六 『初めての朝』
目を覚ますと、見慣れない天井が視界に入った。そのまま視線を動かすと、山積みのダンボールが放置されていることに気づく。
「……そういえば、ここ、うちじゃないんだよな」
結希は一度目を閉じて、昨日の出来事を思い出した。そしておもむろに体を起こし、ハンガーにかけた制服へと手を伸ばす。シャツの袖に手を通し、ボタンを留め、緋色のズボンを履き、緋色のネクタイを締める。
今日がいつもと変わらない一日だったら、寝巻き姿のままで朝食を食べていたはずなのに。これからは話が別なんだろうとぼんやり思って、廊下に出た。
二階まで下りて、リビング前の広い空間で足を止める。中から聞こえてきたのは、賑やかな女性特有の話し声だった。
そっと手を伸ばして取っ手を回す。結希の視界に飛び込んで来たのは、形のいい二つの柔らかそうな山だった。
「あら結希。おっはよ〜」
聞き覚えのある声がして視線を上げる。そこにいたのは、自分よりも背が高い担任の依檻だった。
「せっ、先生?!」
咄嗟に出てきたその呼び名は、笑いのツボが浅い依檻を戦闘不能にさせるには充分で。依檻は体をくの字に曲げ、小刻みに震え始めた。
「依檻。今日は早く出ないといけないんじゃなかったのか?」
そんな依檻を窘める声は、彼女の斜め後ろから聞こえてきた。
燃えるようなオレンジ色の髪を持つ依檻と対照的になっている、凍えそうな水色の髪を持つ麻露。そんな彼女が鋭い視線で依檻のことを睨んでいる。
「っと、そうだったわね。じゃあ結希、ちゃんと遅刻しないで学校来るのよ?」
手をひらひらと振りながら、依檻は機嫌良く階段を下りていった。
朝から依檻に会ってしまったこと。そして、これから学校で会うことを考えるとどうしようもなく気が沈んだ。
「おはよう結希。朝食はできているよ」
白色の、らしいと言えばらしいシンプルなエプロンをつけた麻露がテーブルを指差す。そこは昨日も夕飯を食べた場所で、今は学生組だけが食事を摂っていた。
なんとなく予想はしていたが、朝食は昔ながらの定番食、白米と味噌汁だった。
「おはよ〜」
今にも箸を落としそうなほどにうとうととしている、和夏。
「はよ」
未だに昨日の件を根に持つ、愛果。
「お兄ちゃんおはよ〜!」
米粒を頬につけながら屈託のない笑顔で笑う、月夜。
「……チッ」
余程結希のことを嫌っているのか、舌打ちをした幸茶羽。
「……お、おおおおおおはようございます!」
幸茶羽とは別の理由で目を合わせようとしない、心春。
「おはよう」
慣れない多くの挨拶に内心戸惑いながら、結希は眉を下げて笑った。
真新しい男性用の茶碗が置かれている月夜の右隣に座り、忘れないように合掌する。
「……いただきます」
それが、この家の絶対的な決まり事だった。
白米に箸をつける。ふっくらとした白米はちょうどいい柔らかさで、遠慮なく箸を沈めさせる。昨日の夕飯といい、麻露の料理の腕前は素晴らしく──今まで不摂生だった結希にとってはご馳走だった。
「おはようございます」
綺麗。それでいて凪いだ海のように抑揚がない美声の持ち主は、歌七星だった。皺一つないOLの仕事着のような服装と、ウェーブをかけた髪が完璧に整えられている。
紫色の髪に昨夜見た下着を重ねた結希は、不自然にならないように視線を伏せた。
歌七星はそんな結希を見もしないでキッチンへと足を運び、学生組とは違って用意されていない自分の分の朝食をよそう。
どうしても歌七星の表情が気になって一瞬だけ視線を向けたが、彼女の顔は、感情のない鈴歌の顔のようだった。が、その表情はつけっぱなしのテレビから漏れるBGMによって変貌した。
『〝カナセ〟の星座うらなーいっ!』
ポップな音楽がリビングに流れる。
「あ、かな姉……もがぁ?!」
嬉しそうにテレビ画面に映る女性を指差した月夜は、歌七星による口塞ぎの刑を受けた。が、時既に遅しで結希は画面に釘づけになる。そのまま、隣にいる歌七星と画面の女性を見比べる。
幸茶羽が歌七星に掴みかかれるほど充分な時間を経て、ようやく結希は腑抜けた声を発した。
「…………か、歌七星さん?」
ぷるぷると小刻みに震える自分の指は、画面の中にいる完璧な笑顔を浮かべた紫色の髪の女性を差す。
再び視線を歌七星に戻すと、月夜と幸茶羽を押さえていた歌七星に睨まれた。
「すみません人違いでした」
すぐさま結論づけて味噌汁を啜る。
昆布のダシが効いているそれは、手間隙かけて作られたことがよくわかる一品だった。
「えぇ、そうです。月夜、人違いですよ」
歌七星が腕を離すと、月夜と幸茶羽が雪崩れるように床に転がった。よそっていた朝食を取りに戻ろうと歌七星が移動した瞬間、再び扉が開く。
