十九 『雨のち晴れ』
やがて心春は、泣き疲れたのか回していた腕の力を緩めた。結希は曲げていた腰を伸ばし、今はただ目元を拭うことに専念する心春を見守る。
「結希くん、心春ちゃん」
いつの間にか傍にいた冬乃は、何故か今にも泣き出しそうだった。心春と冬乃の泣き顔は何度も目の当たりにしてきたが、結希は結局、気の利いた台詞を一つも言えなかった。
「二人ともお疲れ様。やっぱり二人はすごいね、とっても偉いよ」
代わりに褒め殺すような言葉で冬乃が微笑する。
それは、戦う宿命にありながら無力なままで生まれた彼女の羨望であり、この六年間心を痛め続けた二人に対する精神科医としての責務だった。
「小白鳥先生、さっきは助けてくれてありがとうございました」
「礼を言うのはこっちの方だよ。いつも、本当に……ありがとう」
冬乃はカルテを大事そうに抱えなおし、俯いたままの心春に視線を移す。
「心春ちゃん、自分の力に怯えないで。言霊は確かに人を不幸にするけれど、それ以上に幸せにすることだってできる。それは他の半妖には絶対にできないことだから、誇りに思っていいんだよ」
そして桜色の頭部に手を置き、麻露に負けないくらいの想いで撫でた。
「せめて自分だけは、その力を嫌わないで。──先生は、誰がなんと言おうと心春ちゃんの力が一番好きだよ」
「……小白鳥先生っ」
顔を上げた心春は、泣くのを我慢するかのように口元を歪めていた。目鼻が赤く、眉尻が下がっても決して泣かない。「偉いね」と、そう言って褒める様は本物の姉妹のようだった。
刹那、優しい世界を壊すかのような複数の足音が階段を上ってきた。屋上へと姿を現した彼らは漆黒の軍服を身に纏い、洗練された動きで横一列に並ぶ。
真ん中に立つ男性の両脇には、末森と本庄が。末森の隣にはアリアが、本庄の隣には乾がいる。彼らから少し離れた場所には、スーツを着た長髪の女性と涙が立っていた。
「初めまして。私は《対妖怪迎撃部隊》、通称《カラス隊》の隊長──鴉貴輝司です」
軍人というよりも、騎士のような高貴さを内に秘めた男性だった。
流れるような黒髪はカラスを想起させ、宝石のような紫色の瞳は知的でありつつも誰よりも貪欲に輝いている。彼の家もまた《十八名家》で、秩序を司る警察官だった。
「彼らに手当を」
「了解」
「あ、ちょっと待ってください」
能力を使おうとしたアリアを制し、結希は尻餅をついたまま背を向けている亜紅里に視線を移した。
「できるなら、重症のあいつからお願いします」
「亜紅里ちゃん? ん〜、それもそうだね。いいですか隊長?」
「それなら、無事な方の手に手錠をかけてからでお願いします」
「それは俺が」
前に出た本庄は、二十メートルほど先にいる亜紅里の細い手首に本物の鈍く光る手錠をかけた。
亜紅里は俯き加減にそれを受け入れ、本庄に支えられながら立ち上がる。すれ違った刹那、亜紅里の疲れきったような表情が髪の隙間から見えた。
「結希」
短く、小さく、そして初めて名前を呼ばれる。
「今は準備期間だから、油断しないで」
それだけを残して、亜紅里は《カラス隊》の傍で足を止めた。
「……お兄ちゃん」
体操着の裾を握り締める心春は、心配するような声色で結希の顔を覗き込んだ。結希は無言で心春の頭を撫で、事の成り行きを見守る。
アリアはそっと亜紅里の切り落とされた右腕に触れ、黄金色の光を灯した。
亜紅里は天色の瞳の見開き、自身の右腕を見つめる。徐々に再生されていく骨と肉は痛々しかったが、亜紅里は痛がる素振りを見せなかった。
「さすがにここまでの怪我を治癒するのは初めてだなぁ。でも、《如月》のおかげで応急処置はできてる。ある意味一番マシな怪我かな」
「……変なこと考えるなよ、アリア」
「無茶言わないでよ」
視線を合わせることなく会話する二人を、深刻そうな表情で見つめていたのが涙と隣の女性だった。
