八 『本物と偽物』
潮の匂いというものは、こんなにも鼻を突くのか。
結希は鼻頭を擦り、道よりも果てしない広大な海を呆然と眺める。空と海の果ては視認できるものの、それはきっと結希が旅してきた距離よりも長いのだろう。
──世界はこんなにも広いのだと、誰かの声が頭を幾度となく殴っていた。
結希は震える素足で砂を踏み、足裏で弄って貝殻を見つける。結希が知っている貝よりも美しいその殻は、何故か少しだけ欠けていて歪だ。だが、真夏の太陽光に反射して輝いている。
そのアンバランスな美しさに結希は見惚れ、気づけば拾い上げていた。
「お兄ちゃ〜ん! 泳がないの〜?!」
視線を移すと、真っ先に駆け出して行ったスクール水着姿の月夜が浅瀬ではしゃぎながら手を振っていた。隣の幸茶羽は手こそ振らなかったが、どことなく楽しんでいるように見える。
結希は二人に向かって手を振り、首を横に振った。
「ここで見てるよー!」
末妹の二人にカナヅチだとバレるわけにはいかない。知られたら最後、どんな顔をして兄貴面をすればいいのかわからない。
結希は笑顔で必死に隠し、来て早々砂山を作る和夏に倣ってしゃがみ込んだ。
「和夏さん、これあげます」
「え、いいの? ありがとうユウ〜」
水面のように美しく光る和夏の瞳に結希は思わず笑みを零し、和夏の掌で転がる貝殻を眺める。受け取った和夏はそれを指先で摘み、砂山の頂上に飾って満足気に頷いた。
「和夏さんは泳がなくていいんですか?」
「あはは、ワタシ泳げないんだ〜。お水はあんまり好きじゃないから、ワタシもここで見てるよ」
そう言った和夏は、白いパーカーの上にマフラーを巻いている。巻いていない日などない黄緑色のそれは所々が解れており、砂に垂れている部分は汚れていた。
「引きずってますよ、マフラー」
大切なものだというのに、巻ければどうなってもいいのだろうか。結希はマフラーの両端を掴み、適当に和夏の首に巻きつける。
「ユウ、待って、暑い……すごく暑い」
ならば何故マフラーを巻いているのか。結希は呆れたように息を漏らし、名前を呼ばれて顔を上げる。
ふんわりとした癖のある黒髪のポニーテールは微風に揺れ、ショッキングピンク色のバンドゥビキニが色白の美肌に映えている。着痩せしているのかそれとも寄せているのかは定かではないが──歩く度に二つの球体が揺れていた。
最近になって化粧水だの乳液だのと言い始めた鈴歌は、モデルと見間違うほどに美しくなっている。彼女が出てきた瞬間から、誰もが立ち止まってこっちに視線を向けているほどだ。
「…………お待たせ」
が、鈴歌は明らかに生気が抜かれたような声を出し、具合が悪いのか顔を青ざめさせていた。
結希は視線を逸らし、密かに深呼吸をして気を紛らわせる。着ていたパーカーの裾で口元を覆えば、鈴歌は結希の傍らにしゃがみ込んで静かに項垂れた。
「……パラソルとか持ってないんですか? あんた暑いの苦手でしょ」
「…………ルイ先輩が借りてる、はず」
視線を戻すと、鈴歌は結希の陰で涼もうとして丸くなっていた。が、灼熱の砂に耐えきれずに足踏みを続けて滑稽な姿を晒している。
「大丈夫かのぅ? 鈴歌」
聞き慣れた声に安堵して振り返ると、そこには想像を遥かに超えた格好をした朱亜がいた。
相も変わらず背筋だけは凛と伸び、海のように青い髪は今日も鈴歌とお揃いにしているのかポニーテールに纏められている。今までは服装も相俟って小学生のような容姿をしていたが、童顔とはいえ白いビキニを着ている姿は色っぽさを感じざるを得ない。
結希が言葉を失っていると、朱亜は結希の視線に気づいたのか頬を赤らめ──すぐさま持っていた白いシャツを羽織った。
「鈴姉、海の家まで運ぼうか?」
「…………いい」
和夏の申し出をほぼ即答で断り、鈴歌はさらに体を丸める。それでもまだ足踏みを止められないのだから、鈴歌の体調は悪くなる一方だった。
結希は渋々とパーカーを脱ぎ、無言で鈴歌の足元に落として立ち上がる。
