十八 『《言霊の巫女》』
「はぁっ、はぁっ……」
「心春ちゃんっ!」
膝を追った心春を、不安定な手の甲ではなく両手の上に乗せる。見れば、たった十五センチしかない小さな心春の額に黄金色の文字が刻まれていた。
黄金色の円状の文字列が心春を包み込み、あっという間に人間の姿へと戻っていく。
「お兄ちゃん、ごめ……」
「簡単に謝るな。心春ちゃんはいつだって悪くない」
少しきつめの口調で心春を黙らせて、結希はなんの役にも立っていない自分を奮い立たせた。
「後は俺に任せて、ここで見てて」
一人で立てなくなった心春は、若草色の瞳で結希を見上げた。
出逢った頃から、その瞳に涙をたたえて。常に何かに怯え、自分を責めては戦って。辛い思いをして、ずっと、傷ついている。
その全部を詰めこんで、問いかけるような、不安そうな瞳で結希の裾を小さな手で握り締めた。
「…………『いなくならないで』」
一筋の涙が心春の頬を撫でた。
その言葉が言霊だと気づくのに少しだけ時間がかかったが、結希は安心させるように微笑んだ。
「心春ちゃんが信じてくれたら、どこにも行かないよ」
心春の言霊は嘘にはならない。結希はそれを知っている。
「…………信じてる。信じてる、から、ぼくの目の前で…………もう二度と、誰も、死なないで……」
悲痛な声で、見つめ合いながらぼろぼろと泣いた心春は優しく願った。
「ぁっ」
遅れて、世界の異変に適応できない亜紅里がびくんっと体を震わせた。それでも立ち続ける亜紅里は苦しそうに顔を歪め、すぐに元の状態に戻る。
不思議そうに自分の体を見回して、最後の抵抗をするかのように右手をまっすぐに心春の方へと伸ばした。
「亜紅里、そのまま動くな!」
腰に下げていた《如月》を抜刀する。黄金色の光が滲んだそれを手に、結希は真正面から駆け出した。
明日菜が愛し暮らしている病院の屋上では、ところどころが誰のかもわからない赤く渇いた液体で汚れている。
少なくともそれは、亜紅里のものではなく。場所を考えたら心春のものでもなく、死闘を繰り広げたであろう自分たちの生徒会長──ヒナギクのものだった。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
手に灯していた最後の武器──狐火が消え、亜紅里は大きな天色の瞳で結希を見つめる。
心春や《カラス隊》の功績が大きい以上、ヒナギクが望んだ〝生徒会だけでの解決〟にはならないだろう。それでも、亜紅里はこの瞬間ようやく諦めたような表情をした。
両腕を左右に大きく広げ、天色の瞳を閉じる。
死を受け入れる時でさえ恐れのない表情で、陽陰町で一番の喜劇役者は自分が最初に傷つけた人間の一太刀を待った。
──や、れ。
最後に唇だけを動かして、きつく歯を食いしばる。
「うっ……! ああっ、ああああああああ!」
そんな亜紅里に応える為に、結希は全力で亜紅里の右腕を切り落とした。
赤き鮮血が外気と混じりあって飛び跳ねる。やがて、重力に従いどの赤き跡よりも大きな水たまりを作った。
「……あっ、あ?!」
亜紅里は必死に絶叫を噛み殺し、膝をついて倒れてもなお結希を睨み上げた。
「誰も殺すとは言ってないだろ」
心春が信じ、この日本刀が《如月》である限り誰も死なない。
『はい、ゆうくん。これは私の愛刀、《如月》。《如月》を私だと思って戦って』
アリアの力が長年に渡り込められた《如月》は、亜紅里の傷口を恐ろしい速さで塞いでいった。塞いだだけで元通りにはならず、切り取られた右腕は辺りに血を撒き散らして地べたに転がっている。
「……ッ、殺せ! 殺せよ! 私は! 裏切り者だ! 情けはいらない!」
亜紅里は這いつくばって怒鳴り続けた。
哀れとも惨めともとれない目で、結希は自分が知る亜紅里に話しかけるように口を開く。
「お前が思ってるほど俺はバカじゃねぇよ」
