十八 『終わりと始まり』
銃弾は妖狐の前足を掠り、彼女は瞳孔を見開いて亜紅里に視線を走らせる。
「──ッ!」
着地した半妖姿の亜紅里はきつく歯を食いしばり、勢いを殺して金縛りに遭ったかのように動かなくなった。
『飛ンデ火ニ入ル夏ノ虫ダネ、亜紅里』
せせら笑う妖狐は血が滲む前足を踏み込み──
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
──目に見えない力で吹き飛ばされ、天蓋ベットに激突して唸り声を上げた。そして首を振って立ち上がった妖狐は犬歯を剥き出しにして、流れるように狐火を出現させる。
スザクは息を漏らし、きつく日本刀を握り締めた。
「そんなっ! 結希様が九字を切ったのに、まだ動けるのでございますか?!」
「…………本物の、バケモノなの?」
「ッ、来るぞ鈴歌! わらわに合わせるのじゃ!」
飛来する狐火を結界で辛うじて受け止め、結希はすぐさま解除する。同時に駆け出した鈴歌と朱亜は左右に分かれ、腰を上げた妖狐に接近。
「…………シュア!」
そして鈴歌は、体に巻きついた一反木綿の先端を朱亜の方へと伸ばした。
『何ヲシテモ無駄ダヨ』
狐火を再び体に纏い、妖狐は妖艶に笑う。
「ッ、亜紅里!」
「……え」
亜紅里を見下ろすと、亜紅里は表情を強張らせたままゆっくりと結希を見上げた。
天色の瞳は隠すこともなく怯えており、小さな右手は風から貰った銃を握り締めている。その手は僅かに震えており、結希は一瞬だけ言葉を失った。
「聞きたいことは色々ある! けど、今は力を貸してくれ!」
亜紅里は両目を見開き、力が抜けたのか腰を抜かす。
「甘えるな!」
酷かもしれないが、結希は喉から叫んだ。
結希は決して、亜紅里を甘やかしたりはしない。亜紅里よりも辛い思いをした人たちを知っているからこそ、結希は決して、亜紅里が逃げるのを許さない。
「わ、私は……」
力を込められた狐火は鈴歌と朱亜に襲いかかり、咄嗟に張った二つの結界は脆く粉々に砕け散る。二人は一瞬の間ができた狐火を軽々と避け、一反木綿の先端を咥えた朱亜は妖狐を睨みつけた。
「あれは……?!」
驚愕の声を漏らすスザクと共に、結希は目を見開く。今まで抜けていた朱亜の首は長く長く伸び、鈴歌の一反木綿も朱亜に合わせて胴体を伸ばしていく。
『小癪ナ』
妖狐は目を細め、そして鳴いた。
「──!」
熱風が結希の頬を掠り、俯いた亜紅里が呻き声を上げる。
「熱っ! あ、青い炎でございますか……?!」
目を閉じていたわけではないのに、目の前の景色はいつの間にか青い火の海へと変化していた。
燃えない天蓋ベット。炎の中心にいる妖狐。左右から火の粉のような狐火を浴びる鈴歌と朱亜。
二人が痛がる様子を見せないということは、狐火と見せかけた幻術なのだろう。尽きない妖力に結希は愕然とし、不意に思い出した。
結希は一度、妖狐に九字を切っている。つまり、町にかけられた幻術は解かれたはずなのだ。
本来使うはずのなかった妖力を取り戻し、妖狐は衰弱を見せるどころか余裕の笑みまで浮かべている。
鈴歌と朱亜の傷口は既に完治しているが、疲労が取れたわけではないことくらい、見て入れば痛いくらいにわかってしまった。
「……亜紅里、頼む」
自分でも驚くくらい、掠れた声だった。
それでも止まらずに、結希は自分の無力さを呪いながら懇願する。
「頼む、もうお前しか頼れないんだ」
覚醒したとはいえ、先祖の妖怪の性質を変えることはできない。
援護に特化したままの半妖二人と、妖狐には効果が薄い剣術しかできないスザクと、その両方を兼ね備えた結希が最前線で戦わなくてはならないのだ。
「いけません、結希様」
「スザク、俺は……」
「陰陽師様が自らを呪われてはいけません。結希様、呪いの力は強力でございますよ」
スザクはやけに冷静に結希を止め、亜紅里を一瞥する。
「亜紅里様。私は結希様がお許しになられても、例えそれが命令であろうとも、貴方のことを許すつもりはございません。ですが、それは償えるはずの罪です。その機会を自ら逃すおつもりですか?」
淡々と告げ、スザクは結希も襲うようになった狐火から彼を守るように立ち塞がる。それはかつてのあの日のようで、結希も、そして亜紅里も心を震わせた。
『流石です。スザクはやはり、結希の式神です』
思わず泣きそうになる前に、聞き覚えのある声と口調が聞こえる。
『結希?! アンタ、負けんじゃないわよ!』
『聞こえていますか? 結希くん。今敵将の近くにいる陰陽師は、貴方ですよね?』
「その声……涙さん、愛果、歌七星さんですか?」
『あたしもいるよ。というか、この擬人式神を町外から飛ばしているのはあたしと涙だね』
落ち着いた京子の声もする。目を凝らすと、亜紅里の背中に二枚の擬人式神が張りついていた。
『状況は乾から伝聞です。ので、安心です』
その式神から発せられる涙の声を聞いただけで、結希は詰めていた息を緩めてしまう。
『結希、時間稼ぎです。その間に逃走を命令です』
「え、逃げるんですか?」
『町は無事です。家族も無事です。危険は鈴歌と朱亜、結希のみです』
『結希が九字を切ってくれたおかげだよ。だから、無理に奴を追い詰める必要はない。自分の命を最優先にね』
