六 『三つ子の二人』
「あんまり気にしないでねぇ。風ちゃん、昔からあんな感じなのよぉ」
振り返ると、気配もなく明彦が傍らに立っていた。
「じゃあ、仕事があるからアタシも帰るわね。今日は結希ちゃんに会えて良かったわぁ、機会があったら手術でもしましょうね」
女性のような動作で手を振り、明彦は風が下りていった階段を辿っていく。その後ろ姿をなんとも言えないような表情で見送り、結希は無意識に詰めていた息を吐いた。
「ふむ。やはり彼奴らと何かあったみたいじゃな」
「……朱亜さん」
真後ろの階段から下りてきた朱亜は、怒っているのか困っているのかよくわからない表情で結希を見下ろしていた。
「やはりって、上で何かあったんですか?」
朱亜は階段に腰を下ろし、膝に肘をおいて──
「ついさっき、鈴歌が走って部屋に戻ってきたのじゃ。相手は人の感情に疎い〝ごーいんぐまいうぇい〟な彼奴らじゃし、鈴歌はあぁ見えてうちで一番繊細な子じゃからな……。最悪の場合、また引きこもってしまうのじゃ」
──今はただ悲しいとでも言うような表情を浮かべ、どうすればいいのか思案した。
「そうじゃ結希。お主、料理はできるのかのぅ?」
「得意料理は白米ですけど」
「……結希、残念ながらそれは得意料理とは言わんぞ?」
朱亜はすぐさま心配そうに結希を見、立ち上がって下りてくる。隣に立つと余計に小さく見える朱亜は、何故かえへんとない胸を張って不敵に笑った。
「まぁ今はそれでも良いのじゃ。結希、暇ならばわらわにちとつき合え」
そしてリビングの扉を開け、立ち止まることなくキッチンの方へと歩いて行く。
「シロ姉、エプロン借りるぞい?」
「……ん? あ、あぁ。好きにしろ。ついでに夕食も作っといてくれ」
「う、うむ? 了解なのじゃ」
明彦と風を相手にして疲れたのか、麻露は朱亜の返事を聞かずにリビングから出ていった。覚束ない足取りだったせいか、階段から足をぶつけるような音がする。
結希でさえ珍しく映る麻露の言動に、朱亜が違和感を感じないはずもなく──
「やはり彼奴らは危険じゃな……。じゃが、彼奴ら以外でまり姉を託せる人材がいないのもまた事実か」
──憂いを帯びたまま、普段麻露が使っているエプロンを着用した。
「俺は何をすればいいんですか? エプロンとかないんですけど」
七女とはいえ、鈴歌と同い年の朱亜は五女と変わらない立ち位置にいる。見た目も中身も幼めだが、彼女もまた麻露に信頼される年長者なのだ。
割烹着のイメージが強いが、新妻感溢れる真っ白いエプロン姿を見て──結希はそれを、鈴歌と同じようにようやく思い知った。
「うーむ? 結希はこのキッチンに不慣れじゃからな。とりあえず材料を出して、夕飯用の米を炊いてほしいのじゃ」
「わかりました」
「良いか? 探すのはさつまいも砂糖牛乳卵バター黒ごま……」
「すみません現代語訳してください」
「材料名に現代語訳もクソもないぞい?!」
そもそも砂糖と塩の違いがわからないのだから仕方がない。わかるのはさつまいもが旬じゃないことくらいだが、農産業も発展している陽陰町において年中収穫できない作物などほとんどなく──無駄な知識しか持たない弟を前に、朱亜はがっくりと肩を落とした。
「うぅ……。どうせなら、はいすぺっくな弟が欲しかったのじゃ……」
「はいすぺっく?」
「今のも現代語じゃぞ?! ま、まさかわらわの方がおかしいのか……? 今時の若者はそのような言葉を使わないのか……?!」
結希の反応に朱亜は愕然とし、余程ショックを受けたのか腰を折って沈む。
「……やはり、時が経つのは早いのじゃな。わらわはもうばばぁなのじゃ」
「ババアって……。たったの五歳差じゃないですか」
「何を言う。五歳差というのはお主にとっての月夜と幸茶羽じゃろ? それでも自分がじじぃではないと言い切れるのか?」
「ジジイですね」
将来的に大差はなくなるのだろうが、五歳差という単語が成す意味は確かにあまりにも大きかった。
今はまだ遠くにいる気がするが、月夜と幸茶羽が成人すればそんな距離感が一気に縮むような気もする。朱亜にとっての結希も、きっとそんな感じなのだろう。
「わかりました。あと三年だけ俺が成人するのを待っていてください」
「ちょっと待て何がわかったのじゃ。不覚にもちょっときゅんきゅんしたぞい?」
「距離感です」
「…………いやまったくわからんのじゃが。でもまぁ、確かに結希が成人するのは姉として楽しみじゃな」
朱亜は満足気に笑い、上機嫌のまま背伸びをして戸棚を漁った。カウンター前に立っていた結希は冷蔵庫で未知との遭遇を繰り返し、目的の食材を自信満々で取り出す。
「なぁ結希」
「はい?」
