五 『風がふけば鈴が歌うように』
「…………平気?」
多少は申し訳ないと思っているのか、鈴歌は自分をおぶる結希の顔を覗き込んだ。が、返ってくる言葉はなく鈴歌はちらりと我が家を見上げる。
日傘を差しているとはいえ、七月の気温は高い。鈴歌はなるべく結希の頭上に日傘を固定させ、自分もその中に入ろうと汗ばむ首元に顔を埋めた。
鈴歌をおぶる結希もまた顔を上げ、坂の上に建つ我が家を恨めしげに眺める。
学校のプールで泳げもしない水泳の補習をし、雑居ビル地区の《猫の家》で髪が濡れたまま昼食を取り、バイトが終わり疲労で動けない鈴歌の面倒を見ながらの帰宅──。一つずつならまだいいが、それらが重なったことにより結希もまた疲弊していた。
ようやく坂を上りきり、日陰に入って数秒後。日傘を畳む余力もないのか、鈴歌は適当にそれを放り投げる。
鈴歌の極度の面倒臭がり屋っぷりを目の当たりにした結希は、わざとらしくため息をついて鈴歌を強く揺さぶった。
「鈴歌さん、せめて鍵だけは開けてください」
「…………むり」
「今からダッシュで坂を下りてその辺に捨てますよ」
「…………あける」
おぶられたまま嫌々鍵を開ける鈴歌を見届け、冷えきった玄関までゾンビのように歩き──結希は体が溶けるようにその場に崩れ落ちた。
「…………うぅ」
同じく崩れ落ちた鈴歌は、抗議する余力さえないのか結希の背中からずり落ちる。振り返ると鈴歌は仰向けに倒れており、何故か息切れを引き起こしていた。
「鈴歌さん、体力なさすぎじゃないですか?」
既に息を整えた結希は靴を脱ぎ、ふと視線を外して手を止める。いつ見ても大量の靴が散乱している玄関には、たったの二足しかなく──その片方は自分以外の男物の靴だった。
どうりでここまで躓くこともなく歩けたわけだ。
納得する反面、結希はこの家に用があって来る人間が限りなく少ないことを知っている。
「…………おんぶ」
「もうしません」
ぴしゃりと言い放ち、不審そうにすぐ傍にある階段を見上げた。この異様な寒さは冷房が効いているせいだと思ったが、それにしては冷気が強すぎる。
鈴歌も不審に思ったのか、体を起こして階段に手をかけた。二人で顔を見合わせて、結希は嫌な予感を押し殺しながら冷気が立ち込める二階へと駆け上がる。
「麻露さん!」
すぐさまリビングの扉を開けると、やはりそこには麻露がいた。麻露はソファに深く座り、L字型の隅に座らせている二人の客人を魔物のような深い青目で睨みつけている。
「……悪いな。しばらく自室にいてくれないか?」
その冷えきった声に息を呑み、結希は何事かと二人の客人に視線を向けた。
女性ならば誰もが羨むような陶器肌。それを覆い隠すような、ふんわりとした肩までの黒い髪。アンニュイな表情を浮かべ、丸みを帯びた切れ長の瞳は手元にあるティーカップだけを眺めている。
夏場だがこの状況には少しだけ適している白衣を着、女性はショッキングピンク色の瞳を上げて結希を見据えた。
「あららぁ? やだもぅ、いるじゃないオトコノコ! かわいいわねぇ、美しいわねぇ、国宝モノねぇ! あぁんっ、今すぐ手術してあげたいわぁ!」
その言葉を発したのは女性ではなく、結希の視界一面に入ってきた〝男性〟の方だった。
同じく、女性ならば誰もが嫉妬するほど手入れに手入れを重ねた雪色の肌。それによく映える淡い藍色の髪。ある意味狂気じみている、光り輝く瑠璃色の瞳。
どこか見覚えのあるそれは、結希を何かの芸術品のように眺め──男性は唇から息を漏らした。