躊躇ったが、結希は短く返事をし──
「……待て」
──唸るように呟いた亜紅里に邪魔をされた。
「なんだよ」
「お前は私に、言われっ放しのまま逃げろと言っているのか……? あんなことを言われて、かつての敵に逃がされろと……? そんなの、冗談じゃない! 本物の道化師みたいじゃないか!」
亜紅里は床に爪を立て、不協和音を生み出しながら引っ掻き傷を残す。
「私だって時間を稼いでやる! あの時の言葉を、嘘にはしない!」
叫び、勢いのまま立ち上がった亜紅里は正面を見据えた。
『貴方、少し変わりましたね。あの時の女狐とは思えない発言です』
『女狐、ウチの大事な人たちを死守しないとぶっ殺すからな!』
「無用な心配だな。私のこの命は、もうお前らの総大将のものだ。そして、隣にいるパートナーのものだ。決して、もう二度と、妖狐のものにはならない」
亜紅里は、優しい瞳で結希を見上げる。その瞳には、当然怯えも残っている。それでも亜紅里の心は、折れることを許されないんじゃないかと思うくらい強かった。
『パートナー、という言い方が少し気になりますが、その覚悟は認めましょう。愛果、合わせなさい』
『言われなくても、かな姉!』
亜紅里の背中から離れた二枚の擬人式神は、二人の強力な陰陽師の念が込められているからか──すぐ傍に愛果と歌七星がいるような気配がした。
京子の念で町外から飛ばされた擬人式神は、その身から水の槍を放ち青い炎を鎮火させる。涙の念が込められた擬人式神は瞬時に反応し、妖狐の幻術を解いて再び正体を暴いた。
『──クッ!』
どちらも、歌七星と愛果特有の力だ。鈴歌と朱亜にはない、唯一無二の力だった。
『今です!』
『ほら、早くしなってば!』
「ッ、鈴歌さん! 朱亜姉!」
二人を呼ぶ。だが、二人は同じ姿勢のまま先ほどからまったく動こうとはしなかった。
「──ッ!」
短く息を吐き、両手で銃を構えた亜紅里は幻術を再びかけようとする実母に向かって引き金を引く。同時に狐火を纏った銃弾は螺旋を描きながら女性の肩を貫通し、血潮を振り撒いて彼女はよろけた。
「…………行って!」
それは、逃げろという意味ではない。一反木綿を咥えたままの朱亜は再び首を伸ばし、頼の後ろへと回る。
「まさか……スザク!」
「承知いたしました!」
ようやく二人の真意を汲み取った結希はスザクを飛ばし、一瞬の隙に鈴歌の一反木綿と朱亜の首で何重にも拘束された頼を峰打ちさせた。
九字を切ろうか迷い、止めた結希は頼を観察する。一向に動く気配がないということは、気絶しているのだろうか──。
「捕えたぞい!」
「…………ナイス」
張り詰めた空気を壊したのは、やはりこの二人だった。二人でハイタッチを交わし、鈴歌は朱亜の胴体に寄りかかる。
「って、何ドヤ顔してるんですか! こういうのは事前に言ってくださいよ!」
「そ、そうでございます! びっくりしたではありませんか!」
抗議する結希とスザクの声が聞こえてか、説明を求める声が擬人式神から聞こえてくる。結希がことの経緯を簡単に説明すると、『は?』とドスの効いた一撃を食らわされた。
『ちょっと、覚醒した鈴姉と朱亜姉が阿狐頼を拘束したってどういうこと? アンタ、自分が何を言っているのかわかってるんでしょうね?』
「……あ」
しまった。
鈴歌との件があり、覚醒者が増える度に不機嫌になっていった愛果の真意にようやく気づいてしまう。
『そうですね。結希くん、帰ったら少々お話を聞かせていただきます』
怒っているとは言わないが、歌七星のその口調はまったく穏やかではなかった。
『ほんとは今すぐ話を聞き出したいけれど、涙さんがもう限界っぽいから勘弁してあげる』
『少々スケジュールを調整して、近いうちに帰ります。では』
力尽きた二枚の擬人式神はふらふらと落下し、塵になる。夏場だというのにやけに背筋が凍った結希は頬を引き攣らせながら、わざとらしく肩を落とした。
「結希様、ご無事でございますか?! あのお二方は一体何に怒っていたのでしょう?」
「……さぁな」
理由はわかっているが、その記憶がまったくないのはどうしてだろう。結希は眉間の皺を指で抑え、朱亜の笑い声にキレて返した。
「ったく、朱亜姉は置いて帰ります。鈴歌さん、亜紅里」
呼びかけると、人間の姿に戻った鈴歌しか返事はなかった。朱亜の抗議の声を無視して亜紅里を見下ろすと、彼女は半妖姿のまま頼がいる天蓋ベットを見つめている。
「亜紅里様?」
スザクが不思議そうに尋ねるが、亜紅里はまったく反応しなかった。
仕方なく亜紅里の視線を辿り、結希はその違和感に絶句する。天蓋ベットに倒れていた頼の妖力が、その骨ばった体のどこにもなかったのだ。
「……まさか」
息をするように結希は声を漏らした。
同じく人間の姿に戻り、頼の拘束を解いていた朱亜が眉間に皺を寄せたまま頼へと近づく。
「何も異常があるようには見えんが?」
そして彼女を抱き上げて、朱亜は目を見開いた。
「……まさか、死んでおるのか?」
刹那、足音が洋館に響いた。
「朱亜! 鈴歌! 弟クン!」
扉を開けたのは、この場にいる誰もが存在を求めていた──医者で六女の熾夏だった。