長い赤毛を後頭部で雑に結んだ椿は、顔に寝坊したと書いてあるかのようだった。真新しい緋色の制服を身に纏い、惹きつけられるようにしてテレビ画面へと突進する。
「かな姉の占い?! ……ってことはまだ余裕じゃん! あー、焦ったー!」
ころころと表情を変えながら、椿は最終的に安堵した。そして、その椿の表情を一気に引きつらせる出来事が起きた。
「…………人違いじゃない?」
焦ったのは、結希だけではなかった。
歌七星はリビングの端から端まで移動して、何も知らない椿に迫る。殺気に勘づいたのが幸いしたのか、椿は軽々と歌七星を避けたが。
時間をかけて、歌七星は腰を落としていた椿を見下ろす。椿は頭の上に大量のクエスチョンマークを浮かべながらも、歌七星から視線を外さなかった。
「な、なになになに!? かな姉はなんで怒ってるの?!」
「わかりませんか、椿」
「わかんないって!」
「そうですか、残念ですね。ではこの朝食はわたくしがいただきます」
椿が一番嫌がることを知っている歌七星は、手を伸ばして椿の席に用意されていた朝食を自分の席の方へと動かす。それを椿が見逃すわけもなく、必死にそれを食い止めようと足掻いていた。
「やめろ歌七星。恥ずかしがることではないし、いずれバレることだろう」
「し、シロ姉」
歌七星は何か言おうとして、口を閉ざす。
この家の〝絶対〟が麻露であること。そして、椿に力勝負で勝てないことを考慮した、歌七星お得意の賢明な判断だった。
「……わかりました」
歌七星は納得していない表情を結希に向け、そのままキッチンに置いていた朝食を取りに戻った。椿は無事に自分の朝食を取り戻し、満足気に笑っている。
「いや、ちゃんと説明してくださいよ。本当にあの人歌七星さんなんですか?」
「うん。かな姉だよっ!」
隣から、さっきよりも多くの白米を頬につけた月夜が楽しげに身を乗り出した。いつの間にか幸茶羽も正面に戻っていて、黙々と自分の朝食を口に運んでいる。
「ていうことは、ニュースキャスターかなんかですか?」
キッチン寄りの方に座っていた歌七星に尋ねてみるも、歌七星は首を横に振っただけだった。
「違うっての」
正解に辿り着けない結希に苛立った愛果が口を挟むが、答えは言わない。その代わり、ついに寝てしまった和夏を揺さぶる。
「ていうか結兄、かな姉をテレビで見たことないの?」
白米を口に入れながら喋った椿に、結希は「テレビないから」と首を横に振った。ぼそっと幸茶羽が、「これだから愚民は」と毒を吐いた気がした。
心春は最初からこの会話に入る気がないのか、常に口内に朝食を含んでいる。
「歌七星はアイドルだ」
「えっ?!」
「っな! シロ姉!」
刹那にチャンネルが切り替わった。画面には、満面の笑みでステップを踏む歌七星が映っていた。
「最近のライブのやつじゃん、それ」
愛果の言う通り、ステージの上で歌七星は他のメンバー二人と踊っている。
今この場にいる歌七星は、テレビには目もくれずに真顔で朝食を食べていた。あれほど隠したがっていたにも関わらず、一切表情を崩していない。
「アイドルって格好いいし、誇れる仕事じゃないですか。どうして隠そうとし」
『やっほー! かにゃせだよー! 今日もみんなをメロメロリンにしちゃうんだからっ!』
しん、と部屋の空気が凍った。
雪女の半妖は何もしていないのに、ここまで空気が凍るものなのか。
「……すみません」
「結兄、謝ったらかな姉が可哀想だよ」
ぼそっと月夜越しに椿が耳打ちするが、その声は丸聞こえだった。未だに歌七星は真顔を貫いているが、逆にそれが動揺している証拠なのではないかとさえ思えてくる。
「聞こえてますよ」
案の定真顔を崩した歌七星は、ばつが悪そうだった。
椿も聞こえてたとは思っておらず、びくっと肩を震わせてわざとらしく笑いながら誤魔化す。
「それとシロ姉。いい加減チャンネルを戻してください」
「私に命令するな」
「してません……!」
歌七星の箸を持つ手が小刻みに震えた。が、へし折るなんてことはせずに、諦めた顔で白米に箸をつける。それは結希がこの家の上下関係を理解した決定的な瞬間だった。
歌七星もこの家では相当な権力があるはずだが、結局麻露には誰も敵わないのだろう。
「そういえば結希、それで足りるか?」
「あ、はい。足ります」
あらかじめ結希の食べる量を把握していたかのように、その量は計算され尽くされていた。
麻露は「そうか」と口角を上げて、歌七星の頼みを聞き入れる。すると歌七星の肩が微妙に下りた。
「ごちそうさま」
手を合わせて誰よりも早く立ち上がり、食器を片づけたのは愛果だった。既に制服を着ている愛果は、結希を一瞥してリビングから出る。
「ごちそうさまでした!」
それを見て残りの白米をかき込んだ結希は、食器を片づけてすぐさま愛果の後を追った。