十一 『去る者追わず、来る者墜落』
『送るつもりが送られてしまったのぅ。すまなかったのじゃ、結希』
朱亜姉と呼んでから、朱亜はよく笑うようになった。ただ、力が湧くから頑張れる──そう言った朱亜の笑顔は危うげに零れていた。
一時も目が離せず、ふとした瞬間にどこかに消えてしまいそうな脆さを感じる。ただ、呼び止めようにも走り去る車には敵わなかった。
ホームルームが終わり、明日菜が待つ教室へと向かう準備をする。
「結希〜、生徒会室行こうぜ〜」
「ちょっと待てよ」
「はいはい二秒な〜」
「みじけえよ」
怠そうに言いながらもなんだかんだで積極的になっている風丸は、ひらひらと手を振って結希の机に腰かけた。そして目の前の席に座るヒナギクを一瞥し──
「ヒナも直行すんの?」
──そう尋ねて首を傾げた。
「いや、職員室に用がある。千里、もう行けそうか?」
「はい。大丈夫ですよ、白院さん」
顔を上げると、傍らに学級委員長の千里が立っていた。
スザクからは毎日のように式神の家を訪れている千里のことを聞いているが、本人とは用がある時にしか話さない。近いようで遠い存在の千里は結希の視線に気づき、軽く微笑した。
「またな」
それを無視するのも気が引けて、なんと言えばいいのかわからずに咄嗟に口に出す。
「はい、結希様。またあし……」
「ちょっと待って神城さん」
そして何を間違えたのか、聞き捨てならない台詞を耳にした気がした。
「おいおいおいおいお前いつからせっちゃんに〝結希様〟って呼ばせてんだよ、殺すぞ」
お陰で風丸には首を締められ、ヒナギクには罵倒よりも刺さる冷ややかな視線を突きつけられる。風丸の腕を首から離そうと藻掻くが──
「あっ! す、すみません! これはその、癖というか、刷り込まれたというか……!」
「落ち着いて神城さん。それ以上の失言は俺の命に関わる」
──弁解されればされるほど余計に力が込められていった。
「あぁっ、すみません!」
大方、日々の大部分を過ごしているあの場所でスザクとセイリュウから余計な影響を受けてきたのだろう。口調だけでなく、式神特有の忠誠心まで似てきたような気がする。
「うぅ……。今度からは気をつけます、百妖君。もしまた言ってしまったら、殴ってでもとめてくださいね」
「それはそれで社会的に死ぬよね俺」
「あぅっ?!」
「社会的でもなんでもいいからとりあえず死ね! 俺の方が人気者なのに、お前ばっかおいしい思いをするのは許さん!」
「おいしくねぇよ呪い殺すぞ」
むしろ、いつヒナギクに千里の秘密が知られるのだろうと思うと不安で胃が潰れそうになる。腹の辺りを擦ると、机の上に放置していたスマホの表示画面が変わった。
(電話……?)
サイレントにしているせいで音は出ないが、画面を見ると名前が表示されているのがわかる。その名前の持ち主は、《カラス隊》の構成員であり──涙の義妹の乾だった。
その名を見ると、急かされている気分になる。わざわざなんの用でかけてきたのか。考えても思考が読めない遠い親戚に臆しつつ、結希はスマホを操作して耳元にあてがった。
「もしもし?」
『結希! 今すぐ亜紅里のとこに行け!』
一瞬なんのことかと考え、結希はすぐさま振り返る。最後列の窓側に席を持つ亜紅里はぼんやりと外を眺め、夏バテのように振る舞いながら元気をなくしていた。
「亜紅里!」
呼びかけると、我に返ったように結希の方を向く。結希のただならぬ気配を肌で感じ取ったのか、その顔は困惑したまま凍りついていた。
「ゆ、ゆうゆう? そんなに大声出してどうし……」
『野郎が動き出す! 時刻は──』
町を覆い尽くすかのように、雲間に隠れていた赤い太陽が結希の頬を照らす。
『──黄昏時だ!』
まだ日没ではないというのに、町は夏のこの時刻ではありえないほど濃艷な茜色に染まっていった。
スマホから漏れ出た声を受け、ヒナギクは音を立てて立ち上がる。その表情は前々から覚悟していたかのように凛々しく、険しかった。
「ちょっと待て。野郎とは阿狐頼のことか?」
『そうだよっ! 早く、今すぐ亜紅里ちゃんを連れて逃げて! あと五分で妖怪がそっちの方角に向かっていくって!』
いつの間にかアリアの声が耳元から聞こえていた。
アリアの呼びかけに応じるように結希はスマホを握り締め、唇を強く噛む。わかっていたはずなのに、危機感だって感じていたはずなのに、いざその日が来ると体が上手く動かない。
「っあ、百妖君……! あれ!」
引き寄せられるように千里が指差す方向を見ると、黒い布が不気味に蠢きながら学園の真上を旋回していた。その周辺には白い布が群がり、黒い布はそれを引き剥がそうと必死で藻掻き苦しんでいる。
「亜紅里、来い!」
「ッ!」
亜紅里はすぐさま結希の傍まで駆けつけて、強ばった表情のままヒナギクを見上げた。そして結希は、その怯えきった様子に背筋が凍るのを感じた。
結希の手を無意識に握り締める亜紅里は、百妖の姉妹が総がかりになっても敵わず、半妖の総大将のヒナギクを重症に追い込むほどの強さを持っている。そんな亜紅里が、弱さを隠しもせずにここまで怯える相手──それが、彼女の実母の阿狐頼だった。
