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百鬼戦乱舞  作者: 朝日菜
第三章 再誕の言霊
66/331

幕間 『言の葉の追憶』

 その日も、なんでもないただの一日として終わるはずだった。

 小学二年生として、つきちゃんやささちゃん以外の〝お姉ちゃん〟になった気分でいたぼくは、少しだけ浮かれていた。ぼくは十三人の中で下から数えた方が早かったから、お姉ちゃんたちに一歩近づけたみたいで誇らしかった。


 その日のことは今でも忘れない。

 その日のことを死んでも忘れてはいけない。


 今から六年前の二〇一六年四月十九日。今思えばお兄ちゃんの誕生日の次の日。



 ──百鬼夜行に紛れて、ぼくは人を殺した。





『緊急避難命令! 緊急避難命令! 町内に残っている人々は、陽陰おういん学園生徒会の指示に従って地下に避難せよっ!』


 ずっと、どこか遠くでそう呼びかけている若い男の人がいる。その緊迫した声が、至るところに設置された町内放送のスピーカーから溢れてくる。

 その声が聞こえない場所はもうないんじゃないか、その声そのものが町の危機なんじゃないか。洗脳されそうなくらい繰り返されているのに、ぼくは指先一つ動かせなかった。


「クソッ、なんなんだよ! 何が避難だ、何もねぇじゃねぇか!」


 お世辞にも裕福とは言えそうにない中年の男の人が、真っ暗な窓の外に向かって悪態をつく。荒んだアパートの一室に監禁されていたぼくは、初めて窓の外に視線を移して戦慄した。

 おびただしい数の妖怪が、毎日使っている通学路を練り歩いている。男の人にはそれが見えなくて、それを伝える為の口はとっくのとうに手ぬぐいで塞がれていた。


 ──何からも逃げられない。


 意識はあるのに、そう悟った瞬間ぼくは考えることを放棄した。


「なんで繋がんねぇんだよ!」


 男の人は苛立ちを隠しもせず、電話を床に叩きつけて破壊する。


「電線が切れてんのか……? 本当に、町民全員が避難してんのか……?」


 ちらりとぼくを見た男の人の表情は、無知の恐怖に怯えていた。

 黄昏時に警報が発令されて以降、一瞬も止まないそれに避難を決意した町民は多いはずだ。それでも男の人が避難しなかったのは、きっと、ぼくがいるからだったんだと思う。


『緊急避難命令! 緊急避難命令! 町内に残っている人々は、陽陰学園生徒会の指示に従って地下に避難せよぉ……っ!』


 そしてこの放送が止まなかったのは、男の人の避難が完了していなかったから。なのにぼくは、男の人に避難を説得する義務さえ放棄していた。


 ぐわんぐわんと、避難命令を出す若い男の人の声が耳の中で残響する。

 ずっとお姉ちゃんたちに囲まれて育ってきたから、聴覚や視覚を男性に支配されているような感覚が耐えられなくて。気づけば、遅かったけれど体が小刻みに震えていた。


 ──怖い。


 今さらながらに自覚する。


『緊急避難命令! 緊急避難命令っ! 頼むからぁ……っ、頼むから逃げてくれよ……! 言うこと聞いてくれよぉっ!』


 そして、その一言が男の人を我に返らせた。


 男の人はカーテンを閉めて、大股でぼくの下へと足を運ぶ。途中で伸ばされた手に怯み、二度目の抵抗をしようとしたがぼくはひたすら無力だった。

 男の人は無造作にぼくの腕を掴み、物を持ち上げるような感覚で引き上げる。そして目指したのは玄関だった。


 ──あぁ、これで助かる。


 この時思ってしまったのは、難しいことなんてなんにも考えていない自分本位なものだった。けれど男の人は、手前の台所で足を止める。見れば、太い指先で包丁を手繰り寄せていた。