それが不思議でならなかったが、思い返せば彼女は、その能力を持ちながらも多くの義兄弟を亡くした過去を持っていた。
「それが終わったら署に連行しますよ。ところで百妖くん」
「なんですか」
「何が気に入らないのか知りませんけど、そんな顔をしないでください。貴方の旧姓は間宮、ですよね?」
「それが何か」
輝司は目を細めた。非人間的な印象さえ抱く彼は、唐突に左手を差し出して──
「ずっと、貴方に会いたかった。この手を取っていただけますか?」
──男が男に言うには甚だ疑問に残る台詞をぶちかました。
「……は?」
若干引き気味に輝司を見上げる。末森は輝司に肘鉄を入れ、乾は侮蔑を込めた瞳で輝司を殴った。
「失礼。隊員たちから長年『直せ』と言われているのですが、どうもそれだけが難しい」
どうやら今日が初めてではないらしく、輝司は困ったように眉を下げた。それは急に真顔に変わり──
「──百妖くん、高校を中退して我々《カラス隊》の一員になりなさい」
──一歩前に出て、輝司はさらに左手を伸ばした。
「六年前、百鬼夜行を受けて発足された組織がこの《カラス隊》です。構成員は陰陽師や人工半妖、元警官や元暴力団員、元フリーターと様々ですが──私は、百妖結希くん、貴方が一番欲しい」
前者と後者の差があまりにも激しいのはさておき、自分よりも優秀そうな人材が揃っているにも関わらずそう言うとはどういうことなのか。
「それは、俺が俺だからですか?」
既視感を感じて、結希は尋ねた。
「当然です。この六年間ずっと……本家の嫡男が隊長の権利を放棄し私に任命した刹那から、貴方を式神ごと欲しかった」
欲を曝け出し、輝司は高揚を隠しもせずにそう語る。カリスマ性があるのも、部下から信頼されているのも見ていればわかるが──
「お断りします」
──結希は即決で答えた。
同時に握り締められていた体操着が緩む。心春の張り詰めた緊張も、その後の安堵も、空気に乗って伝わっていた。
「困りました。貴方には迷いがないんですね」
「俺はもう、いるべき場所にいるんです。これ以上別の場所に行く気はない」
どうしても放っておけない家族がいる。そして、これからも一緒にいたい仲間がいる。
決着をつけても、かつての仲間のあんな表情は見たくなかった。隠しごとが上手い彼女の素顔には、もっと早くに気づくべきだった。それを置いたまま、また別の場所に行くわけにはいかない。
「なるほど。確かに、私が今まで勧誘してきた彼らにはそれが失われていた」
「ただの利害関係の一致だろーが」
乾のつっこみを無視し、輝司は「それでも」と結希の両肩を掴む。
「ちょっ」
「私は貴方を手駒にしたい。貴方を一番に必要としているのは、我々……」
「『吹き飛べ』!」
結希と輝司の間に微風が発生し、輝司のみを屋上の果てまで吹き飛ばした。結希と同じくフェンスに守られた輝司は、唖然としながらも体を起こす。
結希の影に隠れる心春は、荒い息遣いのまま体を小刻みに震わせていた。心春は怯えるような瞳をしながらも、果敢に輝司をまっすぐに見据え──
「い、嫌だって言ったじゃないですか! どうして男の人は、それをわかってくれないんですか!」
──泣くのを我慢して、我慢して、結局心春はまた泣いてしまった。
「残念だが、今のは完全に隊長殿が悪いな。俺でもフォローができない」
「ごめんね。俺たちの隊長、性欲以外の欲にはものすごーく従順なんです。ヤクモが誘惑しても勃つだけ勃たせて何もしなむぐ?!」
「琴良、それ以上の私語、厳禁です」
「子供の前でする話題じゃないよね」
口を塞ぐ涙と耳朶を引っ張る冬乃に囲まれながらも、末森は理解できなさそうな表情で二人を振り切った。
「ぷはっ! 子供って、高校生と中学生じゃないですか。それって過保護すぎじゃありません?」
「末森の下ネタはネタじゃなくて素だからな。フォローする気にもなんねぇ」
「えっ、今の下ネタだったんですか?」
「お前はマジモンの六歳児かよ!」