不思議そうに視線を上げた鈴歌に「好きなように使っててください」と言い放ち、結希は海で泳ぐ末妹二人に視線を移した。
「…………あ、ありが」
「あれ? そういえばハルちゃんは?」
振り返った和夏は、辺りを見回して首を傾げる。
朱亜は女子更衣室の方へと視線を向け、腕を組んだ。
「心春はまだ更衣室じゃな。わらわたちが置いていったせいで、出られぬのかもしれん」
「二人とも、まだ心春のことを虐めてるんですか?」
移動時間をすべて削ってまで虐め抜いていたくせに、まだ足りないと言うのだろうか。治さなければならないというのは頭ではわかっているものの、荒療治にもほどがある。
「人聞きの悪いことを言うのぅ。せめて弄っていると言っておくれ」
朱亜はため息をついて、「やはり一人ではまだ無理か」と脱力した。そのまま更衣室へと足を向け、不意に立ち止まる。
「……嘘じゃろ?」
呟くように漏れたその声は何故か驚きを孕んでいた。まさかと思い振り返ると、そこには──
「お、お待たせ……っ!」
──俯き加減で全員の様子を伺う、心春がいた。
「は、ハルちゃん?」
「…………マジか」
清純な心春によく似合う、お下げにした桜色の髪と同色のタンキニ。体のラインがあまりわからないワンピースタイプのものを着ているが、それでも、年不相応に発達した二つの豊かな球体は隠しきれていない。
──自分は今、一体何を見ているのだろう。
そのギャップは鈴歌や朱亜の時点で既に発揮されていたが、心春のそれは二人の比ではなかった。鈴歌のように着痩せしていたわけでも朱亜のように色気を出したわけでもないのに、心春の破壊力はなんなのだろう。
頭が真っ白になり、何も考えられなかった。
「…………何故じゃ。何故わらわは今、予想外のところから反撃を受けているのじゃ」
「…………ムリ、死ぬ、ムリ。こんなの信じられない、同じ血が流れてるなんてウソ」
「…………なんでかな。どうしてハルちゃんを見てるとこんなにしんどくなるんだろ」
それは、和夏を含む三人も同じだった。
朱亜は苦しげに自分の胸を鷲掴み、鈴歌は心を閉ざすように結希のパーカーにくるまり、和夏は自分の胸の前で無心に手を振っている。
「待機感謝です。鈴歌、パラソル使用を強制で……ん? 三人は一体何をしているのですか?」
「触れない方が身の為だと思うぞ、涙」
やって来た水着姿の涙は首を傾げ、結希に視線を移して目を見開く。
「結希、衣服の着用はしないのですか? 丸見えです」
結希は苦笑し、背中の火傷跡と胸元の刀傷をどうすることもできないまま晒し続けた。
晒すことへの抵抗はあまりないが、どちらも他人に聞かれたら答えにくい傷だ。だからプールの授業は見学という形で休んでいたし、もちろんパーカーも欠かさずに着用していた。
あまりいい印象を抱かれるわけもなく、他人への配慮として今回も着ていたが──
「いや、なんで驚いてるんですか」
──本音は、絶句したまま傷跡を見つめる姉妹の為だった。
いたたまれなくなった結希が突っ込むが、誰も返す言葉を持たない。同じ傷を見た亜紅里は笑いたくても笑えないような反応をしていたが、彼女の方がまだ良かったと思う。
そんな風に、傷ついたような表情で自分を責めないてほしかった。結希が傷ついてしまったのは、姉妹のせいではないと理解してほしかった。
「ユウは、待ってるの?」
突然かけられた声に視線を落とすと、和夏が口を半開きにさせたままへたり込んでいた。
「ツキちゃんとササちゃんを、アナタはずっと──その日が来るまで待ってるの?」
緑色の瞳は、揺らがなかった。
その瞳には今まで感じたことのない意志が多分に含まれている。だから、和夏なのに和夏じゃない──また、そんな感覚に陥ってしまう。
「そういえば、初めて会ったあの日も……お主は怪我をしておったな」
「…………それが、ツキヨとササハの能力だから。でも、あの日も能力は発動しなかった」
二人は俯き加減のまま思いを馳せ、ふと顔を上げて双子を探す。
