六 『町外の調査』
何も知らないから、恐ろしい。それは妖怪という存在が証明している。
人間の姿に戻ってマフラーを巻き直した和夏は、結希の知る和夏だった。
日没となり、何も知らない亜紅里とスザクと合流して四人は百妖家へと帰宅する。玄関の扉を開け、ここまで届くクーラーの冷気にとろけ──自分のものではない高級感の溢れる男性用の靴を視認して、一気に肝が冷えた。
見覚えのあるそれに嫌な予感がして階段を駆け上がると──
「おかえりです、結希」
──リビングの椅子に座った涙が、我が物顔で結希のコップを使いお茶を飲んでいた。
「にぃっ! おかえり!」
同じくソファで寛いでいた紅葉は、火影を連れて結希に抱きつく。
「うわっ?!」
「会いたかったよ、にぃ〜!」
そして頬を胸板に擦り寄せ、紅葉は甘えた声を上げた。
状況がよく飲み込めず、視線で涙に助けを求める。だが、涙は無視を決め込んでキッチンで調理をする麻露と談笑をし始め、ソファでテレビを見ている朱亜と椿も、近くに置かれた車椅子で眠る真璃絵も、麻露の手伝いをする心春も、キャリーケースに荷物を詰め込む月夜と幸茶羽も、誰一人としてこの状況を違和感なく受け入れていた。
「み、皆様どうしてこちらにいらっしゃるのですか?!」
耐え切れなくなったスザクが結希の疑問を口に出すと、紅葉は目を細めながら結希を離す。
「なぁに? くぅがにぃのとこに来たのがそんなにおかしいの?」
「い、いえ! そういうわけではございませんが……」
「涙様が貴方方の旅行に同行する為、もとより前日からこちらに伺うことになっていたんです。姫様は涙様の付き添いで、火影は姫様の付き添いです」
火影が紅葉の威圧にたじろいだスザクに対して言葉を補うと、紅葉は不満そうに頬を膨らませて火影を睨んだ。
「はぁ? くぅはあんなゴミ野郎に付き添った覚えはないんだけどお?」
「姫様、涙様です」
「ゴミでしょあんなのっ。どうせあのゴミ野郎は一生アイツの代わりになんてなれないんだから!」
紅葉は両手を腰に当ててそっぽを向き、火影は悲しそうに眉を下げて結希に向かって頭を下げた。
亡くなった千羽の代わりとなり自分の身を犠牲にし続けている涙は、聞いているのかいないのか眉一つ動かさない。彼にも彼の家族がいるはずなのに、彼らから離れて自分のものではない使命を全うしている様はどれほど紅葉が罵ろうと尊敬されるべきものだと思う。
ここにいる涙は役人であり、陰陽師であり、次期国王の代理人である涙なのだから。その中に、結城涙という一人の人間の顔はどこにもなかった。
その証拠に、涙が結希に会いに来る理由に個人的な理由は一切ない。
涙は、誰よりも家族だと言う割には誰よりも冷たい血肉なき人間だった。
「ねぇねぇ、もう茶番は終わった? あたし早く中に入りたいんだけど〜」
わざとらしく結希を押し退けてリビングへと足を踏み入れた亜紅里は、紅葉を一瞥して冷ややかに口角を上げる。そんな亜紅里を真正面から視認した紅葉は、顔を引き攣らせて悲鳴を上げた。
「なんだ紅葉、騒ぐなら叩き出すぞ」
キッチンから顔を出した麻露は眉間に皺を寄せ、耳を塞ぐ結希に抗議の視線を浴びせる。
最初の頃は客のような扱いを受けることもあったが、最近では結希も麻露の理不尽な扱いを受ける被害者だ。結希は露骨に顔を歪め、一番相性が合わなさそうな従妹と義妹の頭をチョップした。
「おおっ、凄い音じゃのう」
「結兄ってあの二人には加減ないもんな〜」
あまりの痛さに床で悶え苦しむ二人を眺め、朱亜と椿は苦笑する。
「仲良くやれとは言わないから黙ってろ」
遅れて呆れたように結希が告げると、案の定不平不満が下から突き上げてきた。
紅葉の気持ちはわからなくもない。彼女は幾度も辛酸を舐め、その度に泣きじゃくった少女なのだから。
幼くして最愛の兄を亡くし、姫として人類から崇め祀られ、兄の代わりに多忙な日々を過ごす涙と疎遠になり、家を空けることが増えた両親の代わりに、記憶を失くした結希に甘えることしかできなかったのだ。
同い年の火影に頼ることもできず、今年になって会う機会が減っていった結希に頼ることもできず、数多の危機を経験した彼女がその元凶の一人である亜紅里を許すはずがない。
その上亜紅里がこの家に住んでいるともなれば、彼女の憎悪と苦渋の日々は決して報われないだろう。
だから結希は、仲良くしろとは言えなかった。
「なんで?! なんでこんなゴミ以下の女狐がこの家にいるの?!」
「役立たずなワガママお姫様にゴミ以下なんて言われる筋合いないと思いま〜す」
亜紅里は冷めた目つきで紅葉を見据え、鼻を鳴らして腕を組む。寝そべりながら繰り広げられる女の戦いに結希は僅かに後ずさり、何がどうなっているのかわからず頭を抱えた。
紅葉の気持ちはわかるのに、亜紅里の気持ちだけがわからない。元からわかるはずのないものだが、亜紅里が紅葉を嫌う理由がわからない。
「二人とも大丈夫〜?」
結希が黙考したまま我に返らずにいると、和夏が顔を出して二人を見下ろした。
