十 『霞む自我』
《鬼切国成》の存在は、瞬く間に離島の妖怪に勘づかれたらしい。
結希が《鬼切国成》を帯刀したまま移動すると、彼らもまた逃げるように移動する。心春の言霊で動きを封じ、鈴歌の小型一反木綿で彼らを縛ったりしなければ、終わりが見えないほどだった。
結希はため息をつき、式神の家に帰った間宮家式神の言葉を思い出す。
『結希てめぇ! 動きが鈍いんだよ殺すぞ!』
『ゲンブ! 結希様になんてことをおっしゃるのですか! 謝ってください!』
『しょうがないよゲンブ。木刀と《鬼切国成》とじゃ格が違うんだし』
『そうですね……。結希様、《鬼切国成》の重さに慣れる為、常に帯刀しておくことを心がけていてください』
怒るスザクに赤面しながら逃げるゲンブ。そんな彼の言葉を補足したビャッコとセイリュウの言葉に従い、《鬼切国成》を入れた刀袋を背負った結希は宿を見上げた。
さすが陽陰町のカラオケ大会の景品というべきか、宿がある場所は海に近く、大小様々な小洒落たログハウスが立ち並んでいる。
その中でも一際大きなログハウスを貸し切っているのだから、元貧乏人の結希にとっては贅沢すぎるほどだった。
「お疲れじゃったな、結希」
「朱亜姉ほどじゃないですよ」
先を越す朱亜は立ち止まり、くるりと振り返って結希を見上げる。そして腰に手を当てて、呆れたように頭を振った。
「何を言う。初めて刀を握ったとは思えぬ戦いぶり、実に見事じゃった。その上数多の術式まで駆使したのじゃから、此度のお主の功績はとても大きい。のぅ、鈴歌?」
「…………意義なし。山にこもって修行でもしてた?」
「それは秘密です」
わざとらしく唇に人差し指を当て、そのまま何かを言いたそうにそわそわと揺れる心春に視線を送る。目が合った心春はびくっと両肩を上げ、赤面しながら何度も何度も頷いて自らの口を両手で覆った。
結希は健気に約束を守ろうとする心春に思わず笑みを零し、全速力でログハウスへと向かう月夜と幸茶羽の後を駆け足で追う。
「ただいま〜!」
デッキから扉を開けて中に入った月夜は、一時帰宅時のままになっているリビングの奥で立ち止まった。らしくもなく全力疾走した幸茶羽は膝に手をついて喘ぎ、辺りを見回して再び奔放な姉に追随する。
そんな双子を眺めながら刀の置き場所を探していると、すぐさまキッチンへと向かう朱亜が双子に声をかけた。
「月夜、幸茶羽。あと心春は手伝ってくれるかのぅ?」
「は〜い!」
「わかった」
会話は聞いていたが目を離した隙に駆け出した双子にぶつかり、結希はみぞおちを抑えながらゆっくりと《鬼切国成》を床に置く。
「ユウ、大丈夫〜?」
「……かなりキツイです」
膝をついて頭を下げていると、不意に和夏が声をかけてきた。
最近よく声をかけてくるようになった和夏は傍らにしゃがみ込み、にこやかに笑って膝に肘をついている。
何がそんなに面白いのか、それともその表情がデフォルトだったのか──様々な和夏を見た結希には、何一つわからなかった。
真っ先にソファに座った鈴歌と涙は、背もたれにもたれながら結希を見下ろす。目が合うと何故か逸らされて、膝をついていることに羞恥を感じて大人しく立ち上がると──朱亜を筆頭にした四人がバーベキューの準備をする為に箱を開けているのが見えた。
「手伝いましょうか?」
「お願いじゃから結希だけは何もしないでおくれ」
声をかけると何故か全力で拒絶されて、結希は首を傾げながら和夏と同じソファに座る。対面にいる涙は唇の端をふるふると上げて笑いを堪えていたが、やがて持ち直して結希を見据えた。
「暇な時間は報告会です。鈴歌、和夏、半妖視点で見た離島の妖怪はどうでした?」
「…………町の妖怪と大差なし」
「ワタシも鈴姉と同じかなぁ? でも、戦い慣れしてなさそうだったよね」
「確かに、ずっと逃げてましたもんね」
結希はため息をつき、島全体に響いていた『ニゲロニゲロ』という妖怪の大合唱を思い出す。
