九 『最後の砦』
「結希、朝です。起床です。お寝坊さんは小学生で卒業です」
ゆさゆさと揺さぶられ、仕方なく目を開けると──そこには何故か、涙がいた。
「──ッ?!」
喉が乾いていたせいで声が出す、ひたすら涙を指差すことしかできないこの状況はなんなのだろう。
涙は何度も差してくる指を不思議そうに見つめ、「了解です」と言うや否や人差し指の先端で結希の人差し指の先端に触れた。
「ちがっ……! ……る……っ! て……か、なんっ!」
「結希、日本語を希望します」
「〜〜ッ!」
勢い良く起き上がり、慌てて辺りを見回すと──結城家の自室ではなく百妖家にある自室だった。安堵する暇もなく目覚まし時計を確認すると、午前六時。普段の起床時間よりも一時間早い。
結希は唾を飲み込み、なんとか喋れるようになった瞬間声を上げた。
「なんで涙がここにいるんですか!」
「結希の兄だからです」
「正確には従妹の従兄ですから! ぶっちゃけ他人ですから!」
「寂寥です。俺は、結希が誕生した瞬間から兄です。親族は皆、昔からそう言っています」
涙はしょっちゅう自分を兄だと言うが、そんな実感がわかないのは記憶を共有していないからだった。
六年前に記憶を失い、そのままほとんど顔を合わせずにここまで来てしまったが故の溝だった。
「確かに俺は千羽と紅葉の従兄です。ですが、結希たち三人とは本物の兄弟のように成長です。なので、他人は嫌です」
何が涙をそうさせたのか、今日はやけに強情で。普段から憂いを帯びた表情は、子供のようにむくれていた。
「……別に兄でもいいですけど、ここに来た理由にはなってませんからね」
「仕事です。ついでに弟の顔を拝見です」
「町長秘書がやるような仕事はうちにはないですよ」
「旅行です」
そして子供のような感覚で告げ、暑かったのか着ていたスーツのジャケットを邪魔そうに脱いだ。
「ほんとに何しに来たんですかあんたは」
「……? 結希は無知ですか?」
「あんたの説明不足のせいですよ!」
勢いのまま布団を剥ぎ、ベッドから這い出た結希は涙を睨み上げる。いくら親族とはいえ、不法侵入をした上にわけのわからない理由で病人を叩き起こした罪は重い。二度寝をしなければ一生許されることはないだろう。
「了解です」
だと言うのに、涙はまたわけのわからないことを言って結希の腕を引っ張った。そして部屋を出、すぐ傍にある階段を下りる。
「涙! ちょっ、どこに……!」
その強引さもどこから来るのか、目の前にいる涙は結希の記憶の中にいる涙とはだいぶ違っていた。
あまり会ったことがないせいか、その時々で受けた印象は少しずつ違う。それでも共通しているのは、無表情の中に痛みを隠し、耐え忍んで寂しがって──涙を流せば絵になるような、そんな未亡人じみた姿だった。
ようやく別の誰かを愛することができたのか、前のめりになって階段を下りる涙は二階の空きスペースで足を止める。
何事かと思えば、早朝にも関わらず玄関先に人影が見えた。
「うむっ?! 涙先輩、なんで結希を連れてきたのじゃ?! 此奴は病人じゃと言うたばっかじゃろ!」
「安心です。元気そうでした」
「誰のせいだと思ってるんですか」
軽く肘を入れながら涙越しに階下を見ると、朱亜はもちろん、愛果と麻露、歌七星もいた。
平日のこの時間にどこへ行くつもりなのか、大荷物を玄関に置いた愛果は釣り目がちな碧眼を優しく緩ませる。
「結希……。アンタ、昨日の今日なんだからまだ寝てなさいよ」
愛果は呆れつつも自然と上がる口角を隠しきれず、ぷいっとそっぽを向いて照れ隠しをした。
「結城さん、見るだけと言っていたのに起こしたんですか?」
歌七星は他人の涙に対して咎めるように物を言い、麻露はやれやれと肩を軽く上げただけで特に何も言わなかった。
「歌七星、否定です。無意識です。故意ではないです」
「故意でしたから。記憶がないならぶん殴りますよ?」
「結希、謝罪です。激痛は苦手です」
涙は降参したように軽く手を上げ、隅に寄って再び四人の姉妹を見下ろす。
一人でも二人でもない数の姉妹を目の当たりにしたせいなのだろうか。そこに、かつて本物の兄弟のように育てられたという自分たちを重ね──僅かに薄花色の瞳を緩めたのを、結希は見逃さなかった。
涙は、別に誰かを愛せたわけではなかった。
単純に寂しかったのだ。
「涙先輩、結希を部屋に戻すのじゃ」
「嫌です。俺も弟に見送りを願います」
「うぅ〜……? 困ったのじゃ。涙先輩のお願いには弱いのじゃ。かな姉、こういう場合はどうすれば良いのじゃ?」
「結希くんがいいと言うのなら、わたくしたちが口出しをする権利はありませんよ。……それにしても、変な感じですね。結希くんが結城さんの弟だなんて」
歌七星は真顔を崩して頬を綻ばせ、結希と涙を親愛を込めた瞳で見上げた。
結希はともかく、涙を見つめる紫色の瞳には十年来の友人と再会したかのような親しみが込められている。
「ふふ。歌七星と涙は同級生だったからな、余計にそう思うのだろう」
「あ。同級生だったんですか」
その言葉が妙に腑に落ちて、敬語しか喋らないくせに親しそうな間柄だということはよくわかる二人は微笑した。
「えぇ。……あの頃が、懐かしいです」
「同意です。あの頃は、桐也もいて…………幸福でした」
微笑の中に陰りが見え隠れしていたが、結希はあえて追及しなかった。