「ねぇねぇ、アナタ自分の肺の色は何色だと思う? あぁでも、アナタ未成年だからキレイなのかしら? やだもぅ、ショタじゃない! アナタショタなのねぇ?!」
「とりあえず通報しときますね」
ただならぬ身の危険を感じ、結希はスボンのポケットからスマホを取り出す。
「やだもぅ! 未成年のうちからツンツンしてるだなんてかわいくないわよぉ?」
男性はそんな結希の頬を指で啄き、彼氏を目の前にした彼女のような笑みを浮かべた。
「やめておけ、結希。彼は明日菜の従兄、妖目明彦だ」
「やんっ。麻露お姉ちゃん、そんなかわいくない名前で呼んじゃ嫌よぉ。〝アキちゃん〟って呼んでほしいわぁ」
結希はくねくねと体をくねらせる明彦をおっかなびっくり見上げ、彼の明日菜に似た瑠璃色の瞳を見つめる。その視線に敏感に反応した明彦は、「うふふ」と笑って結希の首に抱きついた。
「結希ちゃんはアタシのこと、〝アキちゃん〟って呼んでくれるわよねぇ?」
「呼びません」
幼馴染みの明日菜の従兄に初めて会ったが、明日菜には似ても似つかぬ奇人そのものだった。
結希は不快そうに明彦を引き離し、彼の細身の割には男性的だった体格に身を震わせる。離れてみてわかったが、明彦もまた白衣を着用していた。
「なんなら〝お姉ちゃん〟でもいいわよぉ? ほら、結希ちゃんが明日菜ちゃんのお婿さんになったら、アタシは結希ちゃんのお姉ちゃんになるものぉ〜!」
「呼びません!」
数歩下がると、ようやく結希に追いついた鈴歌が結希の退路を塞いだ。
「…………ユウキ?」
不思議そうに弟を見上げ、鈴歌は明彦へと視線を向ける。そして麻露、最後に沈黙を続ける女性を見、ショッキングピンク色の瞳をまばたきさせた。
「ッ、君たちは早く自室に行け。こいつらの相手は私一人で充分だろう」
「ダメよぉ、麻露お姉ちゃん。鈴歌ちゃんはともかく、結希ちゃんにはここにいてもらわないと困るわぁ」
明彦は片目を瞑り、結希の肩を抱く。何がなんでも結希を離したくないのか、いくら力を込めても明彦が離れることはなかった。
「…………マリ姉の話?」
ぽつりと、真後ろにいた鈴歌が呟く。二人の服装を見て察したのか、鈴歌は意外と聡かった。
「真璃絵さんの?」
言われて結希は麻露に目をやる。
かちゃん、と音がしたかと思えば、それは女性が空になったティーカップをテーブルに置いた音だった。
「僕は長話をしに来たわけではないからね。麻露、さっさと話の続きをしよう」
「風ちゃんはせっかちねぇ。結希ちゃん、そういうことだから同席お願いできるかしら?」
輝く瑠璃色の瞳が一転、憂いを帯びた。明日菜と大差ない、彼女がよくする瑠璃色の瞳だ。
「……そういうことなら」
やはり明彦も妖目家の一員なのだ。そのことを再確認し、結希はある程度の警戒を解く。明彦はそれを見、嬉しそうに結希の手を引いた。
「うふふ、良かったわぁ。風ちゃんは綿之瀬家のご息女さんでね、アタシと同じ真璃絵お姉ちゃんの担当なのよぉ」
風と呼ばれた女性はため息をつき、「早く戻れ」と明彦を叱咤する。
綿之瀬家のご息女ということは、あのアリアと乾の従姉ということだろうか。先月乾が言っていた、真璃絵の研究をする本家の人間──それが、風だと言うのか。
「はいはい。どこまで話したかしらぁ? アタシが真璃絵お姉ちゃんの手術をしたい〜っていうのは……」
「却下だ」
「意味のない手術はやめろ。氷漬けにするぞ」
風と麻露に即答され、明彦は残念そうに肩を落とす。
「やだもぅ、ロマンがないわねぇ〜? えぇっと、そうそう。それで、真璃絵お姉ちゃんには妖目総合病院から退院してもらうかも〜ってところまでは話したのね?」
