二十 『少女が飛び立つ日』
「体育祭……? まさか、そんなことの為に?」
「副会長にしては気が利くな。時間がない、早く乗れ」
ヒナギクは亜紅里を引っ張り上げ、先に乗った結希は心春に手を伸ばす。心春は骨ばった掌を見つめ、迷いなくその手を掴んだ。
「…………コハル、言霊」
「あっ、うん! 『風になれ』!」
鈴歌は流れるように動き出し、動きも存在も風となる。
ヒナギクは亜紅里の首根っこを掴み、端の方へと移動した。女子同士の会話に首を突っ込む真似はせず、結希はアリアによって全快した体を慣らした。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「……その、連れ去られた直後に亜紅里さんが言ったんだけど……ぼくたちって甘いのかな?」
「甘い? 具体的になんて言ったの、あいつ」
心春を見ると、戸惑っているわけではなくそう言われた事実に落ち込んでいた。
「『本気で潰そうと思えば、潰せたのにな。結希も、ヒナギクも、お前も甘い』って。あと、『お前の家族も甘くて話にならない』って言われた」
あの時、結希が九字を最後まで切っていたら。あの時、ヒナギクが瞬間移動をしていたら。あの時、心春が言霊を使っていたら。
思いはそれぞれ違ったはずだが、あの時、亜紅里以外の三人は確かに躊躇い全力を出さなかった。
「……誰か一人でも本気を出したら、あいつ死んじゃうだろ。みんなは失う怖さを知ってるから本気を出せないんだ。だから、今度甘いって言ったら死なない程度にぶっ飛ばしてやれ」
心春は瞳をまんまるに見開き、やがて相好を崩した。
「お兄ちゃんって、たまに乱暴な言い方をするよね。そういうところ……愛姉やつば姉で慣れてるけど、男の人っぽいね」
「……ぽいじゃなくて、男なんだけど」
心春のことを思えば〝ぽい〟の方がいいのかもしれないが、納得しようとすると男のプライドが邪魔をする。
複雑な気分を処理しきれないでいると、心春が慌てたように両手を横に振った。
「あっ、ちが……! ちゃ、ちゃんとわかってるよ! そうじゃなくて、お兄ちゃんなら平気だなって思い始めただけだから! そこだけは安心してくださいっ!」
いつもの通り青から赤に顔色が変わるが、そこに恐怖は微塵も感じられなかった。
「ぼくが年下だからって言うならわかるけど、お兄ちゃん、ずっと子供扱いするような口調使ってたから……お医者さんに言われた通り、冷静になって見てたら全然怖くないなって思えるようになったの」
確かに結希は、愛果以外の姉には敬語を使い、椿以下の妹には語尾に気をつけて話している。唯一気軽に話してるのは愛果だけだ。
「だからね、その……お兄ちゃんさえ良ければ、もっと愛姉の時みたいな話し方で話しかけてほしいなって。今のままじゃお兄ちゃんに甘えちゃうから、お兄ちゃんの素の言葉で慣れていきたいの」
一歩ずつ、確かめるように歩を進めて。
「今のまま、大人にはなれないから」
恐怖からの不安ではなく、拒絶される不安の色を瞳に映して。
「……ダメ、かな?」
元から持ち合わせていたのになかなか使えなかった勇気を振り絞った。
「…………」
一瞬、自分の素の言葉がわからずに思案する。
「ダメなわけないだろ」
思ったことを口に出すと、誰よりも〝言葉〟を大切にする彼女は安堵の色を顔に出した。
「…………見えた」
鈴歌の声に、全員が正面を向く。陽陰学園のグラウンドでは、高一の全員リレーが行われていた。
「随分と時間が経った気がするが、まだここだったのか」
ヒナギクは呟き、屋上へと下り立った瞬間亜紅里の背中を大きく叩いた。
「早く着替えろ。次の種目は、私たちが主役だぞ」
「……ッ、わかってるよ〝ヒーちゃん〟!」
亜紅里は緋色のスカートを正しながら駆け出し、階段を下りていく。
「──心春ッ!」
すれ違うように屋上の端から駆けつけてきたのは、紅葉を含めた百妖家の姉妹たちだった。
「お姉ちゃんっ!」
ぶつかるような勢いで麻露に抱きつかれた心春は、あわあわと両手を空中で動かした後──麻露の背中に回した。
「心春ッ、心春ッ……! 無事か?! 怪我は?!」