 ──どうして助かるなんて思ってしまったんだろう。


 刹那に脳が焼けるように熱くなり、肘を勢いよく男の人の脇腹に入れていた。走ろう、そう思うのに縛られていて二歩で転ぶ。

 玄関まであと少しなのに──



「──〝たすけて〟!」



 無力なぼくは叫んでいた。顔面を床に強打して外れた手ぬぐいの隙間から、言葉通りそれを望んで叫んでいた。

 天井が崩落し、野太い絶叫が聞こえる。肉と肉が引き裂かれるような、信じられないような音に視線を向けると。


 上半身が損失し、押し倒された状態のまま絶命した男の人と──口元から鮮血を滴らせた、口裂け女が嗤いながらそこにいた。


 一歩、口裂け女が歩を進める。狐のような目がぼくを捉えて離さず、動く度にアパートを徐々に軋ませていく。


「──わたくしの妹から離れなさい、醜女!」


 どうやっても助からないと、あまりの恐怖に身を竦ませていたぼくは降り注ぐ水の槍を呆然と眺めていた。


りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん!」


 声にならない叫びは途絶え、すぐさま月光に照らされたのは黒き一反木綿いったんもめん


心春こはる!」


はるちゃん!」


 鈴姉れいねぇから身を乗り出し、飛び下りたかなねぇとしいねぇはぼくの下へと駆けつけた。

 人魚のかな姉は、しい姉に支えられながら倒れ込むようにしてぼくを抱き締める。


「心春……っ! 良かったっ、無事だったんですね!」


「春ちゃん、春ちゃあんっ!」


 冷静さを欠いたまま、二人は泣きじゃくっていた。


 二人が泣いているところなんて一度も見たことがなかったぼくは、この瞬間初めて事態の深刻さに気づく。

 よく見ればかな姉は腹部や尾びれをずたずたに裂かれ、しい姉の肩は骨が見えるほど抉れ、二人とも生きているのが不思議なくらい出血が酷かった。


「無事ですか?」


 また、男の人の声。


「お陰様で外傷は見当たりません。ありがとうございます、結城ゆうきさん」


るい先輩、朱亜しゅあは?!」


 鈴姉の上から顔を覗かせたのは、陽陰学園の制服を着た男の人だった。色は群青色──つまり、かな姉たちと同じ生徒会。彼は、生徒会長のかな姉を支える副会長だった。


「口裂け女から受けた刀傷、微妙に回復です。ですが……」


 涙さんは、ぐにゃりと顔を歪めた。

 その視線の先にいるのはぼくたちじゃなくて──


「……犠牲者、一名です」


 ──こと切れた人体の下半身だった。


「でも、こいつは誘拐犯だよ? 犯罪者の為だけに私たちは町中を駆け回って、桐也きりや先輩は……」


 そこでしい姉の言葉が止まった。


「……そういえば、白院はくいんさんの声が聞こえませんね」


 かな姉も緊迫した表情のまま顔を上げ、涙さんも体を強ばらせる。言われてから気づくが、黄昏時から止まずに避難を呼びかけていた声が途絶えていた。


「桐也! エビス!」


 どこから声を出したのか、響き渡るようなそれにかな姉が僅かに身を強ばらせた。涙さんは焦燥に駆られたようで、鈴姉に必死に懇願しているが──鈴姉も、限界だった。

 気絶した朱亜姉を乗せたまま墜落し、涙さんはアパートの床に全身を打ちつけて転がる。なのにそのまま何も言わずに飛び出していった。


「結城さんっ! 一人では危険です!」


「私が追う」


 しい姉は、何を視たのか諦めの表情を浮かべて彼を追った。人間の姿に戻った鈴姉と朱亜姉は固く目を閉ざし、かな姉の悲壮な表情は今も目に焼きついていて離れない。


 その瞬間の轟音。遠くの空に上がる光の柱。終わりが見えないその輝きは、先端が花のように開いて町全体を覆った。

 直後にふわふわと舞い降りたたんぽぽの綿毛のような光は、ぼくやかな姉、意識のない二人の胸に吸い込まれて染み込んでいく。


 じんわりと芯から発火する生き物の温もり。明ける夜。差し込む朝日。とてもとても綺麗な世界が、抜けた天井から広がっていた。


「……ぅ、っ、あ、あぁっ……!」