キレのある乾の突っ込みに、本庄と末森にまで怯え始めた心春がくすっと笑みを漏らした。心なしか、アリアも治療を受けている亜紅里も肩を震わせている気がする。
「だから十七歳ですってば」
女性陣の反応を受けて不満げに答えると、輝司が戻ってきた。
「失礼、過度の勧誘を謝罪します。貴方を得られないのは非常に残念ですが、まだ未成年ですからね。進路を決める際に一考していただければ幸いです」
「進路としてなら考えますけど、俺、陰陽師の間では裏切り者っていう評判ですよ。……それでもいいんですか?」
期待させるような言い方だと自覚はしていたが、これだけは聞いておきたかった。
「そんなの言わせておけばいいんですよ。どうせ十年以内には全員死ぬんですから」
「言い方は悪いが、末森の言う通りだな。百妖、本来陰陽師は血統よりも能力を重視しなければならないんだ。能力は血統の善し悪し関係なく、本人の努力次第で強くも弱くもなる」
「紅葉がいい例です。彼女は姫君ですが、怠惰です」
輝司は末森、本庄、涙に視線を流し、微笑して首を傾げた。
「ご存知ありませんか? カラスは不吉なものの象徴なんですよ」
他の三人は想定外だったが、輝司なら肯定すると思っていた。
話していくうちに、初対面の印象からだいぶ遠ざかっていく。心春はいつもの男性恐怖症を発揮しているが、結希は輝司を憎めなかった。
「隊長、亜紅里ちゃんの治癒が終わりました〜。ゆうくん、心春ちゃん、並んで並んで」
アリアに引っ張られて結希の影から出てきた心春は、慌てて自分の視界を閉じる。治癒能力をかけながら、アリアは「そういえば」と続けた。
「鈴歌さんが目を覚ましててね、この下で火影ちゃんとヒナギクちゃんと待ってるよ。ヒナギクちゃんはまだ寝てるけど」
「……亜紅里はこれからどうなるんですか?」
「えっ? う〜ん、その辺どうなるの? 吹雪」
アリアに呼ばれたのは、今までずっと傍観者を決め込んでいた長髪の女性だった。女性は水色が美しい髪を右耳にかけ、眉間に皺を寄せる。
「……彼女の罪を法で裁くのは難しいわ。何度も言うけれど、この町には治外法権が適応されているの。私たち雪之原の判断で決めず、小白鳥にも、骸路成のあの子にも意見を求めることになるわね。……最悪、阿狐を除く《十八名家》の現頭首全員を招集することになるかもしれないわ」
雪之原は検察官の一族で、骸路成は六年前の百鬼夜行の際、本家の嫡男を残して全滅した弁護士の一族だと記憶している。
吹雪は気難しそうな表情で亜紅里を一瞥し、彼女にもう片方の手錠を本庄がかけようとした刹那──
「待ってください」
──治癒が終わった結希が声をかけた。
「乾さん、まだ間に合いますよね?」
「はぁ? ……あぁ、まだ何個か残ってるな」
急に話を振られ、怪訝そうな表情をしながらもすべてを悟った乾は答えた。
「鴉貴さん、日が沈むまで亜紅里を俺たちに返してください」
「いいでしょう。我々《カラス隊》の上層部は、貴方への協力だけは惜しみませんから」
その言葉通り、副長の本庄はすぐさま亜紅里の手錠を外した。同じく副長の末森は、屋上の淵に行くついでに《如月》を拾い、真下にいる何かを呼ぶ。
すぐさま浮上してきたのは、一反木綿の鈴歌に乗ったヒナギクだった。鴉天狗の火影は、そのすぐ傍を飛んでいる。
結希は亜紅里の片手を取り、心春を連れて鈴歌の下へと歩き出した。
「ちょ、ちょっと待て! 何を……どこに行く気だ!」
亜紅里はされるがままに引きずられているが、大きな瞳を見開き、活発そうな顔を驚かせていた。
「今だけでいいから、お前のそのバカみたいな力を貸せよ」
「は……」
「今だけというのは困るな。私は亜紅里、貴様の力が欲しい。副会長、貴様にも抜けられたら困るぞ」
仁王立ちするヒナギクは不敵に笑い──
「体育祭にも、生徒会にも、貴様らは必要不可欠なんだ」
──緋色のハチマキを額に巻いた。