『緊急避難命令! 緊急避難命令!』
機械に録音された女性の声が、学園中のスピーカーから鳴り響く。ホームルーム直後とあってか大半の生徒は居残っており、それまでの雑談を止めてスピーカーを見上げた。
『生徒諸君、よく聞いておくれ。今すぐ自分の教室に戻り、担任の指示に従って地下に避難するのじゃ。荷物はすべて置いていけ、必要な物は地下にも揃っておる』
青葉の落ち着いた声が、ざわめき始めた生徒の声に被さる。
『生徒会役員には我輩が直接指示を出す。大方二年の教室前におるのじゃろ? 我輩とはそこで落ち合おう』
青葉の放送が切れた直後、依檻が教室に戻ってきた。
「みんな、いる?! 点呼をとったら順番に地下に行くわよ! ほら、生徒会役員は早く出なさい! ヒナギク結希風丸あっちゃん……オーケー、ちゃんと四人いるわね」
素早く確認を取った依檻は名簿表に書き込みをし、そのまま番号順に名前を呼び始める。
町民は六年前を思い出しているのか真剣な顔つきで、町外出身者は依檻の真面目な態度に触発されたのか、異様な緊張感を漂わせていた。
「行くぞ、三人とも」
「あぁ」
「お、おう……!」
何が起きているのかわかっていない様子の風丸と、黙りこくったまま引っ張らないと動かない亜紅里を連れ、生徒で混雑する廊下に出る。
「ゆう吉!」
「ヒナちゃん、風丸君、亜紅里ちゃん!」
刹那、奥から明日菜と八千代が飛び出してきた。生徒を押しのけながら駆けつけた二人を確認し、ヒナギクは結希の胸板を押す。
「副会長、時間が惜しい。貴様と亜紅里は早く逃げろ」
「逃げる?! おいおい、お前らマジでさっきからなんなんだよ! 逃げるって何からだよぉ!」
「風丸の言う通り。それに、首御千先生がまだ来てない。先生の許可なくそんなことをしたら……」
「私が許可する。誰にも文句は言わせない」
「待ってよヒナちゃん、いくらヒナちゃんでもそれは横暴すぎるよ……!」
風丸、明日菜、八千代から反対され、ヒナギクは苛立たしそうに三人を睨みつける。
「ヒナギク、落ち着け」
ここで仲間割れをするのは不味い。
結希も亜紅里を連れてこの場を立ち去り、早くあの黒い布を助けたいが、この状態の三人を残したまま逃げることもできなかった。
『ゆうくん早く! もう動き出したよ!』
「副会長、聞こえただろ?! 早く行け!」
アリアの焦り声とヒナギクの怒声が胸に刺さる。
「ゆう吉……!」
明日菜は俯く亜紅里を一瞥し、結希を見つめて言葉を強く求めた。
「結希、亜紅里。お主らは逃げるのじゃ」
振り返ると、すぐ傍の階段を駆け上がってきたらしい青葉がいた。膝に手をつき、息を切らせながらも紡ぐ言葉ははっきりと発音されている。
「残りの四人は、生徒を階段のある蔵まで移動させる手伝いをしておくれ。良いな、皆の者。六年前のあの日思い出すのじゃ」
そして顔を上げた青葉の、眼鏡の奥の力強い青目が六人を捉えた。
六年前と聞いて反論する者は誰もおらず、恐る恐る視線を戻すと三人は恐怖を顔に張りつけていた。
「ゆうゆう」
「ッ、あぐ……」
「あたしを守ってね」
亜紅里を見下ろすと、握ったままの手を引き寄せてにかっと笑っていた。
「ほらほら、青葉ちゃんの許可も下りたしさっさと行こ! じゃーね、みんな! ガンバだよっ!」
突き抜けて明るく、亜紅里はいつもの自分を演じている。
『あたしはね、ゆうゆうに盗聴器を壊してもらったからもう何も怖くない。だから、苦しかったらあたしがゆうゆうを笑わせてあげる。──信じて』
怖くないのは嘘だった。
「そんな顔しないでよ! みんなにだから言うけど、あたしとゆうゆうはこれから駆け落ちするの! だから、お邪魔虫はめっだからね?」
だが、最後の言葉に嘘はない。
その言い訳に対して言いたいことは山ほどあったが、こんなところで足止めを食らうわけにもいかない。結希は亜紅里の手を握り直し、青葉が使った階段へと向かった。
「っあ、明日菜!」
階段の手前で足を止め、振り返ると大粒の涙を零す明日菜と目が合う。
「話はまた後で! それと、今度は上手く説明しろよ?!」
久しぶりに見た明日菜の涙に一瞬息が止まりそうになったが、結希はそれを堪えて八千代に視線を移した。
「ヒナギクと明日菜を頼む! ヒナギク、後は任せたからな!」
「ねぇ俺は?!」
「お前は足を引っ張るなよ!」
結希は、青葉には何も言わなかった。
朱亜を泣かせた罪は重い。子供だと思われてもいいから、無視をして亜紅里と共に階段を上った。そして屋上の扉を開けると、奥の方で赤髪の少女が何やら叫んでいた。
「椿ちゃん!」
結希の一個下の義妹──椿は、倒れている女性を揺さぶっている。
「鈴歌さん!」
それは、先ほど一反木綿に襲われていた黒い布の鈴歌だった。
「結兄!」
「…………ユウキ?」
慌てて駆け寄ると、細かな傷がついた鈴歌が体を起こす。
「無理しないでください!」
「…………平気」
そのまま鈴歌は、呆然とする亜紅里を見上げ──
「…………ボクが、絶対に守るから」
──百妖姉妹特有の、意志が強い瞳で昨日と同じことを言った。