 悲しくて、でも、あぁ、もう、終わったんだって。


 力が抜けた瞬間、ぼくはかな姉の腕の中で泣いてしまった。口を開けばかな姉は、助けられなくてごめんなさいって謝ってばかりで。


 ──違うよ。ぼくなんか、助けなくて良かったんだ。


 あの瞬間、ぼくが押さなかったら男の人は死ななかった。ぼくが助けてなんて言ったから、世界はぼくに都合よく回ってしまった。


 この時の後悔は今でも消えない。

 戦って生き残った人たちが集まっていた町役場が、すぐさま遺体安置所へと変貌する様を眺めながら──


 ──意識不明の重体としてまりねぇといおねぇが運ばれた時のかな姉の絶叫が、


 放心する涙さんと、血塗れの若い男の人を抱えて姿を現したしい姉の悲愴に満ちた表情が、


 大切な時に飛べず、遺体をぼんやりと眺めていた鈴姉の死人のような瞳が、


 本当は強くなんかないのに、限界を超えてまで戦った朱亜姉の嗚咽が、



 六年経った今でも、消えなかった。





 それから何ヶ月経っても学校に行けなくて、連れてこられた妖目総合病院おうまそうごうびょういんの待合室でぼくはまた泣いていた。

 不意に足音がして顔を上げると、小学校高学年くらいの男の子が目の前を通り過ぎるところだった。


 悲鳴を我慢できずに上げる。なのに男の子は気にも止めないで病室へと入っていった。

 平日の昼下がり。子供でも怖いのに、こんな時間、しかも精神科に通っている男の子のことが妙に印象に残って。同時に、ここに通っている子供はぼくだけじゃないんだという安心感が芽生えた。


 何度も何度も通ってお医者さんと顔見知りになった頃、ぼくの中には男性恐怖症という名前のついた恐怖症だけが残った。


 小学三年生なのに可哀想だなんて言葉はたくさん聞いた。


 けれど、受験生になっても引きこもっている鈴姉れいねぇ


 医者になりたいと狂ったように受験勉強し始めたしいねぇ


 同じく受験生なのに稀にしか学校に行けない朱亜姉しゅあねぇ


 中学に入学し、不良ぶって強がる愛姉あいねぇの方が──もっともっと痛々しかった。


 ぼくにはお姉ちゃんがいるから平気だったけれど、お姉ちゃんはお姉ちゃんがいても平気じゃなかった。


 シロねぇは会社を辞めて近所の神社に就職し、定時に帰ってぼくたちの面倒を見てくれた。


 教師になりたてだったいおねぇは、小学四年生になっても学校に行けないぼくに勉強を教えてくれた。


 まりねぇは眠ったまま、かなねぇは大学を中退して芸能事務所に所属すると姿を見せなくなった。


 鈴姉は引きこもったまま、しい姉はアメリカの医大、朱亜姉は町内の大学に通い、わかねぇは高校に入学し、愛姉は本当に不良になってしまった。


 つばねぇはどこでそれを覚えたのか、ぼくに護身術を教えてくれた。たまに愛姉が喧嘩の仕方を教えてくれると、まだ愛してくれるんだと思えてほっとした。


 無邪気だったのはつきちゃんとささちゃんだけで、小学校二年生らしく笑っていた。


 けれどぼくの病院通いは終わらず、昼下がりになれば待合室にいた。いつも同じ時間帯に見かけていた男の子は最近見なくなったのに、どうしてぼくはまだここにいるんだろう。

 ぼくだけが取り残されたみたいで怖くなり、そのことを主治医じゃないお医者さんに尋ねると──



「──あぁ、もしかして間宮まみやくん?」



 ──桜色の髪が綺麗なお姉さんが笑って答えてくれた。


「その子今年から中学生だから、今は学校に行ってるんだよ」


「学校? なんで……」


 そこで慌てて口を塞ぐ。自分と比べてはいけない。人と違うのは当たり前だってシロ姉がよく言ってたじゃない。


「中学生からまた学校に通い始めてるの。中学生になれば女子中もあるし、心春こはるちゃんはそこに行けばいいんじゃないかな」


 そのお医者さんは男の子の主治医だったらしく、時間が許す限り色々なことを話してくれた。不思議なことに異性なのに異性を感じさせないエピソードばかりで、そのことをまた尋ねると