町内の妖怪は自らの敵を殺すことしか考えていないが、島内の妖怪は世間話のような他愛もない話しかしていなかった。
その違いだけが、どうしてもわからない。
「逃走理由は不明です。何故俺たちを攻撃しなかったのか、これも非常に謎です」
「《鬼切国成》に怯えてたからだろ」
今でも耳にこべりついている大合唱のせいで気分が悪くなり、最近になって活発に喋り出した妖怪を恨む。なのに、島内の妖怪に敵意がないことだけが妙に気がかりだった。
「…………怯えてた?」
「あ、言われてみればそうだったかも」
和夏はぽつりと呟き、野性的な勘が発達しているあの瞬間の自分を思い返す。
「怯えてましたよ」
実際にこの耳で聞いた結希は断言したが、首を傾げた和夏に目を疑った。
「……あれぇ? おかしいな。みんなと一緒に戦ってたはずなのに、ワタシまた寝てたっけ……?」
「…………起きてた」
和夏は断言した鈴歌に安堵し、それでも再び不安そうに首を傾げる。
結希は絶句し──そして、あの野性的な和夏でさえ和夏ではないのかと視線を伏せた。
「結希、本当に妖怪は戦慄でしたか?」
「本当だ。涙も見てただろ」
涙は肯定し、それでも自信がなさそうに伏し目になる。
信じられなかった。あんなにもはっきりと聞こえ、あんなにも目に見えて怯えていたのに、誰一人として確信が持てていないなんて。
結希は頭を抱え、不意に幻覚という可能性に辿り着いた。
昔から定期的に見ていたそれが幻覚だとは思わなかったが、そうでないのならこの違いは説明できない。妖怪の声でさえ幻聴というのなら、それは六年も前からということになる。
記憶を失くし、意識を取り戻し、戸惑いながらもそれを見せまいと虚勢を張っていた朝日が妖怪を見せてくれたあの時から──。
「ユウは凄いねぇ」
「……え?」
一気に不安に苛まれた結希の心を、にこやかに笑いながら包み込んだのは和夏だった。
彼女のせいで伏せていた視線を上げ、結希は隣で笑っている不安定で不完全な義姉を見つめる。
「だって、ユウは嘘をついてないから」
それの何が凄いのか、それの根拠はなんなのか。
和夏の言っていることはいつだっていまいちわからない。
「匂いが本当だって言ってるもん。だから、妖怪が怯えてたのは本当なんだよ」
和夏は猫目を輝かせ、鈴歌と自信のなさそうな涙に熱心に語りかけた。
「…………ワカナ」
鈴歌はぽつりと呟くように彼女の名を呼び、静かに涙へと視線を向ける。鈴歌に見つめられた涙は、薄花色の瞳でしっかりと和夏を見つめていた。
「肯定です」
充分な間を開けて頷いた涙は、和夏の言葉を信じた。そして、結希の言葉を信じた。
「結希は不要な嘘をつきません。それだけは俺が保証です」
「…………大丈夫。ボクも、保証してる」
無表情が多い二人は相好を崩し、今度は結希へと視線を移す。その信頼しきった瞳が──今は、とても、苦しかった。
結希は決して嘘をつかないわけではない。
六年以上前の記憶もなければ、幻覚も見えるし幻聴も聞こえる。
自分でさえ自分が信じきれなくなって、和夏のことでさえ今は信じられるかどうかも怪しくて。
結希は唇を噛み、立ち上がって、あてがわれた部屋へと足を向けた。
「結希、どこへ?」
「部屋で寝てる」
もう話したいことはない。それ以外はいつも通りだったから、今はもう放っておいてくれ。
しばらく一人になりたくて、結希は本当に足を止めなかった。涙との相部屋へと戻り、ベッドに倒れ込み、長い長いため息をついた。
*
米を食べても、この靄は晴れなかった。
肉を食べても、野菜を無理矢理口の中につっこまれても、自分への不信感は拭えない。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「ん〜、もしかしてお腹痛い?」
