた空気を吸って、ちょっとむせた。
びゅうと夜風がひとつ吹いた。また木々がざわめく。
しばらくすると、林の中のずっと奥のほうから
風音に混じって何やら妙な音が聞こえてきた。
「ん…ん……」
なんだ? なんの音だ?
俺は耳を澄ませた。
「んんん…」
音じゃない、声だ! あいつの声だ!
「んんん…んんん…」
次第に大きくなってくる。
ヤバい、どんどんこっちのほうに近づいて来てる。
俺を追いかけてきたのか!?
慌ててヘルメットとグローブをつけて、
俺はまたバイクを急発進させた。休んでる場合じゃねぇ!
さっさと山道を抜けて街の方に出ねえとマジでヤバい。
峠で磨いたライディングテクニックのすべて駆使して、
全力でバイクをブッ飛ばした。
バックミラーは見なかった。
恐ろしくて見ることができなかった。
暗かった県道も次第に人家や街灯が増え、そして長野県の
A市内に入った。
行き交う車は多くなり、道路脇にはコンビニやスーパー、
ファミレスなどが立ち並んでいて、視界が一気に明るくなる。
街の灯りを見て安堵すると、急に涙が出てきた。
大げさだが、異世界から人界に戻ってきたような気分だった。
市内にある実家に着いたのは午後十一時。
「ヒロシ、遅かったわね。
事故でも起こしたんじゃないかと心配してたのよ」
玄関で出迎えてくれた母に、道中いろいろとあってね、
と曖昧に答えた。とんでもなく恐ろしい目に遭ったのだ。
つい先ほどコンビニで体験した出来事を母に話そうと思う。
多分信じてはもらえないだろうけどね。
「あらヤダ、お鍋に火をかけっぱなしだったわ」
母は慌てて台所の方へ駆けていった。ドジっ子だなぁ。
玄関で靴を脱ごうとしたところで、
妹の鏡花がちょうど二階から降りてきて玄関の近くを通った。
高校一年生のとにかく生意気なクソガキだ。
黒の素地に黄金竜がプリントされた馬鹿ヤンキー
丸出しの痛いジャージを着ている。
ちょうど反抗期真っ盛り。父や母には悪態をつき、
俺がたまに帰省すると罵詈雑言を吐きながら暴力を
振るってきたりする。
いつも不機嫌そうな顔をしていて、ハッキリ言って
少しも可愛くない。
できれば顔も見たくない。死ねばいいのに。
そんな鏡花だが、なんだかいつもと様子が違った。
両手で口を押さえ、目を大きく見開き、俺のほうを見ていた。
華奢な身体が震えている。
どうしたんだ、何かがおかしい。
よく見ると、妹は、俺の、右肩の、あたりを、凝視、して、いた。
「んんん……んんん……」
後ろの、ほうで、声が、した。
「んんん! んんん!」
焦げるような臭いが漂ってくる。
妹は腰を抜かして床にへたりこんだ。
俺はゆっくりと後ろを振り返った。そこには……。