「それは、あの子がまだ二歳だからかもね」


 なんて意味深なことを言って、寂しそうな表情を見せた。


「でも、心春ちゃんが本気で男性恐怖症を直すなら、あの子ほど適任な男の子はいないんじゃないかなぁ……なんて、ね」


 そして、そのお医者さん──小白鳥こしらとり先生のアドバイス通り、来年から女子中に通うことになった頃には病院に通う頻度が減っていた。

 ちょっとだけ誇らしくて、うきうきしながら病室を出ると──


結城涙ゆうきるいさんは、貴方でしたっけ?」


「は、はい……?」


「…………人違いです、結希ゆうき


「あれ?! す、すみません! 間違えました!」


 ──また、待合室であの男の子を見かけた。

 よく見れば相手の男の人は涙さんで、四年前のあの日以来一回も見ていない。しい姉に同行してアメリカの大学に進学したはずなのに、どうして彼がここにいるんだろう。


「え、えーっと……初めまして?」


「やはり、記憶喪失は事実ですか」


 三年前よりも背丈が伸びた男の子は、涙さんの問いかけに困ったような表情をした。


「最近伝聞です。様子を確認しに、一時帰国です」


「いやでも、四年前の話ですし……」


「今さら、ですか」


 男の子は短く頷いて、涙さんから逃げるように階段を目指して駆け下りていった。

 涙さんはなんとも言えないような表情で俯き、ぼくに気づく。ぼくは隠れていたけれど、涙さんはぎこちなく微笑してぼくの名前を呼んだ。


 びくっと自分の肩が跳ね上がるのがわかる。

 その瞬間、ぼくも男の子のように涙さんから逃げた。


 振り返った時に見えた涙さんの傷ついた表情が、ぐさりと胸に突き刺さる。家に帰るとしい姉がいて、でも、すぐに涙さんと一緒にアメリカに戻ってしまった。


 しい姉が帰国したのは、年度初めを日本に合わせた今年の四月だった。直後にシロ姉から居候の話が出て──



 ──ぼくは、お兄ちゃんに出逢った。



阿狐亜紅里あぎつねあぐり?! 何故裏切り者が走ってるんだ?!」


 隣のシロ姉が目を見開く。けれど、ヒナギクさんに言われた通り手出しはしなかった。


「お兄ちゃんがね、体育祭が終わるまでは亜紅里さんを捕まえないでって頼んだの」


 ざわめきがお姉ちゃんたちから聞こえる。けれど、しい姉だけは悟ったような表情で二年生の全員リレーを眺めていた。


「……何を考えているのですか、結希くんは」


 かな姉は、呆れたような──それでいてちょっと嬉しそうな声色で耳元のイヤリングに触れる。でも、その気持ちはよくわかった。


 亜紅里さんは最下位から一気に五人抜いて、一位に勝ち上がる。そのままヒナギクさんにバトンを渡して、膝から崩れ落ちた。

 ヒナギクさんだって、他の人に一位を譲る気はないらしい。彼女も自分の身体能力を全開させ、次の走者──お兄ちゃんの下へと走った。


 お兄ちゃんはそんなヒナギクさんを見据えながら、隣の明日菜あすなさんと何かを話してバトンを受け取る。そしてまた、風を切るように走った。