「なんで……っ、なんで!」
「殺したらヒナギクに握り潰されるからな。お前、俺がいない間にヒナギクと何か話したのか?」
無数の狐火が亜紅里を包み込んで、人間の姿に戻っていく。乱れた茶髪よりも、右腕がない空虚な袖の方が恐ろしかった。
「……いいや」
「ヒナギクは待ってる」
亜紅里はうつ伏せに倒れたまま結希から視線を逸らし、ぎょっと目を見開いた。
「なぁ、後ろ……」
結希も違和感を感じて疑いもなく振り返ると、力を使い果たして座り込んでいたはずの心春が立ち上がっていた。
心春はじっと、亜紅里が流した真新しい真紅の血だまりだけを見つめている。その様子がどこかおかしく、結希は「心春ちゃん?」と名前を呼んだ。
恐怖に引きつった視線は結希を捉え──
「……結希、さん」
──震える声で、彼女もまた結希の名前を呼んだ。
黄金色の文字列が心春の全身を包み込み、風が吹けば額の文字が顕になる。若草色の瞳は半妖時の緋色ではなく、綺麗な黄金色が輝きを放っていた。
「《言霊の巫女》だ……。なんで今さら……」
「なんだよ、《言霊の巫女》って……」
「《言霊の巫女》は、土地神の加護を唯一受ける小人が瀕死の時になる別の姿だ。……下手したら、本気を出した総大将よりも強い」
そのヒナギクを瀕死の状態に追い込んだ張本人は、また諦めたような瞳をした。亜紅里の諦めの意味がわからず、結希は心春を注視する。
心春の瞳は、虚ろだった。
「…………」
唾を飲み込む。亜紅里の正体を暴いた時よりも、心臓が早鐘を打っていた。
「……土地神が、心春ちゃんに力を送ってる」
「《言霊の巫女》の怖いところは、そこだ。言うことすべてが強力な言霊になって、場合によっては世界を滅ぼす」
結希は《如月》を真下に置いた。ベルトも外し、《如月》の上に置く。
「……おい、待てよ。何をする気だ?」
「助けに行く」
「お前は諦めないのか? 相手は自我のない、暴走してる《言霊の巫女》だ。例え幻術を使えても、私でさえ敵わない相手だぞ」
「あの子は敵じゃない。お前とは違う」
敵であってほしくなかった。それでも、結希の中で亜紅里は敵だという決着がついている。だからこそ、心春を最後まで敵だと認識したくなかった。
「本当の家族じゃない。赤の他人をお前は助けたいのか?」
「『助けて』って言われたんだ。心春ちゃんの本当の家族に、無事に連れて帰るって約束もした」
その信頼を無下にはできなかった。
亜紅里は固まり、無意識に入れていた力を抜いて空を仰いだ。
「…………あの子は、幻術で眠らせるべきだと判断させるくらい、ずっとお前の心配をしてた。私よりも数百倍いい子だ」
「何を今さら」
「…………わかってたけど、ゆうゆうって嫌いな人にはとことん塩対応だよね。つまりあたしが言いたいのは、心春ちゃんはあたしよりも生きる価値がある子だってこと」
口調を慣れ親しんだものに変えて、亜紅里は寝返りをうち結希に背中を向けた。
「…………何も失ってない人間が、命の価値を語るなよ」
大人なのに、失ったものが大きすぎて泣きじゃくっていた冬乃が脳裏を過ぎる。そして首を軽く横に振り、心春を見据えた。
「口を塞いで!」
振り切ったはずの声がした。
階段から顔だけを覗かせて、退路を確保しつつも冬乃が叫ぶ。
「暴走した《言霊の巫女》の制御方法は、口を塞ぐか自衛手段に出た要因を排除すればいいの! 心春ちゃんの場合は多分大量の血液! でもそれを誤魔化す為の幻術が使えないから、口を塞いで!」
心春のものと思われるカルテとにらめっこをし、冬乃は「急いで!」と身を乗り出した。結希は思いきり屋上を蹴り、距離を詰める。
結希の接近を確認し、心春──《言霊の巫女》は口を開いた。
「『土地神の加護を受けた精霊よ、我に力を与えたまえ』──」
「心春!」
短い呼びかけで少しでも言霊を遅らせる。
結希の作戦とも言えない策は功を奏し、その数秒で右手を心春の口元へと伸ばした。