「ないよ、大丈夫だよ……。ぼく、もう、大丈夫だよ」
麻露が心春の顔を見ると、心春は微笑していた。
「……心春」
歌七星がおずおずと前に出る。
「かな姉、ぼくね、一人でも平気だったよ」
「…………そうですか。なら、良かったです」
目元を拭い、結希に視線を映した歌七星もまた微笑した。
『どうか私の家族を助けてください。ヒーローになって、この楽園をホンモノにしてください』
そう言って涙を流した歌七星のことを、忘れた日はなかった。
意味はよくわからなかったが、朝日の願いと同じものだろうと思って詳しくは聞いていない。
『初めからそのつもりですよ』
とりあえずそう答えたが、今思えば初めに麻露が願ったこととも酷似していた。
「……ほんと、似たもの姉妹だな」
「貴様の目にはそう見えるのか」
何気なく呟いたものだったが、ヒナギクは聞き逃さなかった。声色を一段と低くさせ、眉間に皺を寄せながら彼女たちを眺めている。
「貴様ら、一応言っておくがこれから亜紅里を見かけても手出しはするなよ。行くぞ、副会長」
「あぁ」
「あっ、お兄ちゃん!」
ヒナギクに引きずられるような形で屋上を後にしかけた結希は、足を止めて心春に焦点を当てた。
「頑張って!」
華奢な心春の力こぶに力こぶで返した。それをふくれっ面で眺めていた紅葉は、瞬時に年相応に笑い手を振る。
「にぃーっ! 赤組は最下位だけど、これで優勝したら逆転あるよ! くぅ、ずっと応援してるからねー!」
紅葉には手を振り返し、ヒナギクと共に階段を下りる。二階部分に差し掛かった刹那、着替えた亜紅里と鉢合わせた。
「二年は全員並んでたよ! 一年のももう終わるみたい!」
自分の中のスイッチを切り替えて、亜紅里は表情豊かに説明する。亜紅里は亜紅里でも、生徒会の阿狐亜紅里だった。
「それとゆうゆう! あたしと戦うからって、ハチマキ邪魔になって置いてったでしょ! これ予備のやつだから使って!」
「……あ、あぁ。ありがとな」
調子狂うなぁと思いつつ、何かあったことを臭わせない亜紅里の演技力には舌を巻いた。
グラウンドに飛び出し、ヒナギクの記憶力を頼りに集合場所まで向かう。住宅街の静けさを裏づけるように盛り上がり続ける体育祭は、亜紅里に対する感情を一時でも忘れさせていた。
「あっ、お前ら! おっせーよ、どこで何してた!」
集合場所が見えてくると、クラスメイトを千里と一緒に纏めていた風丸が拳を振り回した。表情はどう見ても怒っているが、声はそこまで厳しいものではない。
出生上、結希と一緒に最後まで行動できなかった千里はほっと息を吐いて三人のことを受け入れた。
「悪かったな、風丸」
「その程度で済むと思ってんのかよバカ! お前ら、買っても負けてもクラスメイトにアイス一本くらいは奢れよな!」
「それは……」
亜紅里だけは、叶えられない。
「はっはーん。アイス一本とはやっすい男ですなぁ、ぐっちー? ま、あたしは合点承知之助だけどね!」
それでも亜紅里は気丈に笑った。それでも結希だけは、亜紅里の普段は使わない言動から滲み出る動揺に気づいていた。
「ほんと、それくらいしてくれないとマジで困るからな!」
風丸は吐くだけ吐き出して列の中に入っていく。
今日はやけに大袈裟だなと思ったが、身を寄せた亜紅里の囁きで合点がいった。
「元々何人か欠員が出てたのに、私たちが抜けても点差にそんな開きが見られない。他の学年が頑張ったのかもしれないが、風丸が全員のやる気を損なわないように鼓舞し続けたんだろうな。……お前らが戻ってくると信じて」
「そこは自分も入れとけよ」
現に、本来その役割を担う学級委員の千里まで抜けていた。たった一人残された風丸の負担は、お調子者とはいえ並じゃなかったのだろう。
亜紅里は答えず、はしゃぎながら列の中に消えていった。
「ヒナギク、行くぞ」
「私に命令するな」
そう言いながらもヒナギクはついてくる。軽めの発泡音がしたかと思えば、同時に響いたのは一年の勝敗結果だった。
「ゆう吉、負けないから」
「それは俺たちもだ、明日菜」
すれ違った刹那、明日菜が言う。
勝ったのは、明日菜と八千代が所属する青組だった。




