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百鬼戦乱舞  作者: 朝日菜
第四章 真綿の首輪
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七  『青と朱色のアトモスフィア』

「まさかお主らが基礎もわかっとらんとはのぅ……。我輩、ちと目眩がするのじゃが」


 重たい頭をなんとか上げると、頭を抱えた青葉あおばが教科書を教壇に置いたところだった。昨日のプール補習に続いて行われている古典の補習は、水泳よりも辛く──教える側の青葉でさえ音を上げるほどだ。


「しょうがないじゃーん。相手は学年最下位を争うあたしとゆうゆうだよ? これくらい覚悟しててよね〜、青葉ちゃん」


「……お主に上からものを言われる筋合いはないぞい、亜紅里あぐり。学年最下位も争うことではないからな?」


 青葉が疲れたような表情をすると、亜紅里はイタズラをしたばかりの子狐のように笑う。そして隣の席に座る結希ゆうきに視線を移し、ぺろりと舌で柔らかな唇を舐めた。


「ほぉ〜らほぉ〜ら、ゆうゆうが死んだ魚のような目で青葉ちゃんを見てるよ〜? どうするの〜? どうするの〜?」


「どうするもこうするもないじゃろが。まずは、お主らの古典に対する苦手意識を払拭させねば……」


 青葉は眉間に皺を寄せたままため息をつき、どうしたものかと腕を組んだ。


 勉強に関してはこの六年間で詰め込むだけ詰め込んだが、小中すべての教科を同時進行させようとすると、どこかで必ずズレが生じる。

 一年前から高校も始まったが、授業について行けるわけもなく──そのズレを修正させる余裕もなく。早い段階から勉強が嫌になった結希は、陰陽師おんみょうじの術ばかり好き勝手に学んでいた。


 そのツケが、今になって訪れている。


 高校受験はエスカレーター式だったおかげで問題なかったが、このまま行けば大学受験という選択肢が消えてしまうだろう。残された選択肢は就職のみだが、今のところこんな結希を採用しようとする頭のおかしな職場は《カラス隊》だけだった。


「あははっ、ゆうゆうがすごい顔してる〜! あははははっ!」


「静かにするのじゃ、亜紅里。きつねうどんにしてやるぞ?」


「えっ、きつねうどんってモノホンの狐が入ってるの?! 嘘でしょ?! 人って怖い!」


「さっさと黙らんと油揚げのエサにしてやるぞい? 美味そうじゃなぁ〜、美味そうじゃなぁ〜」


 先ほどの仕返しのつもりなのか、青葉はニヤニヤと笑っていた。隠す気もないらしく、きつねうどんを知らない結希でも冗談だということが辛うじてわかる。


「めんごめんご、ごめんなさいっ! 黙るからお願い、食べないでっ! じゃないと騙されたお狐様が青葉ちゃんを祟り殺しちゃうかもっ!」


「なるほどのぅ。祟り殺されるのは確かに勘弁じゃけども、その前に亜紅里の成績をゼロにしてしまえば我輩の勝ちとなるはずじゃ。……のぅ? 亜紅里」


 青葉の青目は、寝ぼけ眼で事態を静観していた結希から見ても鈍く光っていた。亜紅里は慌てて口を塞ぎ、身を縮ませて青葉を見上げる。青葉は静かになった教室を見回し、ずっと黙っている結希のところで視線を止めた。

 授業中に喋るような生徒ではないが、亜紅里がこれだけ喋っても何も言わないのは珍しく──


「……結希。お主、ちと顔色が悪そうに見えるのじゃが大丈夫なのかの?」


 ──なんとなく、思ったことを口にした。

 何故かぼんやりとする頭で青葉の言葉を理解し、結希は「あー……」と、小さな気の抜けた返事をする。そして首を傾げ、頬杖をついていた手で自らの額にそれを当てた。


「…………大丈夫です。多分」


「多分とはなんじゃ多分とは。はっきりするのじゃ」


「ゆうゆう、こっち向いて!」


「…………は?」


 半ば反射的に右隣にいる亜紅里の方を向くと──ごちん。と、今まで一度も聞いたことのない音が額から聞こえた。


「自分で計ったら意味がないんだって。こんなのあたしでさえ知ってるよ〜?」


 呆れたような声色のまま、額と額を合わせた亜紅里は「ふむふむ、ふむふむ」と唇を動かす。焦点を合わせると、目の前にいる亜紅里は吐息がかかるほど近かった。

 絡み合う、牛革じみた茶色の前髪と自分の黒い前髪。ぼんやりと見える、閉ざされた瞳を保護する長いまつ毛。引こうにも引けない美貌と後頭部におかれた手は確かにそこに存在しており、結希はわずかに息を呑んだ。