「退院? 目が覚めたんですか?!」
麻露の隣りに座りかけた結希は腰を上げ、思わず前のめりになって尋ねた。勢いのままテーブルに膝を打つ結希を恍惚とした表情で眺め、明彦は首を横に振る。
「違う」
それに答えた麻露は眉間に皺を寄せ、一段とリビングの温度を下げた。
「この六年間、真璃絵お姉ちゃんの容態になんの進展もないのは知っているでしょう?」
「百妖真璃絵が妖目総合病院を退院するのならば、我々の研究所に収容されてもらう。当然、これは六年前からの決定事項だからね。君はいい加減理解するべきだよ」
「理解も何もないだろう。明彦、何故急にその話が出たんだ」
「それはアタシじゃなくて結希ちゃんに聞くべきよぉ。先月、冬乃お姉ちゃんが結希ちゃんの記憶喪失の件について報告書を上げてね? 医学で解決できないのなら、真璃絵お姉ちゃんの件も治療する価値なしって判断されたのよぉ」
「──ッ?!」
結希は目を見開き、絶句した。
麻露は息をすることさえ忘れ、戸口に立ったままの鈴歌は唇を丸く開ける。
「欲を言えば真璃絵お姉ちゃんの循環器をもっと見ていたかったのだけれど、仕方ないわよねぇ。アナタが真璃絵お姉ちゃんを眠らせたんだから、医学は最初から必要なかったのよぉ。まぁ、まだ熾夏ちゃんの声が大きいから、決定事項ではないけどねぇ」
医者の明彦は、事実だけを告げている。決して彼が悪いわけではないが、あまりにも他人事のように話すその姿勢が恐ろしく──
「…………俺のせい、ですか?」
──どうしても、自分を責めているように聞こえた。
「やだもぅ! 結希ちゃんのせいじゃないわよぉ。結希ちゃんのおかげで真璃絵お姉ちゃんは助かって、アタシも生き延びることができたんだからぁ。ねっ? 風ちゃんもそう思うでしょ?」
「……過去は大事だけど、過ぎてしまったことを永遠と話すのは嫌いだね。用件は結希本人にも伝えたし、僕は帰るよ」
風は立ち上がり、なんの荷物も持たずに戸口へと向かう。
「邪魔だよ」
そして対面した鈴歌の肩を押そうとし、彼女は尻もちをついた。
「なっ……?」
風は呆然と鈴歌を見上げ、彼女のショッキングピンク色の瞳に吸い込まれる。鈴歌は僅かに逡巡したが、麻露の咎める声も明彦の静止も振り切って──
「…………姉さんを、傷つけないで」
──彼女の中に唯一残っている、大切で切実な想いを告げた。
「…………四人しか、いないの。これ以上、姉さんを傷だらけにしないで」
吸い込まれた瞳から、涙が零れ落ちたのを風は見逃さなかった。思考が止まっていたにも関わらず、さすが研究者というべきかすぐさま怒りを顕にする。
「鈴歌! やめろ!」
風が何かを言う前に麻露は叫び、鈴歌がリビングから飛び出すのをただ黙って見つめていた。立ち上がった風は麻露を睨み──
「君はあの子にどういう教育をしたんだ?」
──そう尋ねて苦虫を噛み潰したような顔をする。
「……すまない」
謝ることしかできない麻露は結希の知っている麻露ではなく、リビングを後にした風を結希は思わず追いかけた。
「風さん」
養女とはいえ、乾の従姉と紹介されても違和感のない風は、振り返ってもなお同じ表情をしていた。
「六年前、何が正しかったかなんて誰も証明はできないよ。ただ、分家は人工半妖を作っていたにも関わらずそれを活用できなかった。それだけは愚かだったと言えるね」
そして、最後に血の繋がらない従妹二人の存在を否定する。そのまま歩き出した風は、二度と足を止めなかった。