「ふんっ」
「大丈夫大丈夫〜。ほんとゆうゆうのチョップって物理的解決すぎて強いよね〜」
「何言ってるの? アグ」
二人の手を引きながら下がった和夏の、幾重にも巻かれたマフラーの裾が目の前で揺れる。
結希は身を引きながらそれを眺め、少しだけ距離を取っている自分を厭った。
「つき、お姉ちゃんの言ってること面白くて好き〜!」
「ささは大ッ嫌い。何を言ってるのか全然わからない」
煌々と瞳の中の星屑を輝かせる月夜と、人とは思えない何かを見下したかのような幸茶羽。
和夏は荷物を纏める二人の頭を撫で、猫のように喉の奥を鳴らした。
火影は複雑そうな表情で不貞腐れる紅葉の機嫌を伺い、麻露の手伝いに行く亜紅里の後ろ姿を睨みつける。
注意深く全員を見ていた心春は亜紅里に場所を譲り、心配そうに紅葉を見つめながら結希の近くで立ち止まった。
「おかえり、お兄ちゃん。涙さん今日お兄ちゃんの部屋に泊まることになったから、後で布団運んでおいてね」
「……あぁ、ただいま心春。泊まるってどういうことだよ」
妖精のように愛らしく微笑みながら結希に話しかけた心春は、「あのね」と上目遣いになりながら説明する。
「明日からみんなで旅行に行くでしょ? だから涙さん、ここにいた方が効率がいいって言ってるの」
「効率って言うか、ただ単に泊まりたいだけなんだろうな」
結希はため息をつき、朱亜にお茶を淹れてもらっている涙の真意を探った。
他人は嫌だと、家族がいいと、なのに訪ねてくる理由はすべて仕事関係ばかりの血縁のない親戚は、少しだけ頬を緩めて朱亜に礼を言う。本当に、結希が誰よりも頼りにしている涙の本音はいつだって読めなかった。
「ねぇお兄ちゃん」
視線を落とすと、もじもじと手を弄る心春が頬を赤く染めながら俯く。
「旅行、楽しみ?」
そんな他愛もないことを尋ねる為に、何故それほど緊張しているのか。心春とは徐々に打ち解けてきたと思っていたが、女心はいまいちよくわからなかった。
「そりゃあ楽しみだけど……まぁ、全員一緒が良かったよな」
先月のカラオケ大会で優勝した結希と三つ子は、優勝賞品の旅行券を持ち帰って百妖家に衝撃を与えたばかりだった。
結希が思っていた以上に三つ子の歌唱力は高く、そのハーモニーは本業の歌七星に引けを取らない。ただ、全員が衝撃を受けていたのは結希のそれだった。
『こいつの特技は歌だけだからな〜』
『ゆう吉の取り柄は歌だけだから』
歌唱後にやって来た風丸と明日菜は幼馴染みの特権とも言うべき昔話を持ち出して結希を怒らせていたが、けしかけた麻露にとってそれはどうでも良く──四人を褒めるだけ褒めて寝落ちしてしまった。
「あ、うん……。そうだよね、初めての家族旅行だもん。ぼくもみんなと一緒が良かったな」
しゅんと縮こまり、誰よりも優しい心春は目に見えて落ち込む。
「心春が言霊を使えば全員行けるかもな」
「ッ、もうっ! 残念だけど使いません!」
そんな心春に対して笑いながら冗談を言った結希は、ぷんすかと怒りながらも柔和な笑みを見せた彼女を見て安堵した。
優勝賞品を持ち帰ったはいいものの、半妖一家の百妖家が一度に陽陰町を出ることをこの世界は認めない。
ましてや裏切り者の亜紅里の実母──頼という脅威が生きている以上、町の戦力は極力確保したいというのが本音なのだ。
それを涙が陰陽師すべての一族に掛け合い、スケジュールが合う家族のみを町外に出す許可を貰ってきてくれた。それが、今月に入ってからの出来事なのだ。
陰陽師らの理解を得るのに一ヶ月も有したという事実が引っかかるが、与えられた休暇を使わない手はない。
町外に調査に出た陰陽師たちが戻ってくるのと引き換えに町を出る結希たちは、今から期待に胸を膨らませていた。
「そういえば涙、俺たちがいない間に襲撃されたらどうするんだ?」
不意に気になって尋ねると、涙は首を横に振って結希の不安を否定する。
「安心です、結希。先月不発だった仕掛けがまだ町に残っています。ので、それを使用です」
「不発の仕掛け? ……って、あの時安心とか言っておきながらあんなことになったんだけど、どういうことだったんだよ」
結希が眉間に皺を寄せると、涙は不服そうに唇を尖らせた。
「先月、俺たちはわざと隙を作りました。が、敵が式神の家にいた為、仕掛けを使用することが不可能でした。残念です」
「それは本当に残念だな」
ただ、潜伏場所が式神の家だったのは予想できなくても仕方ないだろう。
陰陽師ではなく半妖が町を空ける今、今度こそ不発ではないことを──襲撃されないことを祈るしかない。
「ところで、全員承知だと思いますが、町外に出ている陰陽師が帰ってくる以上、町外の調査は俺たちに全任です。陰陽師ではなく半妖視点の意見も貴重です。協力を要請です」
「あっ、そういえばセイリュウたちが調査の手伝いをしてくださるそうですよ! 彼らは慣れているので、これで一安心ですね!」
スザクの笑顔に誰もが頷き、結希は人知れず拳を握り締める。
そして始まる明日に、思いを馳せた。