「で、どうなのじゃ?」


「それはここを触ってみないとなんとも言えませんなぁ〜」


 亜紅里はくひひっと笑い、次の瞬間、なんの遠慮もなく結希の首筋に手を突っ込む。


「つめ……ッ?!」


「うわぁ〜っ! せんせ〜っ! 百妖ひゃくおう君の首筋が熱いで〜す!」


「まさかと思うて見ておったが……亜紅里、お主面白がっとるじゃろ」


「くひひっ。さぁ、どうでしょ〜?」


 歯を見せる亜紅里は、そこに狐の尻尾があれば思いきり揺らすのではないかと思うくらい嬉しそうに笑っていた。結希の首筋から手を引き抜き、そのままほんの少し乱れた襟元を整える。


「でもでも、わりとマジで今日のゆうゆうはやばいと思うよ? 人間の病気は首を見ろってかあさん言ってたもん。なんか耳も赤いしね〜」


「…………」


 言われて結希は、昨日何があったのかを思い出した。思えば昨日は、風邪を引く心当たりしかない一日だった。

 プールから直行して《猫の家》に行き、そこで水を頭から被り、汗だくのまま異様に冷えきった家に帰り──。


「…………ゔぇっくしょん!」


「ゆうゆうーっ! しっかりしろーっ!」


「やれやれ、仕方がないのぅ。結希、ちゃんと一人で帰れるのかの? ……いや、確か百妖は遠いから無理じゃな。誰か迎えを呼んだ方が良い」


「はいはいはいはいっ! ならあたしが送る!」


「百妖の連中に半殺しにされても良いなら構わんぞい?」


「くひひっ、脅し文句にもなってないよ? 青葉ちゃん。あたしはもう、ゆうゆうの為ならなんでもやるって決めてるんだからさ。殺されたって構わない、この命はゆうゆうとヒーちゃんに生かしてもらったんだからね」


 亜紅里は天色の瞳で結希を見、毛づくろいをするように髪を整え始める。あまりの気持ちよさに一瞬で寝そうになったが、結希はぼんやりとした思考のままその手を重い手で振り払った。


「あ〜あ、これはダメか〜。もっと親愛度を上げないとあっちゃんルートには行けないっていうアレね〜。あたしとしてはいつだってウェルカムだけど」


 亜紅里の言うことはよくわからなかったが、結希はしっしっと手を払って口元を覆った。


「もっとあっち行けよ……」


 亜紅里は一瞬だけきょとんとし、にこりと笑って「めんごめんご」と手を合わせる。


「そうだよね、ゆうゆうはあたしのこと嫌いだもんね〜。だからもっと構いたくなるっていうか? あはは、これじゃ嫌われてもしょうがな……」


「……ていうか、喋りまくって風邪うつっても知らないからな」


 じろりと睨むと、再びきょとんとした亜紅里はすぐさま胸の辺りを抑えて青葉のいる方へと後退していった。


「何これ、しんどい……むりすぎ……。もしかしてこれがギャップ萌え……? え、待って待ってギャップ萌えってこんなに尊いの? むりじゃない? むりすぎてしぬんだけど……待って待って、むり……しぬ……あぁ、尊い……ゆうゆうが死ぬほど尊い……ていうか眩しい……」


