十二 『信頼』
「…………乗って」
鈴歌に言われるがまま、すぐさま一反木綿に変化をした彼女の背中に結希は飛び乗る。
「亜紅里!」
そして先月、心春へと伸ばした手を心ここに在らずといった様子の亜紅里に向けた。
「……ッ!」
我に返り、やがて強く頷いた亜紅里は結希へと手を伸ばす。が、触れ合う直前になって亜紅里はその手を引っ込めた。
「早く!」
「ちょ、ちょっと待って……!」
苛立ちを込めて怒鳴ると、亜紅里は慌ててスカートで手を拭い始めた。その動作に眉を潜め、はたと自らの手汗の量に気づく。
風が吹いても、暑く湿度が高いこの空気が冷めることはなく──汗ばんだ亜紅里は、恥ずかしそうに結希の手を取った。
「アタシも行く!」
その愛らしい動作に心揺らされる暇もなく、鬼に変化をした椿が上昇する鈴歌に強引に飛び乗る。やがて半妖姿では下りられなかった結界を越え、眼下には茜色の夕日に照らされた町が広がった。
夏のこの時刻には不釣り合いな光景に不気味さを覚え、背中に悪寒が走る。目を凝らすと、町中を数多の妖怪が陽陰学園に向かって練り歩いているのが見えた。
「こ、これ全部陽陰学園に向かってるのか?!」
『ううん、違うみたい! そいつら亜紅里ちゃんを狙ってるんだって! だから……』
「亜紅里が動いたら、妖怪も動く……?!」
『そう! でも、今はまだ大丈夫だって! 見つかってない間に安全な場所へ……え? 百妖家? 人気もないし結界もあるから安全だろう?』
不意に、小さな怒声がアリアの声と共に聞こえる。
「乾さんがそう言ってるんですか?」
そもそも乾と通話していたはずなのに、何故アリアと代わったのだろう。アリアが悪いわけではないが、乾と比べるとどうしても不安が拭えず──結希は彼女の意見を切実に求めた。
『うん。ごめんね、ヌイ今るいるいと話してて……わかったわかった! ゆうくん聞こえてる? 百妖家か式神の家に行って!』
疑問の答えは、今朝方愛果と共に町を出た涙にあったらしい。
もしかしたら同居している家族よりも信頼を寄せているかもしれない二人の親族のことを思えば、結希にはもう迷いも不安も何もなかった。
「了解です!」
力強く返事をし、『うんっ』と笑ったアリアの声で前を向く。
実の弟のように結希を愛する涙と、血縁はなくとも他人じゃないからこそ結希の甘えを許さない乾と、乾と対になるかの如く結希を優しく包み込むアリア。
この三人がいるからこそ、結希は〝最後の砦〟となれる。町中の人々から頼られても、折れることなく立っていられる。
それが乾の言っていた〝自己犠牲の塊〟なのだとしても、それが陰陽師なのだと思えば受け入れられた。
「結兄あれ!」
悲鳴のような椿の叫び声で我に返り、慌てて視線を真下に落とす。陽陰学園へと向かう数多の妖怪とすれ違うというところで──
「あそこに心春がいる!」
──先月覚醒した義妹が、妖怪の進行方向にいることを知った。
「なッ……?!」
目を凝らすが、上空からたったの十五センチしかない身長の心春を探すのは不可能に近く。不意に視界に入った学校が心春の通う女子中だと気づき、そこに通わなければならなくなった事情を思い出して戦慄した。
「『土地神の加護を受けた精霊よ、我に力を与えたまえ』──」
遠くにいても、彼女の魂を帯びた声は届く。
「──『妖怪よ、消滅せよ!』」
強く、気高く、美しい。
若くとも百妖家の一員の心春は、初対面の頃とは比べものにならないほど彼女の姉のように凛々しかった。
「…………うそ」
信じられないとでも言いそうな亜紅里が、ぽつりと言葉を漏らす。
『本気で潰そうと思えば、潰せたのにな。結希も、ヒナギクも、お前も甘い』
かつて心春にそう言った亜紅里は、天色の瞳で死滅していく妖怪を見つめていた。
「……心春」
震えた声に思わず隣を見ると、涙目になった椿が口元を手で押さえていた。肩を震わせ、数回まばたきした後で釣り目がちな赤目から涙を零す。
ずっと妹だと思っていたが、彼女は心春から見れば立派な姉なのだ。心春のことを誰よりも近くて見守ってきているのだ。
結希は瞑目し、再びどこからともなく妖怪が出現するのを肌で感じた。
「来る」
「えっ、まだいるのか?!」
安堵したのも束の間、肌を舐めるような気配に感覚が鋭くなる。息を呑み、信じて疑わない義兄の言葉に椿はすぐさま頷いた。
「結兄、アタシ下りるね!」
「頼む!」
そう言って託すと、椿は一瞬だけ目を丸くし──やがて幸せそうに破顔した。
「任せて!」
鈴歌の体から飛び降り、難なく着地した椿は屈んで掌に何かを乗せる。それが心春だと確認できたのか、鈴歌はぬるりと動き出して我が家を目指した。
周囲を見回すと、とっくのとうに避難が済んでいるのか人の気配を感じることができなかった。
町中に点在するという地下への扉が機能しているのか、たまに見かけるのは《カラス隊》の構成員か猫鷺家が指揮を執るレスキュー隊くらいだった。
『ゆうくん気をつけて! ヌイが今嫌な予感がするって!』
