八 『親友と幼馴染み』
私立陽陰学園。
それが結希と愛果が通う中高一貫校であり、依檻が勤める学校であり、椿の入学する学校だった。
私立といっても、この陽陰町では公立がほとんどないのが現状だ。学業を司る白院家の頭首が運営しているのが私立で、公立は彼女のお情けで存在していると言っても過言ではない。
だから大抵の町民は私立に進学し、町民以外の人間がわざわざ陽陰町の学校に進学することも珍しくはなかった。
そんな陽陰学園の正門で、二人して息を整える。
周囲の生徒が不審げに見ていることには気づいたが、間に合ったことにひとまず安堵した。
「痛っ?!」
本日二度目の蹴りに顔を歪める。ただでさえ家を出る直前、心春に一発みぞおちを殴られているというのに。
「ちょっ、何するんですか!」
「それはこっちの台詞だバカ! なんで急に走るのさ、焦るでしょバカっ!」
「俺の方が焦りましたよ! なんで遅刻ギリギリに家を出るんですか!」
「んなのウチの勝手だろ?!」
急に口論を始めた二人を避けるように、そこだけぽっかりと穴が開く。が、生徒たちが視線を向けていたのは結希ではなく愛果だった。
綺麗に染めた金髪を揺らす愛果は、嫌悪の視線に気づかない。先に気づいたのは結希で、避けるように口を噤んだ。瞬間、顔を引きつらせた。
「は? どうし……」
「正門で何堂々と口論してるのかなぁ、うちの妹弟は」
がしっと愛果の肩を組み、背が低い彼女の小顔に豊乳を押しつけて余裕の笑みを浮かべたのは依檻だった。
暴れる愛果をしっかりと押さえつけた依檻は、生徒だらけの正門では目立っている。
「百妖先生、なんでここにいるんですか」
「愛しの生徒をいち早く見たくて待ってたのよ」
「仕事をサボりたかっただけだろ!」
ようやく依檻を押し退けた愛果は、思いきり顔を顰めて吐き捨てた。
「失礼ね、ちゃんとしてるわよ」
憤慨する依檻を無視し、鞄を肩にかけて門を跨ぐ。小学生のような見た目だが、ぴんと背筋を伸ばすその姿は誰よりも堂々としていた。
「まったく。帰ったらシロ姉に言いつけてやるんだから」
ぶつぶつと小言を言う依檻は、冗談ではなく本気で言いつけるような雰囲気だった。そして、そんな麻露の対応は容易に想像できる。
「なら俺は百妖先生のことを言いつけますね」
「あら? 結希はいつの間に愛ちゃんの味方になったのよ。〝お姉ちゃん〟妬いちゃうなぁ」
「……味方というか、あったことを素直に言うだけですよ」
百妖先生、そう呼んだことを叱るように依檻は〝お姉ちゃん〟を強調して体をくねらせる。
無視を決めつけて門を跨ごうとすると、背後から聞きなれた心地のよい声がした。
「ゆう吉、おはよ」
「おはよう」
振り返らなくても声の主はわかっている。
視界の右下に映り込んだのは、淡い藍色の髪の少女、妖目明日菜だった。
マスカラ不要の長いまつ毛。異様に他人を惹きつける瑠璃色の瞳。振り返ると、鮮明に思い出せるそれらが今日も月光のように輝いている。
左耳の上で纏めたサイドポニーテールの髪は尻尾のように揺れ、近づくと結希の二の腕辺りを撫でる。それでも右の泣きぼくろは大人っぽく、少女から女性へと成長する過程を上手く切り取ったかのような容姿をしていた。
彼女は医療を司る妖目家の一人娘で、結希の幼馴染みだ。
結希自身にその記憶はないのだが、六年以上も前から親しい仲だったらしい。現に、記憶を失って最初に目にしたのは、明日菜のくしゃくしゃに歪んだ泣き顔だった。
というのも、熾夏の勤め先でもある妖目総合病院は、明日菜の母親が頭首兼医院長を勤めているからだった。明日菜はその一人娘という特権を使って、面会時間を過ぎた後でも結希から片時も離れなかったらしい。
「あら妖目ちゃん、おっはよー」
「百妖先生は町民の犬として仕事に戻ってください」
「うわぁ、新学期早々言われちゃったわねぇ」
額に手を乗せて、依檻はぺろっと舌を出した。
新学期早々ということは、昨年度も同じような会話があったらしい。
「行こう、ゆう吉」
「あぁ。明日菜と百妖先生、随分仲良いんだな」
すると、明日菜のサイドポニーテールが揺れた。表情はというと、歪める限り歪んでいる。
「明日菜?」
「そんなことない」
早口で明日菜は反論し、迷う素振りを見せずに問いかけた。
「それを言うならゆう吉と先生は? 前は苦手だって言ってたのに、親しそう。それに百妖先輩とだって、いつの間に喋るようになったの?」
「それは……」
昨日の放課後、急に母親から連絡が入ったということ以外は明日菜に何も伝えていなかった。言うべきか悩むが、どうせすぐにバレることだ。
「昨日、母さんから連絡があっただろ?」
「うん」
幼馴染みということで、明日菜は朝日のこともよく知っている。
結希は麻露の嘘に辻褄を合わせるために、初めて明日菜に嘘をついた。
「再婚したらしくてさ、百妖さんと」
「さ、再婚?」
珍しく明日菜が言葉を詰まらせた。そして、相変わらずの理解力の早さで口を開く。
「……だから、なの?」
それでもどこか躊躇いがちだった。
「昨日初めて顔を合わせたんだよ。……あ、俺の家今は空き家だから、もし連絡とかあったら百妖家の方で頼む」
近い内にあのボロアパートに戻ると思うけど、という台詞は飲み込んでおく。