 シロ姉に言われてしばらく一緒にいたから、知っている。

 お兄ちゃんは式神しきがみさんたちの家で、ずっと強くあろうとした。セイリュウさんやゲンブさん、時にビャッコさんに負けても、止めようとはしなかった。


「なんじゃ、アンカーではないのか」


「えーっと、あ、ユウの次はマルだ」


 背伸びをして屋上の柵からグラウンドを覗く朱亜姉と、アンカーを確認したわか姉が呟く。


「…………抜かれそう」


 鈴姉の言う通り、お兄ちゃんはちらりと横を見て足の回転を上げた。

 月ちゃんや紅葉くれはさんは必死に応援しているけれど、今までの疲労が蓄積していたのか、お兄ちゃんは風丸かぜまるさんにバトンを渡す前に抜かれてしまう。


 なのに、お兄ちゃんからバトンを受け取った風丸さんは楽しそうに笑っていた。


「ふんっ。情けない下僕だな」


 ささちゃんがぷいっとそっぽを向いて、それでも結果は気になるのかちらちらと風丸さんを横目で見つめる。

 人一倍大きな声がしたかと思えば、ゴール付近からつば姉と愛姉──そして担任のいお姉が風丸さんの応援をしていた。


 みんな、一丸となって赤組を応援している。


 去年だったら考えられないことだった。違うのは、しい姉とお兄ちゃんの存在だけ。


 忘れたわけでも消えたわけでもないけれど、それでも、世界は回っている。ぼくたちは少しずつ大人になって変わっていく。


 一番にゴールテープを切った風丸さんは、雄叫びを上げてバトンを投げた。まだ三年生が残っているけれど、お姉ちゃんたちの歓声はクライマックスのようで。

 赤組の優勝が発表された瞬間の、お兄ちゃんと亜紅里さんの笑顔は忘れられなかった。





「ぁ」


 眠れなくて、真夜中に部屋を出ると角部屋から出てきたお兄ちゃんと目が合った。お兄ちゃんも眠れなかったのか、ぼくに見つかって困ったような表情で笑う。

 なんだかその表情があの男の子と重なったけれど、その辺りの記憶は曖昧でぼくもぎこちなく笑った。


「こんな時間からどこに行くんだよ」


 子供扱いするような調子で、けれどいつもの口調より砕けてお兄ちゃんは尋ねた。


「え、えと……無計画、です」


「なんで敬語?」


 自分から頼んだのに慣れなくて、咄嗟に敬語を使ったぼくをからかうように笑っている。


「お、お兄ちゃんだってお姉ちゃんに敬語……」


 ぼくがそう反論すると、沈黙が広がった。

 時間が時間だからか、昼間のように上手く話せない。気まずくて、つい口を滑らせてしまった。


「……亜紅里あぐりさん、どうなったのかな」


 すぐに返事がなかったのは、お兄ちゃんも同じことを考えていたからだろうか。


「……少なくとも、死ぬことはないだろうな」


「え?」


「誰もあいつの死は望んでないからさ」


『……誰か一人でも本気を出したら、あいつ死んじゃうだろ。みんなは失う怖さを知ってるから本気を出せないんだ。だから、今度甘いって言ったら死なない程度にぶっ飛ばしてやれ』