心春と和夏には苦笑いで応え、無理矢理自分の皿に野菜を乗せ続ける朱亜を肘で突いて月夜と幸茶羽に押しつける。
「ひぃっ、お野菜?!」
「こ……っの下僕が! 無礼だぞ!」
怒る幸茶羽から逃げるようにデッキから離れ、結希は堤防にまで出て何気なく夜空を見上げた。
陽陰町の真上で輝く幾千の星々と変わらない星屑が、この夜空にも広がっている。蔓延る妖怪は違うのに、妖怪よりも永くこの星に存在している大自然はどこまでも同じで相違はない。
一体何が違うのか──。
世界の理を知らない結希が考えても何もわからなかった。このまま一生かかっても理解できそうにない妖怪と戦って死ぬのか。
そう思って──
「僕らに違いなんてないっ!」
──心臓が止まるかと思った。
「僕らに違いなんてないんだよ。だって、僕らは、同じ血が通った人間同士なんだから。僕たちはどこまでも一緒なんだよ」
そして脈を打ち、血が巡る。
「例え違いがあったとしても、君が言うその違いのどこがいけないんだい? 違ったっていいじゃないか!」
結希は視線を堤防の真下に向け、満月へと腕を伸ばす女性を視認した。
「僕は君と一緒にいたい。一緒に生きて、僕たちの夢を叶えたいんだ!」
彼女は煌々とした笑みを浮かべ、誰かを惹きつけるような光を放っている。
だから思う。彼女もまた、自らが敬愛する百妖家の眷属なのだと。
「──一緒に旅に出よう、ルドルフ!」
そうして月を掴んだ鈴歌は、間を置いて表情を曇らせた。
ため息をつき、傍らにあった柵に肘をついて滑らせる。額を盛大にぶつけた鈴歌はすぐさま飛び退き、今までの怠惰っぷりからはまったく想像ができないような俊敏な動きを結希に見せた。
「……何してるんですか」
息を呑んだのは一瞬で、危なっかしい鈴歌に声をかける。
鈴歌は勢い良く振り返り、そこでようやく結希の存在に気がついた。
「…………ユ、ウキ」
いつもの鈴歌がそこにいる。彼女は一気に顔を赤らめ、慌てて額を隠した。
「絆創膏持ってきますか?」
「…………いい。唾つけて、治す」
「ばっちいですよ」
夜風が吹いて、手を退けた鈴歌の前髪が柔らかく揺れる。
赤い血が滲んでいるが、彼女は半妖だ。言葉通り、唾をつけていればすぐに治る。
「……気をつけてくださいね。あと、冷えますよ」
そっと言葉を零し、結希は踵を返した。
涙の言う通り、離島の夜は少しだけ冷える。頬を撫でる風が冷たいと思うほどに。
「…………オーディション」
足を止めて振り向くと、鈴歌が結希を見据えていた。
「…………オーディション、受ける。今度」
何かを訴えかけるように、まっすぐと。恥じる様子も見せず、堂々と。
「…………かな姉と同じ事務所の、オーディション。そこで、声優になる」
伝える為に、言葉を紡ぐ。
「…………それが、ボクの夢」
切なそうな、今にも揺れそうな瞳だった。
叶うかもわからないそれを掴む為に、殻を破ろうとする鈴歌がそこにいる。
「…………だから、見ててほしい」
誇らしげに微笑して、鈴歌は少しだけ胸を張った。
万人からは褒められないかもしれない。それでも結希は、彼女の大きな一歩をこの目で確かに見た。
それがあまりにも尊いことのように思えて咄嗟に言葉が出なかったが、言える言葉は一つだけだと思う。
「見えてますよ、鈴歌さんの努力は」
見ていなくても、見えている。鈴歌は複雑そうに見えて意外と単純なのだ。誰よりも繊細で、誰よりも臆病なのだ。
結希が相好を崩すと鈴歌は息を呑む。そして決意を表情に刻み込み、持っていた薄汚れた台本を握り締めた。
初対面の頃、何を考えているのかわからなかった鈴歌はいない。わからないのは自分と、和夏だ。
結希は何度目かもわからないため息をつき、それでも妙に晴れやかに前を向いて歩き出す。
妖怪に違いなんてない。だって彼らは同じ妖怪だから。人が人と同じであるように、妖怪は妖怪と同じなのだから──。
いつだって、そう思っていたかった。