「わかった」
明日菜は頷いて、それ以上追及はしなかった。
クラスが違う明日菜と別れ、自分の教室に行くと待ってましたと言わんばかりに首根っこを掴まれる。愛果と同じように染められた金髪が、結希の目の前で元気よく揺れた。
「お前、昨日はどうなったんだ?」
好奇心の塊のような瞳で結希に尋ねたのは、小倉風丸だった。
キラキラと、神様からの愛情を目一杯受けたかのようなオーラを放つ風丸は、やんちゃの中にある人懐っこい笑顔を結希に見せている。
彼とは中学からのつき合いで、記憶喪失の件は明日菜と違って何も知らない。二人は対照的だというのに、バカな話をし合える唯一無二の親友だった。
「どうって?」
「バカ。百妖家に行ったんだろ?」
「なんでお前がそれを知ってんだよ」
結希は眉を潜めた。送付された画像を風丸に見せた時は何も言わなかったくせに。
「んなの地図見ればわかるだろ〜? まさかお前、知らなかったとか……」
「悪いかよ」
「マジかよ!」
風丸は、この世のものではないものを見るような視線を結希に向けた。顔を顰めると、風丸は詫びることなく眉を下げる。代わりに両肩と両手を軽く上げた。
「で? その知らない家に上がり込んだ感想は?」
「そういう言い方やめろよ」
「実際そうじゃんよ〜」
返す言葉がなかった結希は、黙って名前順で決められた席につく。平然とした表情で、風丸は目の前の席に向き合うようにして座った。
「結局さぁ、お前の母親は百妖家とどういう関係だったんだ?」
それは昨日、メッセージを見た後に風丸と話した内容だった。いろんなことがありすぎて忘れていたが、結希はその疑問に顔を強ばらせる。
(確かに、なんで母さんが半妖の家を知ってたんだ?)
陰陽師も妖怪も、世間には秘匿されている。陰陽師であっても、聞いたことしかなかった半妖の存在が昨日一気に明らかにされたのだ。
結希が百妖家に来たのは、偶然か、それとも必然か──。
「おい、急に黙るなよ」
不満げな風丸の声に我に返った結希は、たった今生まれた得体の知れない不安を表情に出さないように苦笑した。
「疲れたんだよ。百妖家って大家族だから……」
カツ、とわざとらしいブーツの踵の音が間近で聞こえた。
くせ毛なのか寝癖なのか、それともおしゃれなのかわからない長髪がすぐ傍で揺れる。銀髪のそれは、クラスメイトの白院・N・ヒナギクのものだった。
「貴様。今、百妖の名を口にしたな」
「え?」
「そして上がり込んだとも」
ヒナギクは風丸を一瞥して、結希に視線を戻す。
「間宮結希。どういう意味か報告してもらおうか」
そして、躊躇うことなく結希のネクタイを掴んで引っ張った。
「ヒナ、ストップストップ!」
意外にも、ヒナギクを止めたのは風丸だった。
風丸は無理矢理二人の間に入り、教室の掛け時計に目を向ける。
「そろそろ依檻ちゃんも来ちゃうし、立場的にそういうのはヤバいだろ! ていうか、女の子がこんなことしちゃダメだって!」
〝立場的に〟という部分で教室にいる生徒を見回した風丸は、同意を求めるようにヒナギクを見上げた。風丸の身長は男子の方では低く、ヒナギクは女子の方では高い。
そんなちぐはぐな二人の視線が交差する。
「問題ない。容赦なく握り潰す」
「……そういう考え方をするのって、俺の知る限りヒナぐらいだぜ」
「人が全員同じ考えをするのなら、私は人をやめてやる」
ヒナギクのコバルトブルーの瞳は真剣そのもので、さすがの風丸も戸惑った表情を見せた。
ヒナギクは風丸を押し退けようとするも、今度は結希が前の扉を見て「先生が来たからもう止めよう」と説得する。
実際タイミングよく教室に依檻が来て、生徒が結希たちに釘づけになっているのを不審そうに眺めていた。
ヒナギクは顔を歪め、渋々と結希の前の席に座る風丸を退かせて自らが座る。風丸も依檻に手を振りながら、廊下側の席へと戻っていった。
「ほら、他の子も早く座らないと先生がその席に座っちゃうぞ?」
要するに代わりに教壇に立ってくれと言っている依檻の台詞に、生徒は全員慌てて自分の席に着席する。残念そうに教室中を見回す依檻は、本心でそう言ったようだ。
「なんでうちの学校って、在校生全員が入学式に出ないといけないのかしら。係の生徒しか出ないとこもあるのに」
「依檻ちゃん、それマジで言っている?!」
何故か始まった依檻の愚痴に、風丸だけが反応した。依檻は胸を強調するように腕を組んで唇を尖らせる。
「そうよ。まぁ、この町じゃ白院家が運営しているのがほとんどだから知らない人が多いんだけどねぇ」
目の前に座っている話題の中心一族──白院家の一人娘は、興味なさげに窓の外を見つめていた。
つまりヒナギクは、町のどの私立学校に進学しても創始者の子孫として歓迎される立場にいる。風丸がさっき言ったのは、つまりはそういうことだった。
ちなみに、小倉家も《十八名家》の一つとしてその名を馳せている。
この町に点在するすべての神社の管理を勤めていて、夏祭や大晦日、元日に最も忙しなく働く一族だ。麻露は近所の神社の巫女をしていると話したが、小倉家が麻露を雇っているという形になっていた。
百妖家、妖目家、白院家、小倉家等の《十八名家》が特例を除いて必ず通っている学校。
それが、私立陽陰学園だった。