視線を動かせば、俯いて黙考する朱亜がいる。らしくない反応をする彼女のことを思えば、何を尋ねようとも思わなかった。
「アンタは知らないと思うけど、かな姉が生徒会長だった時は涙さんが副会長でさ。桐也さんと、一個下だった鈴姉しい姉朱亜姉の六人が役員だったのよ」
前生徒会長だった愛果は誇らしげに語り、次の瞬間「もしかしたら歴代最高メンバーだったんじゃない?」と、羨ましそうに人差し指を唇にあてがう。
「そうですか? なんの因果か、当時と今年度の生徒会役員は構成が少し似ているような気がしますが……」
「同意です。半妖の生徒会長と陰陽師の副会長が同時に名を連ねたのは、俺たちの代と結希たちの代のみです。俺と歌七星、ヒナギクと結希では後者の方が最高だと判断できます」
「当然です。相手は半妖の総大将と世界を救ったヒーローですからね。わたくしと結城さんでは二人の足元にも及びませんし、仮に相手を交換したところで釣り合うとも思えません。……悔しいですけどね」
何故か物憂げな表情を浮かべ、歌七星はため息をつこうとして止めた。
ため息をつくと幸せが逃げる。根拠のないことを本気で信じている歌七星は、愛果と同じく大荷物を持ち上げた。
「わたくしはそろそろ出ます。シロ姉、後のことは任せましたよ?」
「……何故それを歌七星に言われなきゃならないんだ、まったく。わかっているさ、色々とな」
「気をつけてくださいね。わたくしが出れば、残されるのはシロ姉と依檻姉さんのみとなります。後は鈴歌と熾夏、そして朱亜しかいないのですから」
そして歌七星は結希を見──
「結希くん、見送り感謝します。頼りない姉たちばかりになると思いますので、貴方がここを守る最後の砦となってくださいね」
──初対面の頃には想像もできなかった、柔和な笑みを浮かべた。
「それは構わないんですけど、そもそもどこに行くんですか?」
「聞いていないのですか? 本日から一ヶ月ほど、《Quartz》の全国ツアーの為に町を出るんですよ。一ヶ月間会えなくなるので寂しい思いをさせるとは思いますが、テレビには出るのでそれで我慢してくださいね」
「頑張ってください……って言いたいところですけど、歌七星さんまで子供扱いしてません? 依檻さんみたいで少し気味が悪いんですけど」
言葉の端々に引っかかりを覚え、結希はついついむくれて返す。それが先ほどの涙と重なり、慌てて表情を元に戻した。
「ふふふ、冗談です。では、いってきますね」
バラバラな「いってらっしゃい」を聞いた歌七星は家を出て、残された愛果は腕を組んだ。そして黙考し──
「ウチ、やっぱやめる」
──決意を滲ませてそう告げた。
「行っておけ。一生に一度だろう?」
麻露はそれを許可せず、涙もうんうんと頷く。
「同意です。修学旅行です。思い出たくさんです」
そこで初めて、結希は涙が言った旅行の意味を知った。
「だから、かな姉も出るのにウチまで出れないって言ってるの!」
「子供が変な気遣いをするな」
「変じゃない! だって、ウチとかな姉が同時に町を出たらマズいでしょ?! 覚醒した半妖は……なんでか知んないけど! 心春だけになっちゃうんだってシロ姉もわかってるでしょ?! もしウチらがいない間に何かあったら……! ウチは、責任なんてとれないよ……!」
「とる必要はないだろう。そもそも愛果、キミは覚醒してから私たちの実力をなめすぎだ。妹がそんなくだらない理由で修学旅行に行かない方が責任を問われることもわからないのか?」
そして、特に何も考えていなかったが──事の重大さに初めて気がついた。
母親を含む陰陽師の一団が極秘に町を出たのは、つい数日前の出来事だ。
半妖の歌七星が町を出て、愛果までもが町を出るのなら、それに同行する陰陽師が最低でも二人いないといけなくなる。熾夏がアメリカに行った時、涙が同行したように──歌七星には誰かが。そして、愛果には涙が同行することになっているはずだ。
その戦力の低下を、敵に知られてしまったら──?
「でもっ、もう…………六年前みたいなことは、嫌なの」
「…………」
結希は言葉を失い、恐る恐る涙に視線を向けた。
涙は結希の言いたいことを汲み取り、読唇術で無音の返答をする。
『気持ちは理解です。絶対に大丈夫です、とも言えません。とても危険です』
六年前を経験している涙は、確かに危機感を抱いていた。
『ですが、大人としては子供に笑顔でいてほしいです。修学旅行、楽しんでほしいです。全国ツアーも、待機する人々が大勢です。それに……』
『……それに?』
『……俺は敗北が嫌いです。同じことは二度と繰り返しません。信頼を希望します』
結希は黙って涙を見つめ続けたが、返事はもうなかった。やがて愛果も麻露に説得されたのか、渋々涙に合図を出して荷物を持つ。
「結希……その……。どこにいても、アンタたちのことは守るからね」
そう言い残して、涙に荷物を押しつけたまま家を出た。
麻露はそれを見届けた後、すぐに二階へと上がってリビングへと姿を消す。二度寝しようと決意していたが、どうしても黙ったままの朱亜が気にかかり──
「朱亜さん」
──声をかけると、朱亜はゆっくりと顔を上げた。
「もう行っちゃいましたよ」
「……あ、あぁ。うむ、そうか」
これ以上かける言葉が見つからず、かと言って立ち去ることもできず、ただそこに立っていると──
「そうじゃ結希、渡したいものがあるのじゃが」
──と言って、朱亜は弱々しく笑った。