「嫌な予感?」
『そう! ……あれ? ヌイ? ヌイ? ちょっと! ねぇ大丈夫?!』
「アリアさん? 乾さんがどうし……」
ガラスのような何かが割れる音がし、唐突に通話が切れる。慌ててかけ直すが画面に変化はなく、アリアにかけても返事はなかった。
「……もうやめろ。多分、私の産みの親のせいだ」
苦悩の果てに絞り出された血のような言葉に、結希は改めて亜紅里を見やる。そして息が止まるかと思った。
きつく閉じられた双眸は見ることを拒み、眉間に寄せられた皺の数は亜紅里の苦悩そのまま刻み込んでいる。病的なまでに青白い肌は、暑さを感じなくなったのか発汗作用が機能しておらず──柔らかそうな唇は凹んでしまうほどきつく噛まれていた。
「何がどうなってるんだ?」
そんな亜紅里に強く言えず、結希は彼女の肩に手を置く。亜紅里はぴくりと肩を上げ、空のように澄んだ天色の瞳で結希を見つめた。
「幻術を使えば、大体のことはできる。その乾っていうサトリの半妖を騙すことだって簡単だった。今は、幻術のせいで悪夢でも見ているのかもしれない」
「解除方法は?」
「お前お得意の九字を切るか、私の産みの親を倒すか……」
そこまで口にし、亜紅里は天色の瞳を見開いた。
「伏せろ!」
刹那に視界が逆転し、亜紅里に押し倒された結希は茜色の空を刮目する。倒された背中は大きくうねり、何かを回避するかの如く空へと上った。
「何が……?!」
「…………ユウキ、アグリ、掴まって!」
鈴歌の叫びが降ってきた瞬間、亜紅里は結希を押し倒したまま鈴歌にしがみつく。
『あたしはもう、ゆうゆうの為ならなんでもやるって決めてるんだからさ』
その力強さは、あの時の言葉を肯定していた。
『殺されたって構わない、この命はゆうゆうとヒーちゃんに生かしてもらったんだからね』
何がなんでも離さないと言うように、「守ってね」と散々言っていた亜紅里は命をかけて結希を守っている。
行動で意思を見せる、すべてその言葉通りだった。
どんな状況でも香る亜紅里のシナモンの匂いを吸い込み、抱き締め返した結希は寝返りを打つ。細身だが、柔らかな体のどこにあんな馬鹿力があったのか──そう思い、改めて半妖の強さを思い知った。
スザクを呼び出す暇もないまま、押し倒した亜紅里がそうしたように鈴歌にしがみつく。そして初めて大量の狐火が飛来してくるのが見えた。
「ッ……! 臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
片手で九字を切り、周辺の狐火を消滅させる。
それでも狐火の威力は弱まらず、遠くの方から先ほど鈴歌を襲っていた一反木綿が近づいてくるのが見えた。
『……タ、スケ……コロ、ス……』
『……コロシテ、ジャマ、シテ……シマエ……』
「まただ……」
また、例の声がする。
あの時と同じように一反木綿に襲われたら、鈴歌と同じように墜落してしまう。そうなったら、半妖じゃない結希は即死し、亜紅里は殺されるだろう。鈴歌も無事とは言い難い。
そんな未来は、何がなんでも避けなくてはならない。
「亜紅里!」
再び九字を切った後で密着したままの亜紅里を見下ろすと、何故かほんのりと赤みを帯びた顔色になっていた。
「自分の身は自分で守れ!」
元気そうなことに内心で安堵し、躊躇いもなく胸元のボタンを外す。
「ちょっ、何を……!」
そして顕になった胸元の擬人式神を、陰陽師の特権で無理やり剥がした。
「んあぁっ!」
びくんっ、と全身が跳ね、結希は慌てて亜紅里を鈴歌の背中に押しつける。狐火を避けようと目まぐるしく動く鈴歌から落ちないようにするので精一杯だったが、やがて痙攣は収まり亜紅里は天色の瞳を見開いた。
その瞳の中に例の銀色の粒があるのを確認し、結希は強く頷く。
狐の半妖に変化した亜紅里は、結希の行動が信じられなかったのか──呆然と結希を見上げていた。
「亜紅里、お前を信じたヒナギクを失望させるなよ」
狐耳を撫でると、亜紅里はふるふると首を横に振る。
「ゆうゆうだって、信じてくれたじゃん……!」
そして大粒の涙を零し、かつて結希が切り落とした右腕を振った。
大量の狐火が鈴歌の周辺に出現し、連続で襲いかかる狐火と存在を打ち消し合う。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
そして、結希のものではない声が小さく聞こえた。
「末森さん! 本庄さん!」
「遅れてすみません、結希!」
「早く逃げろ!」
真下には、《カラス隊》の軍服を着用した副長の末森と本庄がいた。傍らには末森の式神のヤクモと、本庄の式神と思われる男型の式神がいる。
「ありがとうございます!」
叫び、うねった鈴歌が急降下した。
「燃えろ!」
亜紅里は鈴歌に追随する一反木綿に狐火を放ち、結希の九字で死滅するのを見届ける。
「結希」
あだ名ではなく名前を呼ばれたかと思えば、掲げられた手が視界に入り──結希と亜紅里は、無言のハイタッチを交わした。