「か、仮に自分が成人した古典教師だったとして、八歳年下の女子高生を好きになることはあるのかのぅ?」
「……はい?」
そして卵を落としかけた。
「い、いやなに、小説のネタじゃよネタ! わらわは鈴歌と違って引きこもりながら働いておるからな、話の流れで聞いておきたかったのじゃ!」
「……あぁ、そういうことですか」
「う、うむ! うちは女系一家じゃからな、結希の意見は聞ける時に聞いておかねば!」
「別にいいですけど、やけに凝った設定ですね」
卵を拾い、朱亜が揃えた道具の側にすべて並べる。
「うむ?! そ、そそそそんなことはないぞい?!」
「なんで吃るんですか」
女系一家らしくキッチンにお洒落に並べられた調味料を手に取り、それらしいものを片っ端から舐める。
「うぅ……」
そして一番甘かった調味料を手に取り、朱亜が取りやすい位置に置いた。
「……で?! どうなのじゃ?!」
「待つんじゃないですか? やっぱ」
「大人になるまで?!」
「大人になるまで」
「わっ、わらわはもう大人じゃぞ?!」
「…………」
「あっ、いや、なんでもないのじゃ!」
「…………あ、黒ごまか」
どうりで何かが足りないと思ったわけだ。
「くぁぁっ! 紛らわしいのじゃその沈黙!」
「え? あ、すみません」
慣れない結希とは違い、口を動かしてもなお動く朱亜の手は最早ゲーム感覚と言っても過言ではなかった。
実際本当に引きこもりなのかと疑うほど、今までキッチンに立った姿など皆無だったにも関わらず朱亜の手際は非常にいい。
「たっだいま〜! ねぇねぇ、何かすっごいいい匂いがするけど、何作って……わっ、朱亜姉?!」
「……? 貴様、キッチンで何をしている! 処刑するぞ!」
魔法のようなそれに見惚れていると、外に漏れ出た匂いを辿ったのか月夜と幸茶羽がリビングに顔を出した。
十二女と十三女の末っ子双子は、余程驚いたのかバタバタとキッチンに駆け寄ってカウンター越しに朱亜の手際を眺める。
「うわぁ〜っ、お芋だ! お芋!」
「さつまいも……? お、おい。一体何を作っている!」
「案ずるな、月夜と幸茶羽の分もあるぞい?」
「うわぁ〜い! つき、お芋好き〜!」
「ささはいらない! けど、どうしてもって言うなら試食してやるからな!」
わいわいとはしゃぐ双子はやはり幼く見え、動く度にたんぽぽ色の髪がふわふわと揺れる。大人になった姿がまったく想像できない二人は、相も変わらず二人だけの世界を作って言葉を交わしていた。
「ねぇねぇ、お兄ちゃんは何作るの?」
「ん? あぁ、白米だよ」
「おい貴様。それは作るとは言わないぞ」
「やはり幸茶羽でさえそう思うのじゃな……。とりあえず結希、十合で頼むぞい」
やるべきことを思い出し、四ヶ月前まで実家でやっていた通りに炊こうとして──結希は耳に引っかかる単語に首を傾げた。
「十合? 朱亜さん、それって本気で言ってます?」
「なんじゃ結希。うちは毎食それくらいは炊くぞ?」
「毎食?!」
「結希、大家族をなめとるのか?」
朱亜の呆れたような表情で、あぁとようやく納得。
言われてみれば、確かに二人分で充分だったあの頃とは何もかもが違っていた。
「ほれ、結希がぼんやりとしとる間にわらわは下ごしらえを終わらせたぞい?」
「今すぐやります!」
「うむ。良い返事じゃ」
朱亜は驚くほど効率よく進めているのか、脅しでもなんでもなく本当に次の段階へと調理を始めていた。それを褒めると、朱亜は真顔で「こんなの普通じゃろ?」と不思議そうに結希を見上げた。
*
「お、終わった……」
「なんじゃ結希、この程度でへばっておるのか? ……って、これ! 月夜、幸茶羽! つまみ食いじゃぞ!」
「え〜? だってもうできてるじゃん……あ〜んっ、美味し〜!」
「食卓に出しとらんものを食うのは全部つまみ食いじゃ!」
ぱくぱくと完成したスイートポテトを口に運ぶ双子を叱り、朱亜はやれやれと首を横に振る。
「結希、へばるのはまだ早いぞい? 問題はこの後じゃからな」
「も、問題?」
「なんの為にこれを作ったと思うておる。これは鈴歌の好物じゃ。鈴歌にあげて元気を出してもらわねば、わらわは困る」
皿に小分けしたスイートポテトを持ち、朱亜に引っ張られて辿り着いたのは鈴歌の部屋の前だった。
固く閉ざされたその扉を開けるのは困難で、前に一度だけ成功したことのある結希でも二度目は難しい。
「れい……」
「…………食べる」
「……はやっ!」
月夜と幸茶羽と同じく匂いに釣られたのか、あっさりと出てきた鈴歌は朱亜の持つスイートポテトを手掴みで頬張り──
「…………美味しい」
──余程好きなのだろう、鈴歌は本当に幸せそうに笑っていた。
「なら良かったのじゃ」
そして笑う朱亜もまた、幸せそうだった。