何も知らずに遊んでいる月夜は視線に気づいて手を振るが、幸茶羽は表情を曇らせて結希を見つめていた。
幸茶羽は聡い子だ。姉しか──月夜しか見ていないという態度で居続けながら、末っ子のくせに周りがちゃんと見えている子なのだ。
熾夏ほどではないが、見えすぎているからわかっていたのだろう。初めて会ったあの日も、見えすぎていたから彼女は逃げたのだ。
「多分、ぼくの言霊でもお兄ちゃんの怪我は治るんだと思う」
ぽつりと、心春が呟く。
「でも、ぼくたちが初めて会ったあの日、お兄ちゃんの怪我は治らなかった。それを悔いて傷ついたのは、あのつきちゃんとささちゃんだから……残しておく傷があっても、いいと思う」
寂しそうに笑って、眉を下げ、視線を逸らし。
複雑そうな表情の変化に息が詰まり、逃げるように月夜と幸茶羽の元へと駆け出していく。
男性を避けながら辿り着いた先で二人を抱き締め、それを見た朱亜も駆け出していった。鈴歌は羽織っていたパーカーを結希に返し、パラソルを差した涙の腕を掴んで無理矢理引きずっていく。
「鈴歌、停止を要求です。俺は遊泳が嫌いです」
「…………ダメ。今は、死んででも一緒に泳ぐ」
「水死ですか? 俺は拒否です。生還を願います」
そんな小さくなる背中が痛々しかった。
結希は唇を噛み、パーカーを羽織る。それでも何故かそこにいたのは、和夏だった。
和夏は涙が用意したパラソルの下に腰を下ろし、取ったマフラーで目元を拭っている。
「……なんで和夏さんが泣いているんですか」
多分、海へと向かっていった三人もそうだったのだろう。泣き顔を見られまいとして、塩水で洗い流そうとして、結希の下から去っていったのだ。
「女の子はね、大切だって思っている男の子の傷なら、なんだって癒してあげたいんだよ。そういう生き物だっていうのを君は全然わかっていないんだ」
「俺だって、貴方たちの傷を治せるなら治したいですよ」
「根本が違うよ、結希。男の子は、女の子以上に無茶をするんだ。女の子がどれだけ止めたって聞きやしない。男の子には男の子のプライドってものがあるんだから、余計に厄介だね」
結希は眉間に皺を寄せ、今目の前で泣いている女性が誰なのかを一瞬思案する。
だが、茶色い癖のある髪も、彼女が握り締めている黄緑色のマフラーも、マスカットの匂いも──すべて、和夏のものだった。
「それに、男の子は女の子以上に無茶をする異性を良しとはしない」
マフラーに埋めていた顔を上げた和夏は、またもや結希の知らない和夏だった。さらに言えば、昨日結希が出逢ったあの和夏でもない。
「本当に、女の子以上に我が儘なんだ。男の子って奴は」
和夏は自虐気味に笑って、どこか遠くを眺めていた。
充血した瞳は、この数秒で泣いた涙の多さを物語っている。
「和夏さん、貴方は──一体誰なんですか?」
尋ねずにはいられなかった。
結希は震える声で和夏の心に触れたが、和夏は結希を流し目で見ただけだった。
「貴方は、誰ですか」
もう一度を試みて、瞑目した和夏に拒絶されたことを知る。だが──
「そんなに私のことが知りたいんですか?」
──瞼を開いた和夏はそうではなかった。
「家族ですから」
ごくごく自然な流れで答えたはずだったが、和夏は鼻で笑っていた。
「本当の家族でさえ気を遣って聞いてこないのに、養子の貴方が家族面ですか? ……滑稽ですね」
吐き捨てるように結希を刺した彼女はマフラーの端を持ち、口角を上げて最終的には嘲笑う。
「断言できますよ。貴方は絶対、本当の私には会えない。偽物の私にしか出逢わない宿命なんです」
瞳を閉じてマフラーを巻き、再び瞼を開いた彼女は──
「……んん……? あれ、ワタシ、寝てた……?」
──瞼を擦って首を傾げる、いつもの和夏だった。
「あ〜、おはようユウ〜」
結希は絶句し、普段通りすぎる和夏をまじまじと見つめる。
だが、不思議そうに結希を見上げている和夏は、嘘をついているようには見えなかった。




