十 『その距離は遠く』
「ほれ、これをお主にやろう。大切にするのじゃぞ?」
朱亜の部屋の目の前で差し出されたのは、真新しいノートと使い古された教科書だった。よく見ればそれは、四月。朱亜の部屋で見つけた古文のそれだ。
「……これって、あの時の教科書ですよね」
「あの時? ……あぁ、そうじゃな。あの時、結希があの中からたまたま拾った教科書じゃ」
思い出したように、朱亜は懐かしさに目を細め。結希は呆気にとられたまま、おっかなびっくり教科書を手に取った。
「これ、大切な物なんじゃ……」
おざなりな扱いをしていたが、この中に書き込まれた朱亜の想いは決して嘘ではない。それを何故手放そうと思えたのか、結希にはまったく理解できなかった。
「よくよく考えれば、わらわにはもう必要のない物じゃからな。捨てられないのなら、それを一番に必要としている結希にあげた方が此奴も喜ぶじゃろう?」
言葉の割には名残惜しそうに教科書を見つめ、朱亜は消えるように息を漏らす。
「わらわが高校を卒業したのは四年前じゃからな。授業内容も変わっとらんじゃろうし、書き込みがあった方がわかりやすいじゃろ」
そして笑っているようで笑いきれていない笑顔を顔に張りつけたまま、胸だけ張ってそこに立っていた。
「それでもわからぬことがあるのなら、いお姉や青葉先生にではなくわらわに聞くが良い。これでも一応教員免許を取っとるからのぅ? 〝お姉ちゃん〟は、今の結希の役に立てるはずじゃよ」
お姉ちゃん、とわざわざ自分をそう呼称し、背伸びをした朱亜は結希の頭をゆっくりと撫でた。何故か痛々しく、何よりも優しいそれを振り払うことができなかった結希はただ黙って朱亜を見下ろす。
真璃絵の為に熾夏が孤軍奮闘しているからか、鈴歌が自立し始めたからか。憧れていた青葉と再会したからか、それとも高校時代の先輩だった涙と歌七星の思い出話を聞いたからか。
様々な憶測が出ては膨らみ、すべてがいつになく哀愁を帯びた朱亜の中に溶けていった。結希はあえてそれには触れず、同時に受け取ったノートへと視線を落とす。
「このノートは?」
「それはわらわお手製の攻略本なのじゃ。古典の基礎と頻出用語、それと青葉先生のテスト対策を纏めておる。これさえあればお主が死ぬことはないじゃろうし、無敵なのじゃ」
「……はぁ。ありがとうございます」
「ううむ? どうしたのじゃどうしたのじゃ。もっとわらわに感謝しても良いのじゃぞ〜? ほ〜れほ〜れ」
思っていた反応と違っていたのか、朱亜は他人の振り見て我が振り直したかのように努めて明るく言った。
気が沈んでいる結希を軽い調子で笑い飛ばし、どこか依檻に似た笑顔のまま、朱亜は腕を組んで自分を強く見せている。
「まぁ、これでも昨日に比べたらだいぶ良くなったみたいじゃしの。結希、今日もゆっくり家で休んでおくのじゃぞ?」
「もう大丈夫ですよ。学校にはちゃんと行きます」
「じゃが、まだ治りかけなんじゃろ?」
「単位がやばいんですよ」
「……まぁ、それは知っておったが」
哀れみにも似た表情で結希を見、そんな頑なな意思を目の前にして、朱亜はやれやれと首を横に振った。
「仕方ないのぅ。一応、わらわが車で学校まで送ってやろうぞ」
「え、マジですか? やった」
そこは素直に喜ぶ弟に朱亜は失笑し、慌ててなんでもなさそうに取り繕う。気づけば朱亜は、母親のような慈愛に満ちた青目で結希を見つめていた。
*
車内でもらったばかりの教科書を凝視していると、町中の風景が変わりゆくことさえ感じなかった。
たまにノートに視線を移せば、わからなかったことが嘘のように解決していく。この快感は長らく忘れていたものだ。
「朱亜さん、すっごいわかりやすいですよこれ」
「それは良かったのじゃ。わらわは一応小説家じゃし、大学を卒業したのも四ヶ月前じゃからのぅ。その結果を残せぬというのなら、わらわの人生はなんの意味もなかったということじゃ」
その言葉はやけに大袈裟で、不審に思って顔を上げると、ミラーに映った朱亜の童顔はまったく笑っていなかった。
「…………」
後部座席に座っていた結希は、そんな朱亜を知らない。本来であれば知るはずのないもので、本人が見せていないつもりでいるのなら踏み込む必要もない。
勝手に気まずくなり、行き場を失った視線を窓の外に移すと──
「あ」
──青葉がすぐ傍の歩道を歩いているのが見えた。
何も言わなかったが、雰囲気で伝わったのか惹かれるようにして朱亜も窓の外を見る。
「えっ?!」
そして、素で驚いた。
「あ、あお……?!」
赤信号で止まっていたのが不幸中の幸いなのか、運転どころじゃなくなった朱亜は窓を開ける。
朱亜もまた何も言わなかったが、青葉は目に見えぬ何かに導かれるようにして視線を動かし──
「……朱亜?」
──眼鏡の奥の綺麗な青目で、教え子の朱亜を視界に入れた。