「『吹き飛べ』!」
「ッ?!」
六十二キロもある体が容易く後方に吹き飛ばされる。衝突したフェンスは大きく歪み、支えていた柱が徐々に折れていった。
幸いにもぶつけたのは左肩で、庇いながら身を起こすと結希の体重でフェンスが沈む。
「……これで死んだらかっこ悪いな」
屋上の淵に立ち、呟いた亜紅里は結希を見下ろした。亜紅里は残された左腕で結希を掴んで引きずり出し、バランスが取れずにたたらを踏んで尻餅をつく。
「あぐ……」
「勘違いするな」
亜紅里は左手で前髪を梳いた。その表情は、今でも正しく読めない。
結希は亜紅里には触れず、もう一度心春の下へと走り出した。追い風が吹き、《言霊の巫女》を取り囲む無数の文字列の中に突入する。
手で口を塞ごうとして失敗した。
よく考えればそれは当たり前った。六年前、百鬼夜行が起きたその日に誘拐された心春が、誘拐犯に手で口を塞がれていないわけがない。
救いを求める言葉が出てこないのも、自分が誘拐されたせいで家族の足を引っ張ったからだとでも思っているのだろうか。
だとしたらそれは、とても心春らしい。
結希は心春の両肩を掴み、心春の聡明な瞳を覗き込んだ。
「いやぁっ!」
が、泉のように透き通っていたそれは結希を視認した瞬間に濁った。
心春は両腕で顔を覆い、振り解こうと左右に激しく揺れる。華奢な中学生の少女が男子高校生に力で敵うはずもなく、結希はただ愕然と、伸ばした手を離すこともできないまま彼女の抵抗を見つめていた。
当時小学二年生だったはずの心春も、誘拐犯相手に同じことをしたのだろうか。
結希は唇を噛み締めた。この状態の心春に自分が今何をしても、六年前の誘拐犯とやることが同じなのだと悟った。
「『ごめんなさいっ、ごめんなさいっごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!』」
言霊に乗せた謝罪の言葉が結希の耳を刺す。呼応するように、文字列で囲まれた球体の中だけが風で吹き荒れた。
「違う! 悪いのは男の方だ!」
だから心春が謝る必要はない。荒れ狂う風の中、疑いもなくそう言いたかったが──
「『ぼくがいなかったら、あの人は百鬼夜行に巻き込まれずに済んだのに……! ぼくがあんなことを言わなかったら、あの人は死なずに済んだのに……!』」
──六年前の真相は、結希が思っているほど甘くも……そして、優しくもなかった。
「『ぼくがあの人を……! あの人を……!』」
虚無の目から大粒の涙を流して、心春はありのままの苦しみを晒け出す。言霊となったそれは聞く者の感情を大きく揺さぶり、気づけば結希も泣いていた。
世界を滅ぼす力を持つ《言霊の巫女》が死者に向けた言葉は、止まることを知らず。保身の為ではなく、自分の言葉で心春がこれ以上傷つかないようにする為に結希は肩から手を離した。
そして手首を掴み、心春が取り返しのつかないことを言う前に──唇で塞いだ。
「……んっ!?」
熱を持った言霊が、唇を伝って体の中に流れてくる。その代わりに自分の中の力が心春に送られているのがわかった。
風は穏やかなものへと変わり、やがて抵抗を止めた心春の言霊が途絶える。
「…………」
手首を掴んだまま体だけを離すと、額に浮かんでいた文字も、黄金色の光も消えていた。安堵したのも束の間、呆然と若草色の瞳で結希を見上げて立ち尽くす心春と目が合う。
殴られるかもしれない──。いつものように身構えたが、待ち構えていた未来は違っていた。
「〜〜〜〜!」
反動からか言葉にもならない声を上げ、そんな心春が結希の首根っこに飛びついたのはその直後だった。必然的に腰を折り、心春に泣きつかれるままになる。
その涙に、恐怖や、痛みや、苦しみを感じさせるものはなかった。
どんなに不格好でも、心春にさせるがまま結希は彼女の頭を撫でた。