 どこかしめやかな横顔を見て、その言葉を思い出した。

 本気を出したら確かに死んじゃうだろうし、失う怖さを知っているっていう言葉は的を射ている。


「でも、裏切り者……なんだよね?」


「そうだけど、あいつ自身がやったことは結界破りくらいだしなぁ」


「でも、六年前に亜紅里さんがやったことは?」


 そう言って、ぼくは亜紅里さんと自分を重ねていることに気がついた。


 亜紅里さんは裏切り者で、ぼくは人を殺した。


 彼女が裏切ったことが罪なら、ぼくが言霊ことだまを使って人を殺したことも罪に問われる。そう思って吐き気がした。


「いや、亜紅里は何もやってないと思うけど……。当時の亜紅里は能力を使えなかっただろうし……」


 なのにお兄ちゃんは、断言とは言い難いけれど疑いのない瞳で言葉を紡いだ。


「使えない?」


愛果あいか月夜つきよちゃんと幸茶羽ささはちゃん──十二歳くらいの年齢から戦えるって言ってたから、そうなのかと思ってたんだけど」


「……っあ!」


 そうだ。お兄ちゃんや──お兄ちゃんが信じてる愛姉の言う通りだ。じゃあぼくは、亜紅里さんにない罪を着せようと……。


「ごっ、ごめんなさい!」


「謝んなくていいだろ。あいつの自業自得だし」


 頭を下げたぼくの頭を、お兄ちゃんはちょっと躊躇いがちに撫でた。

 今でも自分に伸びてくる手が怖いけれど、お兄ちゃんはあの時それを止めてくれて──そこまで思い返して顔中が発火した。


 ずさずさずさ、と後退して、お兄ちゃんの部屋の扉に体をぶつける。お兄ちゃんはぽかんとした顔でごめんと謝って、ぼくは全力で首を横に振った。


「あ、あのね!」


 その時のことは恥ずかしくて言葉にできないけれど、お世話になったんだから言わなきゃと思って出たのは裏声だった。


「ぼくね、ずっと……『助けて』って言うのが怖かったの」


 それは、思い込んでいた記憶違い。


「言うくらいなら、死んだ方がマシだって思ってた」


 けれど、罪の意識が消えたわけじゃなかった。きっと、お兄ちゃんやお姉ちゃんが否定しても拭えないそれに、一生かけて向き合わなくちゃいけないんだろう。


「正直、今でも怖い。言って誰かを傷つけたらって思うと、辛くなる。……でもね、いつか言えたらいいなって思うの」


 助けられるような頼りない女にはなりたくないけど、言って乗り越えたかった。


 言霊の能力を得てから、ずっとそれで殺したんだって思ってた。けど、お兄ちゃんの言葉を信じるなら〝そうじゃなかったんだ〟って思えるから。


「そっか。でも、その前に……」


 お兄ちゃんは頷き、また子供扱いするような調子で──


「……熾夏しいかさんが幻術使えないって文句言ってくるから、元に戻す言葉を言ってくれ」


 ──目だけがそうじゃない笑みを浮かべた。


「あっ、忘れてた……! 今すぐベランダに行って戻してきますねっ!」


「なら俺も行く。ちょっとそこどいて」


 慌てて飛び退くと、お兄ちゃんは扉を開けて部屋の中に戻っていった。開けっ放しだから、中からお姉ちゃんたちの部屋では嗅いだことのない匂いがする。たまにお兄ちゃんっぽい匂いがするけれど、これが男の人の部屋の匂いなのかな。

 廊下は電気がついているから中がちょっと見えたけれど、なんだろう。床で誰かが寝ているような?


「お待たせ」


「お、お兄ちゃん。あれって……」


紅葉くれはだよ。追い出しても入ってくるから、床に毛布敷いて寝かせてる」


「く、紅葉さん? しかも床なんだ」


 ドラマとかで見た時は男女が逆だったと思うんだけど……。


「押しかけてくる奴にベッド譲ったら『どうぞ居座ってください』って言ってるようなもんだろ? まぁ、あいつもあいつでベッドで寝るの嫌がるしな」


 思えば結城ゆうき家は立派な日本家屋だったし、ベッドで寝るのはちょっと想像できないかも。


「これ、火影ほかげには内緒な。あと、紅葉が脱ぎっぱなしにしてた制服。出るなら着た方がいいだろ?」


「あ、ありがとうございます」


 お兄ちゃんは自分のブレザーを羽織り、ぼくもそれに倣う。ぼくたちの学校は違うのに、こうして並んで歩くと同じ学校に通ってるみたいで擽ったかった。


「紅葉さんと何してたの?」


千羽せんばの話。ていうか、紅葉がこの家に預けられてから毎晩話してる」


「それって……紅葉さんの亡くなったお兄ちゃん、だよね?」


 六年前、そんな彼の前で初めてるいさんが慟哭したのもぼくは覚えていた。


「そう」


 なのにお兄ちゃんは、そんなに悲しくなさそうな表情でリビングの電気をつける。なんだかぼくとお兄ちゃんの記憶に温度差があるような気がして、一瞬、すごく悲しくなった。


『だが、百妖ひゃくおうの人間に会う前の結希ゆうきは本当にお前が思っているような人間だったか?』


 亜紅里さんの言うことは、正しかったのかもしれない。〝いなくならないで〟ともう一度言霊をかけたくなったが、ぐっと我慢した。

 ベランダに出て、前に進む。お兄ちゃんが見守ってくれているのを背中で感じながら、ぼくは変化へんげした。


「──?」


 なんだろう。いつもと同じはずなのに、何かが違うような。その答えが出せないまま、ぼくは祈った。


「『土地神の加護を受けた精霊よ、我に力を与えたまえ』──」


 突風が突き上げるように吹いた。



「──『幻術よ、世の理へと綜合せよ』」



 創り変えた世界が揺らぐ。百鬼夜行を終わらせたあの光には届かないけれど、いつかその光の先にいる人に出逢ってこう言うんだ。


 ──助けてくれてありがとう、って。

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