どこかの少女漫画の一頁を切り取ったかのような光景が、誰にも邪魔をされずにただそこにあるのは。それは、二人だけの世界に入っているからだ。
その瞬間の青葉は嬉しそうに頬を緩めたが──
「馬鹿者。運転中に余所見をするでないぞ」
──途端に峻烈な態度を取って、朱亜からの視線を絶った。
「……ッ!」
赤が青に変わる。
後続の車に急かされて渋々と車を発進させたが、朱亜の心ここに在らずといった様子は変わらなかった。
「話さなくていいんですか?」
明らかに様子がおかしかったのは、朱亜である前に青葉だった。
同僚の依檻にはかなり辛辣な態度を取る青葉だったが、他の同僚や生徒に同じような態度を取ったことは一度もない。
「……あの態度を見て、まだ話せると思うたのか?」
だというのに、朱亜にはそれ以上の態度を取れた。
踏み込むつもりはなかったが、青葉の方に問題があるのは間違いない。そのせいで朱亜が塞ぎ込んでいるのならば、結希は青葉を許さない。
「話していないからあの態度なんじゃないですか?」
遠ざかっていく青葉は、何故か頭を抱えていた。それは後悔故なのか、苦しそうな表情をしていても蝋人形のように直立している。
「…………わらわも、話せるのなら話したい。けど、青葉先生はわらわと話すことさえ嫌なのじゃ。本当に話したいことは話そうとしてくれない。そうやって流れた月日は、四年じゃ」
「どんだけ放置してるんですか。めちゃくちゃヤバいですね」
「…………結希、現代語訳せんとわらわには伝わらんぞい?」
ふふっと、朱亜が失笑した気がした。
朱亜が大学を卒業したばかりの四月は意識をして敬語を使っていたが、普通に話していると無意識のうちに普段使っている言葉が出てくる。それが今だった。
「この三ヶ月間、朱亜さんとは何度も話してますからね。慣れてください」
「お主が現代語訳を頑張るのではなく、わらわが頑張るのかえ? ……まったく、図々しいというか生意気になったのぅ」
「朱亜さんだって図々しかったじゃないですか。いっつも偉そうにふんぞり返ってたのは朱亜さんですよ」
「そうじゃったかのぅ? わらわ、認知症じゃからなーんにも覚えていないのじゃ」
冗談混じりに朱亜が笑えば、陽陰学園の駐車場が見えてきた。
「あ、この辺で大丈夫です」
「うむ? そうか」
脇に車を止め、荷物を持って外に出る。
「結希、少し待ってくれるかの?」
運転席を見れば、朱亜は駐車場を指差していた。
「正門までまだあるからの。そこまで一緒に行くのが今日のわらわのミッションなのじゃ」
「十秒だけ待つので早くしてくださいね」
「急がんくても余裕で間に合うじゃろ?! なんとかマンも三分は頑張って戦うではないか!」
「冗談です」
朱亜は悔しそうに童顔をくしゃくしゃにし、駐車場に車を止めて走りながら戻ってくる。
「ぜぇっ、ぜぇっ、引きこもりにはっ、き、きついのじゃ……!」
「言うて三ヶ月ですよね? 頑張ればいけますって」
「馬鹿者! 人というのは鍛えねばすぐに衰えるのじゃぞ?!」
二人で並んで歩きながら、朱亜は暑さで流れた汗を拭う。
「汗拭きシートいります?」
「なんで七月の頭じゃというのにそれを持っておるのじゃ? 女子か? 女子なのかの?」
「いや、去年のがそのまま」
「かぴかぴ疑惑が浮上したのじゃが、それは使えるのかのぅ……?」
「あっ、見てくださいよ。めっちゃカピカピですよ」
「見せなくても良いぞ?!」
結希が知っているいつもの朱亜は、漫才の突っ込みのように腕を振って結希に当てた。
本物の姉弟のように気を緩ませ、だらだらとした距離感で歩くのが一番心地いい。普段一緒に登下校している愛果や椿との会話も、結希は結構好きだ。
今日は修学旅行で愛果はおらず、椿も日直で朝早くから出ていった。こうして二人以外の誰かと登校するのは新鮮で、一人にならなかったことに安堵すると──
「……ッ!」
──また、朱亜の表情が不自然に固まった。
朱亜の視線の先には青葉がおり、よく気づけたなと感心するほどその距離は遠い。おまけに正門前のT字路は、三年がいなくても登校する生徒で賑わっていた。
「朱亜さん」
「……結希。ありがとなのじゃ」
「え?」
聞き返すと、朱亜は微笑んでいた。
「おかげで気が紛れたがのぅ、先延ばしにし続けるのももう疲れたのじゃ」
目尻に寄った皺は、童顔の朱亜を老けさせて。
「じゃから、今日中に決着を着けようと思う。応援してくれるかのぅ?」
「当たり前じゃないですか。むしろ、俺が応援しなかったことなんてありました?」
「ふふふ。生意気じゃぞ〜、弟のくせに」
うりうりと、結希の腰に肘を入れて朱亜は歯を見せる。朱亜は笑っていたが、近づいてきた青葉が朱亜を視界に入れると──
「…………もう諦めろ」
──小声で、それでもはっきりと突き放して拒絶した瞬間は笑っていなかった。