「お主の語彙力はどこに行ったのじゃ。結希、こんなバカに構わずさっさと電話なりなんなりしておくれ。依檻いおりに頼むよりもそっちの方が手早く済むじゃろ」


「……はい。すみません」


「謝ることはないじゃろ。男子たるもの常に健康体であることが一番じゃが、結希はその辺のはなたれ小僧とは格が違うからのぅ」


 青葉は笑い、未だに悶え苦しみながら騒ぐ亜紅里の頭を教科書で叩いた。





「どっこらせ、っと。はぁ〜……、肩が痛いのぅ。年じゃのぅ……」


「……すみません」


 保健室のベッドまで肩を貸していた青葉あおばは肩を揉み、首を回す。


「やれやれ。お主は謝ってばかりじゃな? 謝罪の価値を下げるのはあまり良くないぞい?」


「……昔から、『何かあればとりあえず謝っとけ』って母さんが言ってたんで」


「……なるほどのぅ。確かに、記憶喪失の息子にはそう教えるのが一番じゃったのかもな。じゃが、それもそろそろ卒業すべきじゃ。これから先は謝罪程度では済まない案件も増えるからのぅ」


 うつ伏せでベッドに倒れていた結希ゆうきは顔を上げ、青葉の青目を視界に入れた。どこかで見たことのあるような青目は、眼鏡の奥にあっても少しだけ潤んでいるように見える。


「さてさて。我輩はもう戻るぞい? 亜紅里あぐりを一人で残してきたからのぅ、不安で胃が潰れそうなのじゃ」


「……ですね」


「うむうむ。それに、彼奴はただの寂しがり屋じゃ。遅くなればなるほど文句を言われるのは目に見えておるわい」


 青葉は踵を返し、保健室の扉に片手をかける。刹那、ぱぁんっと逆側から扉が開いた。


「ゆう…………ッ?! あ、あおば……せんせ?」


「…………朱亜しゅあ?」


 私服姿の朱亜は、呆然と目の前に立つ青葉を見上げている。目は見開かれ、唇はぽかんと開き、そしてそのまま動けないでいた。が、同じく固まったままだった青葉は唾を飲み込んで、すぐに微笑した。


「懐かしいのぅ。卒業式以来じゃから、四年ぶりくらいじゃろうか?」


 その笑みは朱亜を呪縛から解いたようで、朱亜は頬を朱色に染めながらこくこくと頷く。


「そう、そう……そうですよ。もう、四年……」


 そしてそのまま視線を下げ、再び青目で青葉を見上げた。


「あ、あの! 青葉せんせ、〝私〟……!」


鈴歌れいか熾夏しいかは元気かのぅ? あの二人は正反対で極端じゃったからなぁ、ずっと心配してたんじゃよ」


「え、あ、二人は元気……です。鈴歌は引きこもったままだったけど、昨日ようやくアルバイトを始めることができて! 熾夏も新人なのに偉い人から腕前を褒められてて!」


「ほぅ……。噂には聞いておったが、やはり熾夏は夢を叶えたんじゃな。鈴歌もようやく前を向けるようになったみたいじゃし……朱亜は、どうじゃ?」


 興奮気味に二人のことを語っていた朱亜は、続ける言葉が見つからなかったのか──何故か黙り、きゅうっと唇を真一文字に結んだ。

 青葉はそれを子を見守る親のように見──


「そうかそうか。じゃあ、我輩はもう出るからの。結希のことは任せたぞい」


 ──俯く朱亜の頭を一瞬撫でかけ、青葉はゆっくりとその手を下ろした。他にかけたい言葉でもあったのか、もごもごと口を動かしていたが──結局、何も言わないまま名残惜しそうに保健室から出ていった。


 そんな二人の間に漂う雰囲気をひしひしと感じていた結希は、数回まばたきをして唇を朱亜と同じくらい強く結ぶ。が、ついに耐えきれなくなって激しく咳き込んだ。


「うむ?! 結希! 大丈夫なのかの?! 電話をもらってからすっ飛んで来たのじゃが、そんなに症状が酷いのかの?!」


 咳き込むのを我慢していた反動だったが、それを言う暇もないまま結希は「ぜえぜえ」と息をする。駆けつけた朱亜は汗ばんでおり、ここまで車を飛ばしてきたのがありありと見てとれる。


「…………」


『なぁ結希。か、仮に自分が成人した古典教師だったとして、八歳年下の女子高生を好きになることはあるのかのぅ?』


 そんな姿を、好きな人の前で見させたのかと思うと申し訳なさで死にそうになる。


「朱亜さん」


「うむ?」


「……殺してください」


「そ、そんなにしんどいのじゃな?!」


 ただ朱亜は、風邪で伏せっている弟だけを心配していた。

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